ルノーのロゴの歴史と使っている書体
ビジネスに使えるデザインの話
ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています。
ルノーが使っている書体
ルノーがウェブサイトで使用している書体はNouvelR。
ルノーのロゴの歴史
ルノーは1899年にソシエテ・ルノー・フレール(Societe Renault Freres)という社名で設立されましたが、最初の自動車は1897年に発表され、その1年後に家族の友人に売却されました。 ブランドは正式に設立された翌年の1900年に最初のロゴを取得し、その100年以上の歴史の中で、ルノーのロゴデザインは何度も大きな変化を遂げてきました。 1920年代に有名になった形状になり、今日に至るまで修正し続けています。(*4)
1899 – 1906
初代ルノーのロゴは、エレガンスと繊細さを備えた、当時を代表するデザインでした。ルノー3兄弟のイニシャルを楕円形のメダルに刻み、2本のリボンをあしらっています。
1906 – 1919
最初のロゴは1906年に一新されました。 丸いフレームの歯車に囲まれた車のイメージになっています。より直接的で工業的なデザインになりました。
1919 – 1923
第一次世界大戦中、ルノーは戦車を製造しており、それが新しいブランドのロゴに反映されました。このロゴは4年間使用されました。
1923 – 1925
1923年、このエンブレムは、車体のグリルに取り付けられるようにデザインされました。
1925 – 1930
ロゴが最初のダイヤモンドのデザインになりました。 エンブレムが角張ったフォルムになり、ひし形になりました。 グリルのパターンは、ブランド名とともにロゴにとどまりました。1946年、ルノーはビジュアル・アイデンティティに黄色を使い始めました。
1930 -1945
1930年、ロゴは、幾何学的なダイヤモンドのアイデアはそのままに、よりシンプルに力強くデザインが一新されました。 縁取りはなくなり、黒がメインカラーとなり、太い平行線と、大胆な白抜き文字が入った中央のバナーに使用されました「ルノー」のロゴタイプは、太い線と重厚なセリフが特徴の力強くエレガントなセリフ書体の大文字で描かれています。
1945 – 1946
1945年のリデザインでは、ダイヤモンドをグレーで描き直し、細い黒のアクセントを加え、丸みを帯びたラインのクラシックな盾の上に配置されたものになりました。 紋章はグレーで輪郭が描かれ、上下の枠には幾何学的な装飾が施されています。 ダイヤモンド自体は横縞模様で、黒のサンセリフ体で「Regie Nationale Renault France」と4段に刻まれました。
1946 – 1958
1946年、ルノーのビジュアル・アイデンティティから紋章が削除され、象徴的なエンブレムが再び単一の要素として使用されるようになりました。 ルノーのダイヤモンドは、黄色、白、黒のカラーパレットで描かれるようになり、喜び、明るさ、幸福感を呼び起こすものとなりました。 黒の細い水平線には、大胆でモダンなサンセリフの大文字が添えられました。
1958 – 1967
次のリデザインは1959年に行われました。 ワードマークはそのままに、より繊細なレタリングに変更されました。 ダイヤモンドも洗練され、より細くエレガントになり、フランス語で「ダイヤモンドの先端」を意味するポワント・ドゥ・ディアマンテ(Pointe de Diamanté)という新しい名前が付けられました。
1967 – 1972
1967年、デザイナーたちによってルノーのビジュアル・アイデンティティにまったく新しいコンセプトが導入されました。 鮮やかな黄色の正方形に、2本の白い矢印のような図形が斜めに配置され、ネガティブ・スペースに黄色のひし形を作り出しています。2本の黒い水平線で囲まれた黄色の正方形の下には、伝統的な太字のサンセリフの大文字で黒く絞られた「Renault」の文字。
1973 – 1982
1972年、ルノーは有名な芸術家ヴィクトール・ヴァザルリー(Victor Vasarely)にロゴのデザインを依頼。ブランド名はロゴから取り除かれました。
1982 – 1990
1982年のデザイン変更では、ダイヤモンドに白のタッチが加えられ、イエローの色調はよりダークなものに変更され、ロゴタイプの書体もエレガントで安定感のあるセリフ体に変更されました。
1990 – 2004
1992年、ブランドのビジュアル・アイデンティティが再び刷新されました。 シンボルマークはより力強く、よりまともなものになり、形状は立体化しました。 エンブレムの下にはルノーの名前が太いセリフ体で描かれましt.このロゴは今日のルノーのロゴのベースとなりました。
2004 – 2007
エンブレムは少しモダンになり、ワードマークは新しい書体になりました。 黄色の正方形はロゴの背景として登場した。ブランド名は黒で描かれ、エンブレムの明るい背景やシルバーの色調とコントラストをなしています。
2007 – 2015
ワードマークのデザインはエリック・デ・ベランジェ(Eric de Berranger)。
2015 – 2021
2018
2021 – Today
2021年、ロゴはよりミニマルなものにリデザインされました。2本の太い線で描かれたモノクロームのダイヤモンドで構成され、鎖が編まれているような印象を与えています。 ロゴタイプはプライマリー・バージョンから削除されましたが、ブランドのニーズに応じてエンブレムに付随させて使用されています。
ルノー
ブランド名:ルノー(Renault)
国: フランス、ブローニュ=ビヤンクール
創業:1899年
創業者:ルイ・ルノー(Louis Renault)
所有者:
フランス政府 (15.01%)
日産自動車 (15.0% 相互所有)
パブリックフロート (62.74%)
ルノー(Groupe Renault)は、フランスの多国籍自動車メーカー。
様々な自動車やバンを生産しており、過去にはトラック、トラクター、戦車、バス、航空機および航空機エンジン、オートレール車両を製造していました。国際自動車工業連合会による2016年のルノーは生産台数で世界第9位でした。
2017年、ルノー・日産・三菱アライアンスの自動車の販売台数で、ドイツのフォルクスワーゲン・グループについで世界第2位とりました。 ただし、ルノーが保有していた日産自動車の株式が15%に引き下げられたため親会社ではなくなるも、提携は継続されています。
概要
1898年にフランス人技術者のルイ・ルノー(Louis Renault、1877年 - 1944年)とその兄弟によって「ルノー・フレール(ルノー兄弟)」社として設立されました。
ルノーはパリ市からタクシーの大量生産を受注して大量生産に移行しました。現在はおもに中小の乗用車や商用車を手がけています。過去には商用車専門の子会社のルノーV.Iで大型トラックや軍用車両の生産、第二次世界大戦前は航空機やボートも生産していました。
1945年に国営化。1970年代以降、PSA・プジョーシトロエンと並んでフランスの二大自動車企業の一角を占め、先進的なデザインと優れた安全性能、高品質が高い評価を受け、1998年以降2004年まで連続でヨーロッパ第1位の販売台数を維持しました。現在でもフランス政府が筆頭株主です。
2011年現在、韓国のルノーサムスン自動車、ルーマニアのダチア、ロシアのアフトヴァースの株式を保有し、これらを傘下に収めています。また日本の日産自動車とお互いの株式を持ち合い名目上は対等の「ルノー・日産自動車・三菱自動車」を構成していますが、日産はフランスの国内法の制限により議決権を行使できなかったため、ルノーが事実上傘下に収めていました(2023年に関係見直しを行い、日産への出資比率を44%から15%に引き下げ、対等な資本関係となりました)。
これらの傘下に収めたグループ企業を含めると、2011年度の新車販売台数の実績では、日本のトヨタグループを抜いて、アメリカのGMとドイツのフォルクスワーゲングループに次いで世界第3位の規模の会社となる。また商用車製造社の世界的再編では、商用車専門の子会社のルノーV.Iをボルボに売却する一方、ボルボの株を20%保有し影響力を保持している。
創業者、ルイ・ルノー(Louis Renault)
ルイ・ルノー(Louis Renault、1877年2月15日 フランス・パリ - 1944年10月24日)は、フランスの実業家で、ルノー社の創設者。自動車産業創成期のパイオニアの1人。
ルイ・ルノーはパリのブルジョワ家庭に、5人兄弟の4番目として生まれ、名門リセ・コンドルセに通いました。彼はごく幼い時から工学や力学に魅せられていました。セルポレ社の蒸気自動車工場で長い時間を過ごしたり、ブローニュ=ビヤンクールのルノー家の別荘にあった工具で、古いパナール社製エンジンをいじったりしていました。
彼が1898年(22歳)に初めて作った車は画期的なものでした。ド・ディオン=ブートンの2ストロークエンジンを改造した彼の車は、きれいに継ぎ合わされたドライブシャフト、前進3段と後退のトランスミッションを特徴としていました。特に3段目のギアはダイレクトドライブ(直結)となっており、彼は1年後特許も取得しています。ルノーは自分の車を『ヴォワチュレット( Voiturette 、小さな車)』と呼んでいました。
1898年12月24日、彼は友人と、自分の発明した車がモンマルトルのレピック通りの坂を登りきれるか賭けをして勝利しました。賭けに勝っただけではなく、ルノーはわかっているだけでも13の車両注文を受けました。自分の発明に商業的な可能性があることを知り、ルノーは、父の紡績会社で働いていた2人の兄マルセル(1872 - 1903)とフェルナン(1865 - 1909)に協力を呼び掛けます。彼らは1899年2月25日(23歳)、ルノー兄弟社を設立しました。最初は営業や経営はすべて兄たちが計らい、ルイはデザインや製造に専念していました。しかし1903年のパリ - マドリード自動車レース(Paris–Madrid race)でマルセルが事故死し、1908年にはフェルナンが健康上の理由で会社から手を引くと、ルイが会社運営全般を取り仕切るようになりました。
ルノーは1942年(65歳)まで会社の指揮を執り、その急速な拡大に対処する一方で新たに、油圧ショックアブソーバーや最新ドラムブレーキ、圧縮ガス点火、ターボチャージャーといった、今日にまで使用され続けるような装置をいくつか発明しました。
第一次世界大戦の終結後、有名な革命的戦車ルノー FT-17など軍事面での貢献に対し、彼はレジオンドヌール勲章を受勲しました。
両大戦の間、彼の右翼的見解がよく知られる一方で、ブローニュ=ビヤンクールの従業員は先鋭的プロレタリアートに染まり、さまざまな労働争議が起きました。彼はヨーロッパ諸国間での組合の必要性を訴えました。
1939年(62歳)、ルノー社は第二次世界大戦のため、再びフランス軍にとって最も重要な調達先の一つとなりましたが、フランスは1940年に陥落しました。
第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領期間に、ルノー社はドイツの接収に遭い、ダイムラー・ベンツ社から人材が派遣されて重要なポジションに就きました。会社の生産性は微々たるもので1939年5月分の1/3にも満たないものでしたが、これは生産遅延の試みのためでもありました。にもかかわらず、ルノーの評判はフランスのレジスタンスの間で悪化していきました。1942年3月(65歳)の連合軍による空襲で工場が破壊された後、ルイは失語症を患い、話すことも書くこともできなくなりました。
1944年にフランスが解放されると、彼はナチス・ドイツとの産業利敵協力のコラボラシオンで告訴逮捕されました。1ヶ月後にルイは死亡、フレンヌ刑務所で虐待があったのだと言われています。外傷性脳挫傷、重度尿毒症が観察されていましたが、なんの調査もなされませんでした。
3ヵ月後ルノー社は国営化され、コラボラシオンの非常に不愉快な公式例となりました。注目に値するのはこの接収が、判決書もないまま既に死亡した人間に適用され、法の支配とフランス司法上の原則に反する状況で行われた点にあります。大戦中に実際の工場を監督していた責任者は、1949年、彼と工場は利敵協力していたわけではないという判決を勝ち取り、1967年にはルイの息子で唯一の相続人ジャン=ルイ・ルノーが若干の賠償を勝ち取りました。しかし、ルイ本人の名誉が公式に回復されることはありませんでした。
ルノーの歴史
ヴォワチュレット
フランスのパリ郊外に住む若いアマチュア技術者であったルイ・ルノーは、1898年にド・ディオン・ブートン3輪車を4輪式に改造する取り組みの過程で、現在のプロペラシャフト式フロントエンジン・リアドライブ方式(FR)の原型である「ダイレクト・ドライブ・システム」を発明しました。
この斬新な機構でルイ・ルノーは1899年にフランス特許を取得、ほどなくフランス中の自動車会社に模倣されることとなり、1914年に特許が切れるまでの間に当時の金額で数百万フランを越える莫大な特許料がルノーに転がり込みました。
1899年にはこの機構を搭載した小型自動車「ヴォワチュレット」(Voiturette )を市販し、商業的成功を収めたことを受け、ルイは兄のマルセル、フェルナンとともに同年10月に「ルノー・フレール」社(ルノー兄弟社)を設立しました。
その後は事業規模の拡大に合わせ、1904年にはフランス国内に120店舗の販売代理店網を構えるなど、事業基盤を強固なものにしていきました。先進諸国のモータリゼーションの拡大により、イギリスやドイツ、日本など諸外国への輸出も開始したほか、ロシアに工場を建設するなど急激にその生産台数を伸ばしていきました。
生産規模の拡大
1900年代以降は、小型車を中心とする量産政策によって生産規模が拡大したことから、先に創業されたプジョーなどを追い抜きフランスで最大の自動車製造会社となりました。
第一次世界大戦前後にはルノー FT-17 軽戦車などの戦車や装甲車、トラックなどの軍用車両や、飛行機および航空用エンジン、さらには小型船の開発・生産を行うなど、その事業範囲を拡大していきました。また、このころから日本やオーストリア・ハンガリー帝国、アメリカ合衆国などへ販売代理店を通じて本格的な輸出を開始したほか、ロシア帝国での生産を開始するなど、世界各国へ積極的に進出しました。
なお1900年代から1930年代初頭までのルノーは、エンジンの直後にラジエーターを置く独特の方式をとっており、前頭部に他社のような垂直のフロントグリルがない、変わった形態が特徴でした。
これはウォーターポンプによる冷却水の強制循環機構に信頼を持てなかったルイ・ルノーが、温度差を利用する古典的なサーモ・サイフォン式(対流式)に長くこだわってラジエーター位置を制約した結果で、冷却機構の直接のトラブルは少なかったものの、客室内に熱が多く伝わり、また、冷却水量も多く要するなど、効率面では決して有利な手法ではありませんでした。1930年代末期に至るまで、ルノー車の多くはサーモ・サイフォン式冷却機構で生産され続け、また動弁機構もほとんど一貫して効率の悪いサイドバルブ式のままでした。
マルヌのタクシー
パリの辻馬車会社は、フランスにおける自動車の普及を見て、1905年からいち早く自動車化(タクシー)へのシフトを開始しました。ルノーが1905年当時生産していた最小モデルの2気筒1060cc車「8CV」がタクシー用車種に選定され、のべ1,500台に達するオーダーが入りました。これにより、1900年代後期には小型のルノー・タクシー多数がパリ市街を往来するようになりました。
第一次世界大戦が勃発してから間もない1914年9月初旬、ドイツ陸軍はフランス領内に侵攻し、パリにほど近いマルヌ川まで到達しました。ここでドイツ軍を止めようとするフランス陸軍との間で「マルヌ会戦」と呼ばれる凄絶な激戦が展開されましたが、防衛するフランス側は当初形勢不利でした。鉄道輸送だけでは前線への兵士の増援が足りなかったためです。
パリ軍事総督として首都防衛にあたっていたジョゼフ・ガリエニ将軍は、ここでかつてない奇策を打ち出しました。パリ市内を走るタクシーを緊急に大量チャーターし、兵員輸送に充てることにしたのです。動員に応じ、600台ものルノー・タクシーがドライバーとともに集結しました。9月7日深夜、完全武装のフランス軍兵士5名ずつを載せ、ヘッドライトを消したタクシーの車列がパリ - マルヌ間を2往復しました。結果、一夜にして6,000人の兵士がフランス側前線に増援され、ドイツ軍の猛攻は食い止められました。
この「ルノーのタクシーの働きでパリが守られた」という逸話によって、その後パリを走るルノーのタクシーは「マルヌのタクシー」(Taxi de la Marne )と呼ばれることになりました。自動車の軍事的重要性を世に知らしめたエピソードのひとつでもあります。
両大戦の狭間
第一次世界大戦の終戦後にはルノーをめぐる情勢にも変化が生じました。戦闘用車両や武器生産という特需がなくなったうえ、イギリスやドイツなどからの輸入車の増加によりフランス国内の販売競争が急激に激化したためです。
また競合メーカーのプジョーや後発メーカーのシトロエンなどが、生産車種を減らして量産効果を追求する手法で急速に追い上げをかけてきたのに対し、ルノーは世界恐慌下の厳しい経済事情にあっても、4気筒小型大衆車から巨大な8気筒高級車に至るまでの多様なボディバリエーションを伴う多車種少量生産を継続し、1930年代にはその地位をフランス第3位に後退させてしまいました。
さらに老年に達したルイ・ルノーは保守的な設計思想に傾くようになり、1920年代末期に至っても第一次大戦直前レベルから大差のない、古典化したレイアウトの低効率なモデルがラインナップの多数を占めてしまいました。
機械式ブレーキサーボだけは早くから導入しましたが、当時導入が急速に進んだ独立懸架も油圧ブレーキも、ルノーへの導入は競合他社に比べて大きく遅れました。製品の品質こそ優れていたものの、業界をリードする製品を作るメーカーではなくなっていました。
それでも老舗メーカーとしての信用は厚く、高級車分野では当時フランスに多数存在した高級車専門メーカーにも劣らぬステータスを守りました。6気筒9.1Lの「40CV」(原型は1913年発表で7.5L、1919年型で排気量拡大)とその後継車である8気筒7.1L「レナステラ」(1928年)、8気筒5.5L「ネルヴァステラ」(1934年)といった巨大な高級モデルは、フランスの大統領専用車として1910年代から1930年代に一貫して用いられました。ラジエーターもようやく1930年前後からノーズ最先端配置となり(しかし相変わらずポンプなしのサーモ・サイフォン式)、ブレーキサーボの装備も行われました。
ルノーにようやくモダンな設計手法が取り入れられたのは1937年発表の1,000cc級小型大衆車「ジュヴァキャトル」で、モノコック構造とウィッシュボーン式の前輪独立懸架を採用、全体的には1935年に発表されたドイツのオペル・オリンピアの亜流ともいうべきコンセプトではありましたが、1939年までに3万台近くを売り上げるヒットとなりました。しかし、その先進性が他のモデルに波及する以前に、ルノー社は危機的事態を迎えます。
第二次世界大戦
1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦において、戦争への準備がほとんど整っていなかったフランスは緒戦から敗北に次ぐ敗北を重ねました。1940年6月にはドイツ国防軍がパリを占領し、まもなくフランス全土はドイツの占領下に入ってしまいました。
この事態を受け、ルイ・ルノーは工場と従業員を守るために、やむなくドイツの占領軍とその傀儡政権・ヴィシー政権に協力することになりました。しかしその結果、ルイ・ルノーは1944年の連合国軍によるフランス解放後に対独協力者として逮捕され、同年10月、失意のうちに獄中で病死しました。一説には対独協力者として憎まれ、獄中で虐待・暴行を受けた結果の死とも言われています。
なお、大戦中の1942年から1943年にかけて主力工場のひとつであるビヤンクール工場がアメリカ・イギリス両軍の爆撃を受けて深刻な被害を受けたほか、戦争によるインフラの破壊により、生産設備や販売網が壊滅的な打撃を受けました。
国営化
第二次世界大戦中に創業者の死と生産設備の破壊という苦難に陥ったルノーは、大戦終結後の1945年に、大戦中の亡命政権・自由フランスの指導者で、新たにフランスの指導者となったシャルル・ド・ゴール将軍(のちの大統領)の行政命令により国営化のうえ、「ルノー公団(Regie Nationale des Usines Renault )」に改組され、エンジニア出身のピエール・ルフォシュー総裁の指揮のもとで戦禍により破壊された生産設備や販売網の復興を進めると同時に、戦前から行われていた新型車の開発を続行することとなります。
4CVの成功
フランスは戦勝国となったものの、連合軍の度重なる空襲を受け各地の工場施設が破壊されていただけでなく、工場を稼動させるためのインフラの整備や資材の調達にも事欠く状況でしたが、従業員の士気は高く、終戦後わずか1年しか経っていない1946年のパリサロンで、フェルナン・ピカール技師が戦時中から開発を進めていた小型車「4CV」を発表し、翌年から発売しました。
4CVは廉価かつ経済的であったうえ、当時としては優れた走行性能を備えていたことから、大衆ユーザーの広範な支持を受けました。戦後のヨーロッパにおいてベストセラーとなったほか、アメリカでも多くが販売されました。
その結果、1961年までの間に110万5,547台が生産され、フランスで初めて100万台を超えて生産された車種になりました。日本でも日野自動車が1953年から「日野ルノー」の名でライセンス生産し、その多くがタクシーとして使用されたことから、一躍日本中にルノーの名が広まりました。
また、ミニマムな小型車でありながらル・マン24時間レースやミッレミリアなどの国際レースでも活躍するなど、4CVは第二次世界大戦後のルノー復興の立役者となった。
小型車
第二次世界大戦後の復興期における「4CV」の大ヒット以後、ルノーは特に小型車の分野において実績を上げました。
1955年2月に死去したピエール・ルフォシュー総裁の後を継いだピエール・ドレフュス総裁指揮のもと、「4CV」の系譜を引く「5CVドーフィン」や「8」などのリアエンジン小型車に続いて1960年代以降は「4」や「6」などの前輪駆動(FF)方式の小型車を多数送り出しました。特に「4」の大ヒットは、当時行ったアメリカ進出の失敗により苦境に陥った経営を助けることになりました。
他にも「カラベル」や「フロリド」などのスポーツタイプの車種にバリエーションを広げたほか、1966年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した「16」や、「12」などの比較的収益性の高い中型車もヒットさせ、これらの相次ぐヒットによりヨーロッパ有数の自動車メーカーとしての地位を不動のものとしました。
先進技術の導入
フランスの多くの自動車会社の例に漏れず、ルノーも古くから技術的、デザイン的なチャレンジに対して積極的です。1962年に発表されたリアエンジンの小型車「8」には、大量生産車として世界初の4輪ディスク・ブレーキを採用するなど、当時の最新技術を惜しげなく導入し高い評価を受けました。その後1965年に発売された「16」は、世界初のハッチバックスタイルを持つ中型車としてヨーロッパ中でヒットし、1979年までの長きにわたり生産されました。
1972年に発売されたFF駆動方式のハッチバック小型車である「5」とその後継の「シュペール5」(1985年発売)は、その先進的なデザインと高い実用性、経済性が広く受け入れられて、ヨーロッパだけでなく世界中で大ベストセラーとなりました。またこのモデルは量産市販車としてはもっとも早い時期に樹脂製の前後バンパーを採用しています。
1982年にはフエゴに世界で初めて赤外線リモコン操作による施錠装置(キーレスエントリー)を採用しています。これは、当時のルノー車はドア用とイグニッション用の2種類のキーを使用しなければならなかったため、その不便を解消する目的で開発されたものでした。(同時期に、同様の目的でフォード/リンカーンの一部車種にもキーレスエントリーが採用されています。ただし、こちらは運転席ドアハンドル付近にあるキーパッドに暗証番号を入力する方式でした)。
「モノスペース・コンセプト」
また、1984年に発売された、ヨーロッパの自動車メーカーとしては最初の本格的ミニバン「エスパス」は、その未来的で斬新なデザインと実用的で広々とした室内スペース、高い経済性がフランスやイギリス、西ドイツをはじめとするヨーロッパの消費者に受け入れられて大ヒットモデルとなりました。
エスパスがヒットしたことでヨーロッパ中でミニバンブームを巻き起こし、ヨーロッパの多くの自動車メーカーがそのコンセプト(ルノーでは「モノスパッセ・コンセプト」と呼んでいる)を模倣することとなった。なお、その後もルノーはエスパスの後継モデルをヒットさせているほか、セニックなどのミニバンのヒット作を出しています。
アメリカン・モーターズ買収
1979年には、スケールメリットとアメリカ市場への本格的進出を狙い、1960年代初頭から提携関係にあったアメリカ第4位の自動車会社、アメリカン・モーターズ(AMC)を買収し、「5」(アメリカ仕様は「ル・カー」の名で販売され、フランス国内でも一時期同名で販売されました)や、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもある「9」(同「アライアンス」)、「11」(同「アンコール」)、「フエゴ」などの複数のモデルを擁し、1950年代後半の撤退から10数年を経て再度北アメリカ市場に本格的に参入しました。
アメリカン・モーターズの販売網を使ってアメリカとカナダ全土で大々的に発売を開始したものの、先に参入していた日本車やアメリカ製小型車との競争で苦戦したうえに、ルノー本体の経営不振もあり、最終的に1987年に当時のクライスラーにアメリカン・モーターズを売却し、北アメリカ市場から撤退しました。なお、アメリカン・モーターズの売却後もクライスラーとの提携に基づき、1991年までクライスラー(イーグル)ブランドで「21」などのルノー車の販売が継続されました。
民営化
1986年11月17日には、アメリカ進出失敗などによる財政再建への打開策の一環として、民営化に向けた舵取りを取っていた当時の会長のジョルジュ・ベスが、パリの自宅の玄関前で左翼テロ集団のアクション・ディレクト(Action directe)に暗殺されるという悲劇が起きました。
その後、ベスの後を継いで会長に就任したレイモン・レヴィとルイ・シュヴァイツァーの指揮のもと、スケールメリットを狙って1990年2月にスウェーデンの大手自動車メーカーであるボルボと業務・資本提携することを決定し、これを機会に第二次世界大戦直後から45年間続いた公団体制から株式会社に改組されました。また、同1993年9月にはボルボとの完全合併案が発表されましたが、フランス政府の干渉にボルボ側の経営陣や株主、従業員などが態度を硬化したことにより交渉が決裂し、同年12月には合併が正式に撤回されてしまいました。
ボルボとの合併案は撤回されたものの、その後もフランス政府は株式を売却し続け、会長の暗殺や労働組合の反対という困難を乗り切って1996年には完全民営化を果たしました。2016年時点で、フランス政府の持ち株比率は約19%。フランス政府はその後も筆頭株主であり続けています。
日産自動車を傘下に
1999年3月27日に、当時深刻な経営危機下にあった日本第2位の自動車会社である日産自動車を傘下に収めることが発表されました。その後、同社と相互に資本提携し、ルノーが日産自動車の株を44.4%、日産自動車がルノーの株の15%を所有するという形で株を持ち合い、ルノーが日産自動車に経営陣を送り込むなど、事実上の親会社となったルノー主導で経営再建に着手しました。
当時の取締役会長兼最高経営責任者(PDG)であるルイ・シュヴァイツァーによって日産自動車の最高経営責任者(CEO)として送り込まれた副社長のカルロス・ゴーンとそのチームが、同年10月に発表された「日産リバイバルプラン」計画のもと、東京都武蔵村山市にある村山工場や京都府宇治市の日産車体京都工場(当時。現・オートワークス京都)などの余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減、子会社の統廃合や取引先の統合によるコスト削減や車種ラインナップの見直しなどのリストラを行うと同時に、新車種の投入や国内外の販売網の再構築、インテリアおよびエクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新などの大幅なテコ入れを敢行しました。
当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさなどを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行く先を危惧していました。しかし、最終的には提携前の1998年には約2兆円あった日産自動車の有利子負債を2003年6月に返済し終え、再建を成し遂げました。
両社の間で言葉通りのアライアンス関係を構築し、車台やエンジン、トランスミッションなどの部品の共通化、購買の共同化などを通じてコストダウンを図っているほか、メキシコなどいくつかの国ではルノーの車を日産ブランドで販売したり、その逆を行うなど、アライアンスの内容は多岐にわたっています。2005年1月にはルイ・シュヴァイツァーが「2010年までに日産自動車とともに世界市場の10%のシェアを確保し、年間400万台の生産を達成する」という目標を掲げました。
その後、2005年5月に日産自動車の社長兼最高経営責任者(CEO)を務めていたカルロス・ゴーンが、公団時代の1992年より13年間の長きに渡り取締役会長兼最高経営責任者(PDG)を務めたルイ・シュヴァイツァーに代わり、ルノーの9代目の社長兼最高経営責任者(PDG)に就任し(日産の社長兼CEOも兼務)、それを受けシュヴァイツァーは取締役会長(PCA)に就任(2010年6月23日に退任)しました。
2000年代以降
その後、デザイン担当副社長のパトリック・ルケモン(Patrick le Quément、2011年現在は引退)による斬新なデザインや、品質と安全性の向上が市場で好評を博したことにより、小型車メガーヌやクリオ(日本市場では「ルーテシア」の名で販売されている)、MPVのカングーやセニック、エスパスが大ヒットするなど、再びフランスのトップブランドに返り咲いただけでなく、1998年以降6年連続でヨーロッパ市場でトップの販売台数を誇っていました。近年ではアフリカやメルコスール市場を中心とした南アメリカ、アジアなどでの売り上げが伸びています。
2005年11月には、ヨーロッパでもっとも権威のある自動車賞である「2006年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー」を発売されたばかりのクリオが受賞しました。なお、ルノーにとって同賞を受賞するのは2003年のメガーヌ以来3年ぶり6度目、クリオとしては1991年以来2度目で、同車種が2度同賞を受賞するのは史上初のことでした。
2006年2月9日には、関連会社の日産自動車に対するリストラのような従業員の解雇を行わずに、2009年の販売台数を2005年の約250万台から80万台多い330万台とし、2009年の売上高に対する営業利益率を6%にするという内容の中期経営計画「ルノー・コミットメント2009」を発表しました。この計画の中には、2009年までにルノー初のSUVを含む26車種の新型車の投入が含まれ、2007年内だけで初の本格的SUVであるコレオスやラグナ3、カングー2が新たに投入されました。
2008年には、2012年までに複数のルノーブランドの電気自動車(EV)を市場投入することも発表されましたが、これに先立つ2011年には、複数の幹部が電気自動車関連の機密情報を中華人民共和国の企業に漏えいさせたとして解雇される騒動が起きました。
2013年には、それまでのパトリック・ルケモンに代わって、マツダのデザイン本部長から転籍したローレンス・ヴァン・デン・アッカーが初めて指揮を執った、ルノーとしてはコレオスに次ぐクロスオーバーSUVであるキャプチャーが登場しました。
2016年、傘下の日産自動車が三菱自動車工業の筆頭株主となったことを受け、当社のカルロス・ゴーン取締役会長兼CEO(PDG)が同社の会長に就任しました。
2020年代
2020年前半、世界的な2019新型コロナウイルスの感染拡大により顕著な景気減退に直面。同年4月9日、スナール会長とデルボス暫定CEO、3ヶ月間の報酬を25%以上削減するとともに4月に予定されていた株主総会を6月19日に延期することを発表。結果的に2020年12月期決算は、純損益が80億800万ユーロの赤字となりました。赤字は2年連続で額は2000年以降では過去最悪。
2020年、東風汽車との主力合弁を解消し、同時に東風ルノーも解散。
2021年、中国大手の浙江吉利控股集団(吉利)と中国、韓国でハイブリッド車の合弁事業に乗り出すことで合意。翌2022年5月には吉利にルノーコリア自動車の株式を約13億7600万元(約270億円)で売却し、吉利は同社株の34.01%を取得し、ルノーに次いで2番目の株主となりました。
2022年5月、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ルノーはアフトヴァースの株式約68%をロシアの国営企業である中央自動車エンジン科学研究所に、ルノーのロシア事業を担当している現地法人「ルノー・ロシア」の株式の全てをモスクワ市に1ルーブルでそれぞれ売却し、ロシアから撤退することを明らかにしました。なお、アフトヴァースの売却契約には6年以内に同社の株式を買い戻す権利を盛り込んでおり、今後の情勢次第で将来のロシア国内での事業再開もあり得るとしています。
2022年11月8日、 Googleと自動車向けソフトウェアサービスで提携を拡大すると発表。
2023年2月6日、ルノーが保有する日産株を15%まで下げ、日産が持つルノー株の15%に揃える資本関係の見直しで合意したと発表しました。
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