《週末アート》きれいな顔して性欲が強くて政治に長け、才能ありまくりのラファエロ
《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
ラファエロ・サンティ
ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)。
生没:1483年4月6日 - 1520年4月6日(没37歳)
国:ウルビーノ公国・ウルビーノ
盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。
ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれています。
ラファエロは、異例なほどに大規模な工房を経営しており、短い生涯に多数の作品を制作しました。
多くの作品がヴァチカン市国のヴァチカン宮殿に残されており、とくに「ラファエロの間」と総称される4部屋のフレスコ画は、ラファエロの最盛期作品における最大のコレクションとなっており、もっとも有名な作品の一つの『アテナイの学堂』も「ラファエロの間」のうち「署名の間」と呼ばれる部屋のフレスコ壁画です。
ローマでの活動時代初期に描かれた作品の多くは、デザインこそラファエロのものでも、下絵以外の大部分は工房の職人が手がけたもので、ラファエロが最後まで自身で手がけたものよりも品質の面で劣るといわれています。
ラファエロは、存命時から高い評価を受けた影響力の高い芸術家でしたが、ローマ以外の地ではラファエロの絵画やドローイングをもとにした版画でよく知られていました。
ラファエロの死後、年長だが長命を保ったミケランジェロの作品が18世紀から19世紀にいたるまで西洋絵画界により大きな影響を与え続けましたが、ラファエロの穏やかで調和に満ちた作品も非常に優れた模範的作風であると評価されていました。
マニエリスム期の画家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511-1574)の著作『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述を嚆矢(こうし)として、ラファエロのキャリアは3期に大別されることが多くあります。
ウルビーノで活動していたキャリア初期
フィレンツェの伝統的絵画の影響が見られる1504年(21歳)から1508年(25歳)にかけての4年間
そして死去するまでの二人のローマ教皇とその側近に緊密な後援を受けていたローマでの12年間
ラファエロ・サンティの生涯
誕生
1483年にラファエロは、小国だが美術史上重要な中央イタリアの都市国家ウルビーノ公国(現在のマルケ州北部)※に、ウルビーノ公宮廷画家ジョヴァンニ・サンティ (Giovanni Santi) の息子として生まれました。
傭兵隊長として活躍し、ローマ教皇シクストゥス4世からウルビーノ公爵位を叙爵(じょしゃく)したウルビーノ公フェデリーコ3世は文人を庇護した君主で、フェデリーコ3世のもと当時のウルビーノ宮廷文化は高い評価を受けていました。フェデリーコ3世はラファエロが誕生する一年前の1482年に死去しており、当時のウルビーノ宮廷では芸術よりも文学のほうがより重視されていました。
ラファエロの父ジョヴァンニは画家であると同時に、フェデリーコ3世の生涯を物語る韻文詩を書き上げるほどの一種の詩的才能も持っており、宮廷の出し物として上演される仮面劇の脚本と舞台装飾を手がけることもありました。
フェデリーコ3世に捧げたジョヴァンニの詩からは、当時美術の最先端だった北イタリアの画家たちと初期フランドル派の画家たちに強い興味を持っていたことが窺えます。他国の宮廷と比べて小規模だったウルビーノ宮廷だったがゆえに、ジョヴァンニは、他国の宮廷画家たちよりも君主一家とより親密な関係を築いていました。
フェデリーコ3世の後を継いでウルビーノ公爵となったのは息子のグイドバルド。グイドバルドは、小国とはいえ当時のイタリアでもっとも音楽と芸術が盛んだったマントヴァの君主フランチェスコ2世の妹エリザベッタ・ゴンザーガと結婚しました。この君主夫妻のもとでウルビーノ宮廷は、フェデリーコ3世統治時と同じく文学の中心地であり続けました。高い文化的水準を有するウルビーノ公国宮廷での生活を通じて、ラファエロは、洗練されたマナーと社交的性格を身につけていったとヴァザーリは記しています。
1504年(21歳)からバルダッサーレ・カスティリオーネがウルビーノ宮廷に出仕(しゅっし)しており、カスティリオーネは人文主義溢れるウルビーノ宮廷での生活をモデルとして、後の上流階級層の規範となる著作『宮廷人』を1528年に出版しています。
カスティリオーネがウルビーノ宮廷に仕えだした1504年には、すでにラファエロはウルビーノ宮廷を主たる活動の場とはしていませんでした。それでもウルビーノ宮廷にはよく顔を出しており、カスティリオーネともよき友人関係を築いていました。
その他にもラファエロはウルビーノ宮廷を訪れる多くの知識人たちと親しく交わっていました。とくに著名な文学者だったベルナルド・ドヴィツィ(Bernardo Dovizi)とピエトロ・ベンボ(Pietro Bembo)は、後年両者とも枢機卿(すうききょう)に任ぜられてローマに滞在し、同じく後年ローマに移住したラファエロと親交を持ち続けました。
生涯を通じてラファエロは上流階級との交際が巧みで、このことがラファエロの画家としてのキャリアが順風満帆だったと思わせる要因の一つとなっています。
ちなみにピエトロ・ベンボの名は、書体「Bembo」の書体名の由来です。
若年期
ラファエロの母マージアは、ラファエロが8歳の1491年に死去し、その後再婚していた父ジョヴァンニも1494年、ラファエロが11歳のときに死去しています。11歳で孤児となったラファエロの後見人となったのは唯一の父方の伯父で、聖職者のバルトロメオ。
ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』によれば、ラファエロは幼少のころから芸術の才能を見せ、宮廷画家だった父の仕事の「大きな手助け」になるほどでした。
10代で描いたといわれる美しいドローイングの自画像からも、その芸術的才能の片鱗がうかがえます。
父ジョヴァンニの死去後も父の工房は続いており、おそらく義母と協力して幼少のラファエロも工房の経営に何らかの役割を果たしていたようです。
当時のラファエロは、ウルビーノで宮廷画家を務めたパオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello)や、1498年(15歳)までウルビーノに近いチッタ・ディ・カステッロで活動したルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli)の絵画作品を目にする機会がありました。
ヴァザーリの伝記では、父ジョヴァンニが「母親の嘆きを振り切って」幼いラファエロを、ウンブリア派の画家ペルジーノの工房に弟子入りさせたとなっています。当時のペルジーノはペルージャとフィレンツェに工房を持っており、おそらく他にも2箇所で常設の小工房を経営していたと考えられています。
ラファエロの初期作品におけるペルジーノの影響は明らかで「おそらくはラファエロほどに師(ペルジーノ)の教えを吸収できる才能を持った弟子はいなかった」とされています。
ラファエロが、ペルジーノの徒弟期間を終えて「マスター」として登録されたのは1501年(18歳)のとき。
記録に残るラファエロの最初期の作品は、ペルージャとウルビーノの中間にある町チッタ・ディ・カステッロのサン・タゴスティーノ教会の礼拝堂用に描いた『バロンチの祭壇画』(Baronci altarpiece)です。
1500年に注文を受け1501年に完成したこの作品は、1789年の地震で甚大な被害を受け、現在では数点の断片と下絵が残るのみとなっています。その後の数年間に各地の教会からの依頼で絵画を制作しており、ナショナル・ギャラリー所蔵の『モンドの磔刑』(1502年 - 1503年)、ブレラ美術館所蔵の『聖母の婚礼』(1504年)、ヴァチカン美術館所蔵の『聖母戴冠の祭壇画』(1502年 - 1504年[19])などが現存しています。
ラファエロはこの時期にフィレンツェをよく訪れており、ペルジーノの影響がいくらか見られるものの、独自の作風で描いた大規模な作品がフィレンツェに残っています。
また、キャビネット・ペインティング(Cabinet painting)(後述)も多数制作しています。それらの小作品の多くはおそらくウルビーノ宮廷の美術愛好家からの注文によるもので、コンデ美術館所蔵の『三美神』(1504年 - 1505年)(21-22歳)、ルーヴル美術館所蔵の『聖ミカエルと竜』(1504年 - 1505年ごろ)などが有名な作品となっています。
そのほか、聖母マリアや聖母子をモチーフとした作品や肖像画もこの時期から描き始めています。1502年(19歳)にラファエロは、ペルジーノの弟子でラファエロの友人で、極めて優れたデッサンの技量を持つ芸術家ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の招きでシエーナを訪れています。このときのシエーナ訪問の理由は、ピントゥリッキオが手がける作品のデザインの手助けをラファエロに求めたためで、現在シエーナ大聖堂のピッコロミーニ図書館に残るピントゥリッキオのフレスコ壁画のデザインだった可能性が高いと考えられています。ラファエロは画家としてのキャリア初期から、絵画制作注文を多く受けていていました。
フィレンツェ絵画(ダ・ヴィンチやミケランジェロ)からの影響
ローマに落ち着くまでのラファエロは「放浪の」人生を送っていました。北イタリアの様々な主要都市で絵画を手がけ、フィレンツェでは1504年(21歳)ごろからかなりの長期間にわたって滞在しています。しかしながら、1504年から1508年(25歳)のフィレンツェの公式記録によれば、ラファエロは常時フィレンツェに居住していたわけではありませんでした。
ラファエロはペルジーノのもとで修行していたころから、最先端のフィレンツェ美術を取り入れつつ自身の作風を確立していきました。1505年(22歳)ごろに制作されたペルージャのフレスコ画には、ヴァザーリがラファエロの友人でフィレンツェの画家のフラ・バルトロメオ(Fra Bartolomeo)の影響を受けたと思われる、新しい作風の人物像が描かれています。
しかしながらこの時期にラファエロが描いた作品にもっとも直接的な影響を与えたのは、1500年から1506年にかけてフィレンツェに戻っていたレオナルド・ダ・ヴィンチでした。レオナルドの作品の影響のもと、ラファエロが描く人物像は、より生き生きとした複雑な姿勢をとったものへと変化していきました。ラファエロが描く絵画は未だ平穏なものが多かったのですが、裸身で争う男性のデッサンなどはフィレンツェで修行を重ねたこの時期に熱中したものの一つでした。
ほかにもレオナルドのモナリザを真似たと思われる、斜め前を向いた三角の構成で若い女性を描いたドローイングがありますが、作風は完全にラファエロ独自のものになっています。
また、レオナルドが創始した「聖家族」「聖母子」を正三角形の構成で描く手法もラファエロは取り入れており、この構成で描かれた聖家族や聖母子はラファエロの絵画の中でも非常に有名な作品が多くあります。
このような最先端の絵画技法を取り入れながらも、ラファエロの作品からペルジーノ由来の柔らかで清澄な光は残り続けました。
レオナルドは、ラファエロよりも30歳年長で、当時ローマで活動していたミケランジェロはラファエロよりも7歳年長だった。ミケランジェロは、レオナルドを嫌っており、後年ローマで活動したラファエロのことも自分に対して陰謀をめぐらす若造として更に嫌っていました。
ラファエロはすでに多くの作品をフィレンツェで描いていましたが、その後数年で全く異なる方向性の作風に移行しつつありました。古代ローマのサルコファガス(sarcophagus:古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマなどの石棺のこと。彫刻で装飾がほどこされている)の装飾彫刻にヒントを得たともいわれる、ボルゲーゼ美術館が所蔵する祭壇画中央パネル『キリストの埋葬』(1507年、24歳)の画面最前部には、様々なポーズをした人物が多数描かれています。
美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンは、ミケランジェロの『聖家族』(1507年頃、ウフィツィ美術館)に描かれている聖母マリアの影響が、『十字架降下』の画面右端でひざまずいている女性に見られるとしていますが、その他の人物構成はミケランジェロ、あるいはレオナルドの作風とは全く別物です。
完成当初から注目され、後年になってボルゲーゼ家 (House of Borghese)によってペルージャへと持ち去られた『キリストの埋葬』はラファエロ独自の作品として評価されています。
そして、ラファエロはルネサンス美術の特徴とも言える古典主義への興味を徐々に失っていきました。
ローマ時代のラフェエロ
1508年(25歳)の終わりごろにラファエロはローマへと居を移し、残りの生涯をローマで過ごしました。ラファエロがローマを訪れたのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものであり、おそらくは当時サン・ピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家で、ウルビーノ近郊のラファエロの遠縁ではないかと考えられているドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)からの推挙によるものだと考えられています。
招致を受けてからラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のローマ教皇となる専用図書室のフレスコ壁画制作依頼を受けました。
このローマ教皇からの絵画制作依頼は、ラファエロにとって極めて重要なものでした。専用図書室には複数の部屋がありました。これらの部屋には、枢機卿時代のユリウス2世と激しく対立していた先々代のローマ教皇アレクサンデル6世の出資による壁画や紋章などがすでに描かれていました。
ユリウス2世による図書室の装飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていました。
ヴァチカン宮殿ラファエロの間
4部屋で構成されるヴァチカン宮殿の通称ラファエロの間のうち、最初に手がけられたのは「署名の間」と呼ばれる部屋でした。
ラファエロが「署名の間」に描いたフレスコ壁画は『アテナイの学堂』、『パルナッスス山』、『聖体の論議』などで、当時のローマ画壇に衝撃をもって迎えられ、現在においてもラファエロの最高傑作とみなされています。
残りの3部屋にはすでにペルジーノやシニョレッリらによるフレスコ壁画が描かれていましたが、ラファエロはこれらの壁画を上描きすることを命じられました。
これら3部屋のすべての壁面、なかには天井にもフレスコ画が描かれていますが、制作の進行とともにラファエロ自身がフレスコ画に携わる割合は徐々に減っており、ラファエロが率いていた工房の熟練画家たちが手がけた部分が多くなっていきました。
1520年のラファエロの死去後に完成した最後の「ボルゴの火災の間」では、デザインにもラファエロはほとんど関係しておらず、大部分が工房の画家たちによって描かれたものです。
ラファエロの間の依頼主であるユリウス2世は1513年に死去していましたが、ラファエロはメディチ家出身の次代ローマ教皇レオ10世ともさらに良好な関係を築き上げ、ラファエロの間の壁画制作も引き続きレオ10世のもとで続けられました。
ラファエロが、ラファエロの間のフレスコ壁画製作過程において、当時ミケランジェロが手がけていた『システィーナ礼拝堂天井画』から強く影響を受けていました。
ヴァザーリの著述によると、1511年(28歳)にブラマンテがこっそりとラファエロをシスティーナ礼拝堂へと連れていき、天井画で最初に完成していた箇所をラファエロに見せたことになっています。
『アテナイの学堂』にはミケランジェロの肖像が哲学者ヘラクレイトスとして描かれており、ラファエロの間に描かれているそのほかの人物像にも『システィーナ礼拝堂天井画』に描かれた巫女(シビュラ)や裸体の青年(イニューディ)からの影響が見られます。しかしながら単なるミケランジェロの模倣にはとどまらず、ラファエロ自身の作風とミケランジェロからの影響が渾然一体となった作品として仕上がっていると考えられています。
ただし、ミケランジェロはラファエロが自分の絵画を盗作したと非難しており(そりゃそうだよね)、ラファエロが死去した後にも「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」という不満に満ちた書簡を残しています。
非常に大規模で、複雑な構成を持つラファエロの間のフレスコ壁画は、古典・古代様式を発展させた盛期ルネサンスの絵画中でも屈指の作品群とされています。イギリス人美術史家マイケル・レヴィー(Michael Levey)はその著書で「ラファエロは自身の作品の人物像に、ユークリッド幾何学のような超人的清明さと優雅さを与えた」としています。
ローマ時代のそのほかの作品
ローマ時代のラファエロは、ヴァチカン宮殿ラファエロの間のフレスコ壁画制作に多くの時間をとられていましたが、ほかの作品も残しています。
肖像画では、ラファエロの主要なパトロンだった二人のローマ教皇、ユリウス2世とレオ10世(前述)の肖像画が重要で、とくにユリウス2世を描いた作品はラファエロの最高傑作のひとつとみなされています。
また、友人であるバルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画(上述)や、ローマ教皇庁の関係者を描いた肖像画もあます。外交手段として他国の君主へと贈呈されたラファエロの作品もあり、フランス王フランソワ1世はナポリ王妃ジョヴァンナ・ダラゴナの肖像画など、ローマ教皇から2点の絵画を贈られています。ただしこの肖像画は、下絵となるドローイングはナポリへと遣わされた弟子によるもので、実際の絵画制作もほとんどの部分がラファエロ自身ではなく工房の作品と考えられています。
そのほかラファエロは、富裕な銀行家でローマ教皇の財務担当だったアゴスティーノ・キージ(Agostino Chigi)のために、キージの別宅(現ヴィッラ・ファルネジーナ)の内装フレスコ画のデザインを手がけ『ガラテアの勝利』(1513年)などを描いています。
また、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(Santa Maria della Pace)とサンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Santa Maria del Popolo)の2つの教会の礼拝堂にフレスコ壁画を描いています。
ローマ時代のラファエロがラファエロの間のフレスコ壁画のほかにローマ教皇の依頼で手がけた、『ラファエロのカルトン』(1515年 - 1516年)と呼ばれる重要な油彩画があります。これはシスティーナ礼拝堂の装飾に使用するタペストリのデザイン画として、聖パウロと聖ペテロの生涯をモチーフにラファエロが描いた連作です。当時10点描かれた作品のうち現存する7点をイギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵しています。完成した『ラファエロのカルトン』はオランダの芸術家ピーテル・ファン・アールストの工房でタペストリとして織り上げるためにブリュッセルに送られました。おそらくタペストリは1520年にラファエロが死去する直前に完成し、完成したタペストリをラファエロも目にした可能性があるようです(※2)。
ラファエロはヴァチカン宮殿の中庭に通じる長い回廊(ロッジア)のデザインと壁画も手がけており、このロッジアはローマ風のグロテスク様式で装飾されています。また、ボローニャ美術館所蔵の『聖セシリアの法悦』 (1516年 - 1517年、The Ecstasy of St. Cecilia)やアルテ・マイスター絵画館所蔵の『システィーナの聖母』といった重要な祭壇画も残しています。
ローマで死去したラファエロの遺作であるとともに未完の絵画作品となったのはヴァチカン美術館所蔵の『キリストの変容』(Transfiguration) で、1514年から1516年ごろに描かれたプラド美術館所蔵の『シチリアの苦悶』 (Christ Falling on the Way to Calvary) とともに、晩年のラファエロの作風が盛期ルネサンスの次の芸術様式であるマニエリスム様式よりも、さらに後期のバロック様式に近いとされている作品です。
私生活と最晩年
ラフェエロはボルゴの豪奢なカプリーニ邸(Palazzo Caprini)を住居としていました。ラファエロは生涯結婚していませんが、1514年(31歳)に枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪にあたるマリア・ビッビエーナと婚約はしています。この婚約は個人的にも友人だったメディチ・ビッビエーナに押し切られた結果と考えられており、ラファエロ自身はあまり気乗りがしないものだったそうです。
その後マリア・ビッビエーナは1520年(37歳)に死去し、婚礼は行われないままとなっています。一方でラファエロは多くの女性と関係を持っていたといわれており、中でもローマ時代のラファエロにつねに寄り添っていたのが、シエーナ出身のパン職人フランチェスコ・ルティの娘「パン屋の娘(La Fornarina)」マルガリータ・ルティでした。
ラファエロは、ローマ教皇の近侍(きんじ)(Valet de chambre)の地位についており、これは教皇庁内での高い地位と俸給を伴うものでした。さらにローマ教皇黄金拍車勲章(Order of the Golden Spur)を授与され、ナイト爵位も所有していました。
ヴァザーリはラ、ファエロが枢機卿(すうききょう:教皇の最高顧問)になるという野望を抱いていたのではないかと推測しており、おそらくローマ教皇レオ10世からそのような仄めかしがあったことも、ラファエロが結婚をためらっていた理由の一つではないかといわれています。
直接的な死因はどうであれラファエロの病状は急速に悪化し、15日間の闘病の末に一時的に小康状態を取り戻して臨終の秘跡を受け、最後の告解を行った。口述した遺言には、残される愛人のために基金を設置してバヴィエラ出身の忠実な下僕にその基金運用を委託することや、工房の所蔵物の多くをジュリオ・ロマーノとジャンフランチェスコ・ペンニに遺贈することなどが含まれていました。そして死去したラファエロの遺体は、遺言通りにローマのパンテオンに埋葬されました。
ラファエロの葬儀は多くの弔問客が押し寄せる非常に壮大なものでした。ラファエロの遺体が納められた大理石の石棺にはピエトロ・ベンボによる哀悼詩が二行連で刻まれています。
工房
ヴァザーリの著作によれば、ラファエロは50名に及ぶ弟子や助手を擁する工房を率いており、工房出身者の多くが後に著名な画家となったそうです。
これは、バロック期以前のいわゆるオールド・マスター(Old Master: 18世紀以前に活動していたヨーロッパの優れた画家)が単独で経営する工房としては最大規模であり、さらにその技術水準も群を抜いていました。
ラファエロの工房にはローマ以外のイタリアの都市ですでに名声を得ていた画家もおり、このような画家たちは自身の弟子とともに、一種の下請け工房的な役割を果たしていたと考えられています。絵画作品それ自体を除いて、ラファエロの工房内でどのような役割分担がなされていたかに関する記録はごくわずかで、工房で描かれた作品がどの画家の手によるものなのかを判断することは難しいようです。
ラファエロの工房出身者でもっとも重要な画家は、ラファエロ死去時に21歳だったローマ出身のジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)です。
この二人はドローイングなど多くのラファエロの遺品を譲られており、短かったとはいえラファエロ死去後の工房継続に大きな役割を果たした画家たちでした。
建築
サン・ピエトロ大聖堂の建築責任者だったドナト・ブラマンテ(前述)が1514年に死去し、ラファエロがその後任を命じられています。しかしながらラファエロもサン・ピエトロ大聖堂が建設中の1520年に死去してしまい、ラファエロが携わった計画の多くはその死後に変更あるいは廃棄され、最終的にはミケランジェロによる設計が採用されています。
このような経緯もあって、サン・ピエトロ大聖堂に関するラファエロの業績は、数点のドローイングが残っているのみです。ラファエロが計画していたサン・ピエトロ大聖堂のデザインは、最終的に採用された大量の支柱で構成された壮大なデザインよりもはるかに地味であり、ラファエロの死後にサン・ピエトロ大聖堂の建築責任者となったアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ(Antonio da Sangallo il Giovane)は、それを「裏路地のような」と評しています。
ラファエロはサン・ピエトロ大聖堂以外にも、ローマ教皇のごく限られた関係者のためにいくつかの建築物のデザインを手がけ、ローマでもっとも重要な建築家の一人とみなされるようになりました。ローマ教皇ユリウス2世は、新しく数本の大通りを敷設したローマ市街の再構築を考えており、数々の宮殿に彩られた華麗な都を夢見ていました(※2)。
ローマ教皇レオ10世の主席書記官兼執事だったジョヴァンバッティスタ・ブランコニオ・デッラクイラ(Giovanbattista_Branconio_dell'Aquila)のブランコニオ・デッラクイラ宮殿 (Palazzo Branconio dell'Aquila) は、ラファエロが設計した建築物の中でも重要なものでしたが、16世紀にジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計したサン・ピエトロ広場の建設時に取り壊されてしまい、現在ではファサードと中庭を描いたドローイングが残るのみです。ブランコニオ・デッラクイラ宮殿のファサードは当時としては異例なほどに華美な装飾がなされていました。三階建ての建物内部も同様で、最上階には板絵が、中層階には多くの彫刻がそれぞれ飾られていました(※2)。
ドローイング
ドローイングとは、一般に「線画」を意味する美術用語です。線だけで描くライン・ドローイングを意味し、単色の鉛筆やペン、木炭などで線を引くことに重きを置いて描いた作品を指します。 これに対し、絵の具を塗ることに重きを置いた絵を、ペインティングと言います。
ラファエロは、西洋美術史上でも最高のドローイングの技量を持つ芸術家の一人で、絵画作品や建築作品の構成案、習作として多くのドローイングを描いています。
ラファエロとほぼ同時代の人物の記録によると、ラファエロが構成を考えるときにはそれまでに自身が描き貯めた膨大な量のドローイングを床にばらまき、それらのドローイングから人物像を借用して新たな構成案を「すばやく」描きあげていたとされています(※2)。
ヴァチカン宮殿ラファエロの間「署名の間」のフレスコ壁画『聖体の論議』(上述)の習作のドローイング40点以上など、ラファエロが描いたドローイングは400点以上が現存しています。
ラファエロは人物像のポーズや構成を修正しようとする際に複数のドローイングを組み合わせており、現存するわずかに内容の異なるドローイングの数の多さからも、この手法を用いることが他の画家に比べて非常に多かったことがわかります。
ラファエロの死後1557年にイタリアの美術理論家ルドヴィコ・ドルチェ (Lodovico Dolce)が書いた著作ではラファエロのドローイングについてこのように記述されています。
また、20世紀のイギリス人美術史家ジョン・シャーマン(John Shearman) が、ラファエロの芸術について「研究や革新から生まれた作品ではなく、すでに存在する資産を組合せたものである」としています。
ちなみに「組み合わせ」を創造の方法とする考えは多くあり、孫正義の本からからジェームス・W・ヤングの『アイデアの作り方』などで紹介されています。
最終的な構成案が固まると、下絵を実際に制作する作品と同じ大きさに拡大することもよく行われていました。拡大した下絵に針で穴を開けて支持体に張り付け、その穴に煤の詰まった袋を押し付けることによって絵画制作時に目安となる点線を支持体へと写し取っていました。
ラファエロは紙、あるいは漆喰にドローイングを描く際には点字製作用の尖筆を他に例のないほど多用し、下絵の輪郭を線ではなくぎざぎざの引っかき傷のような筆致で描いています。このような筆致で描かれた下絵は多くのドローイングだけではなく、ラファエロの間「署名の間」の『アテナイの学堂』表面にも見ることができます。
ラファエロの工房が、最終的に絵画作品に仕上げたラファエロの後期作品も、絵画制作そのものよりもデザインたるドローイングのほうに手間がかかることが多かったようです。ラファエロのドローイングの多くはかなり緻密なもので、絵画制作構想の最初期に描かれた下絵であっても裸体の人物像は精密に描かれており、制作後半のドローイングになるとほとんど完成時の絵画の状態に等しく、陰影表現はもちろんのこと、ときには白の顔料でハイライト処理が施されることもありました。
レオナルドやミケランジェロの描いた下絵のドローイングに比べると、ラファエロのドローイングには躍動感や力強さが欠けていると言われていますが、芸術的観点からすると非常に高水準なものです。
ラファエロは、ドローイングに扱いの難しい銀筆を頻繁に使用した最後の画家の一人で、ドローイングに適した最高級の赤、黒のパステルを自由に使用できる立場になっても銀筆を好んで使い続けていました。
また、ラファエロはドローイング制作時に実際の裸体女性をモデルとして使った最初の芸術家の一人で、死去する数年前から女性モデルを使い始めています。裸体の男性モデルをつとめていたのはガルゾーニと呼ばれていた弟子で、男性と女性両方の下絵のモデルの役目を果たしていました。
版画
ラファエロは自身で版画を制作することはなかったのですが、版画家マルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi)との共同作業で版画を生産しています。
ラファエロがデザインしたドローイングをもとにライモンディがエングレーヴィング版画を制作したもので、当時のイタリアでもっとも有名となった版画の多くがこの二人から生み出されました。
ラファエロのように地位も名声も確立した画家が版画に興味を示すのは稀なことで、同時代の画家としては同じく他の版画家と共同で版画を制作したティツィアーノしか例がありません。
ラファエロとライモンディが制作した版画は15点で、なかにはラファエロの絵画作品を版画に移植したものもありますが、多くの場合ラファエロが版画専用としてドローイングを描き起こしており、これらのドローイングは習作も含めて多くが現存しています 。
ラファエロとライモンディの版画の中でも有名な作品は『ルクレツィア』、『パリスの審判』、そして二つのほとんど同じヴァージョンが存在する『幼児虐殺』で、ラファエロの絵画作品を版画化した『パルナッスス山』と『ガラテアの勝利』もよく知られています。
20世紀まで、イタリア国外ではこのような版画作品を通じてしか、ラファエロの作品に触れる機会はありませんでした。
ヴァザーリが「イル・バヴィエラ」と呼んだバヴィエロ・カロッチは、ラファエロの財産管理補佐を任されていたと考えられており、ラファエロの死後にほとんどの版画原版の銅板を入手することによって版画出版業者として大きな成功を収めました。
評価
作品自体の影響力こそミケランジェロに及ばなかったものの、ラファエロは同時代人から高く崇敬されていました。しかしながら、ラファエロの死後主流となった芸術様式のマニエリスム様式とその後のバロック様式は、ラファエロの芸術とは「正反対の方向へと向かって」いきました(※2)。
ドイツ人美術史家ワルター・フリートレンダー(Walter Friedländer)はラファエロについてこのように記述しています(※2)。
また、ラファエロは、行き過ぎたマニエリスムを嫌う人々にとって理想の存在であるとみなされるようになっていきました。
新プラトン主義
3世紀後半、ローマ帝国末期にプラトン哲学を復興させた思想。
古代ローマ末期のプロティノスにはじまる哲学。プロティノスは3世紀にエジプトのアレクサンドリアで学び、ギリシア哲学を研究しました。そこでプラトンの言う「一者」や「イデア」という究極の真理は、人間が認識出来るものではなく、そこから流出するものを観照する(直感する)のみであると説いています。感覚器官や言葉ではなく、沈黙のうちに絶対の真理と一体化しようと説く、神秘主義。新プラトン派はキリスト教を否定したが、キリスト教徒の中ではアウグスティヌスらの教父が新プラトン主義を取り入れ、教父哲学を体系づけました。
「新プラトン主義」(独: Neuplatonismus)は18世紀のドイツで生まれた造語が、19世紀に入ってから定着した近代の用語。
ルネサンス期においても、プラトンの思想と新プラトン主義は区別されていませんでした。15世紀のフィレンツェでメディチ家を中心にプラトン研究が盛んになり、プラトンやプロティノスの著書がラテン語に翻訳されていました。
ビザンツ出身の学者ゲミストス・プレトン、プロティノスの『エンネアデス』をラテン語訳したプラトン主義者マルシリオ・フィチーノが知られる。フィチーノは、美に対するプラトン的な愛(プラトニック・ラブ)によって人間は神の領域に近づくことができると考えていました。
フレスコ画
フレスコ(英語: fresco、イタリア語: affresco)は、絵画技法のひとつ。この技法で描かれた壁画をフレスコ画と呼ぶ。西洋の壁画などに使われていました。
フレスコは、まず壁に漆喰(しっくい:水酸化カルシウムを主成分とする建築材料)を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を要します。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法でした。失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直す。
古くはラスコーの壁画なども洞窟内の炭酸カルシウムが壁画の保存効果を高めた「天然のフレスコ画」現象とも言えます。古代ローマ時代のポンペイの壁画もフレスコ画と考えられている(蜜蝋を用いるエンカウストという説もあります)。フレスコ画はルネサンス期にも盛んに描かれました。
ラファエロの国、ウルビーノ公国
ウルビーノ公国(イタリア語:Ducato di Urbino)は、1443年から1631年まで、現在のイタリアのマルケ州北部に存在した国家。ちなみにマルケ州の州都はアンコーナ。
ウルビーノ公国の誕生は1443年にエウゲニウス4世がオッダントーニオ2世・ダ・モンテフェルトロをウルビーノ公に任命した時に遡ります。1523年にペーザロに遷都されると衰退が始まりました。
ナショナル・ギャラリー
ナショナル・ギャラリー(National Gallery)は、イギリスのロンドン、トラファルガー広場に位置する美術館。1824年に設立され、13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵しています。そのコレクションは大衆に広く公開されており、特別な企画展示をのぞいて入館は無料となっています。ただし、維持管理費用の一部を寄付でまかなうため、寄付を募る箱が入り口ほか数カ所に設けられています。
キャビネット・ペインティング
キャビネット・ペインティング(または「キャビネット・ピクチャー」)とは、小さな絵画のことで、通常、2フィート(0.6メートル)以下で、もっと小さいことも多い。
裕福な美術品コレクターは、これらの絵画を「キャビネット」に保管していました。キャビネットは、比較的小さくプライベートな部屋であり(大きな家でも非常に狭いことが多い)、特に親しい間柄の人しか入れないようになっていました。
キャビネットは、クローゼット、Study(イタリア語のstudioloに由来)、オフィスなどとも呼ばれ、オフィスとして使われることもあれば、単なる居間として使われることもありました。大きな宮殿や邸宅の主要な部屋を冬に暖房するのは難しかったので、キャビネットのような小さな部屋の方が快適でした。使用人や他の家人、訪問者からプライバシーを守ることができる空間でも有りました。通常、キャビネットは一個人が使用するもので、大きな邸宅では少なくとも2つ(彼・彼女用)、多くの場合はそれ以上あったようです。
まとめ
ラファエロは巧みに成功を拡張し、かつ性欲が強く政治力も高い人物だったようです。それだけに長く生きていればどうなっていたのだろうか、と想像すると楽しい。この辺、原田マハさんに小説にしてほしい。
関連記事
参照
※1
※2
※3