《週末アート》色塗っているだけじゃない!? マーク・ロスコの絵画
《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
マーク・ロスコの絵がすごい理由
フラットな色彩で大きな画面を埋め尽くす表現方法を「カラーフィールド・ペインティング」(Color Field, Colorfield painting)と言います。カラーフィールド・ペインティングは、1950年代末から1960年代にかけてのアメリカ合衆国を中心とした抽象絵画の一動向です。絵の中に線・形・幾何学的な構成など、何が描かれているか分かるような絵柄を描いたりはせず、キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめるスタイルです。その作品の多くは巨大なキャンバスを使っており、キャンバスの前の観客は身体全体を一面の色彩に包み込まれることになります。マーク・ロスコはカラーフィールド・ペインティングの代表的なアーティストの一人です。
カラーフィールド・ペインティングの代表的なアーティスト
アンソニー・カロ(Anthony Caro)
ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)
モーリス・ルイス(Morris Louis)
ロバート・マザウェル(Robert Motherwell)
バーネット・ニューマン(Barnett Newman)
ケネス・ノーランド(Kenneth Noland)
マーク・ロスコ
フランク・ステラ(Frank Stella)
中里 斉(Hitoshi Nakazato)
根岸芳郎(Yoshiro Negishi)
マーク・ロスコの作品
ロスコの絵画は、油絵の具を水彩のように薄く溶き、何層も塗り重ねて描かれており、そのため深い透明感があります。
なぜマーク・ロスコはこのようなカラーフィールド・ペインティングという表現手法に至ったのでしょうか。
カラーフィールド・ペインティングに至る経緯
名前:マーク・ロスコ (Mark Rothko)
本名:マルクス・ロトコヴィッチ(Markus Rotkovich)
生没:1903年9月25日(ロシア帝国)- 1970年2月25日(アメリカ合衆国)
ロシア系ユダヤ人のアメリカの画家。ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、ウィレム・デ・クーニングらとともに抽象表現主義の代表的な画家。
マーク・ロスコは、1903年、当時ロシア帝国領だったラトビアのドヴィンスクのユダヤ系の両親のもとに生まれました。彼の父ヤコブ・ロスコビッチは薬剤師で知識人だったため、彼の子供達に宗教よりも政治や社会について教えました。ロシアではユダヤ人に対する偏見から非難や迫害があり、幼少期のロスコもまた、そのような環境に対して苦しみました。
父ヤコブ・ロスコウィッツの収入は決して高くなかったものの、家族は非常に優れた教育を受けていました(ロスコの妹は当時を思い出し、「私たちは本を読む家族だった」と語っています)。
マーク・ロスコ自身もロシア語の他にイディッシュ語、ヘブライ語を話すことが出来ました。マークがまだ幼い頃、父は正統派ユダヤ教に改宗し、その影響から兄弟の中で一番末の子だったロスコは、他の年上の兄弟が公共の教育をうける中、5歳の頃からヘデルへ通いタルムード(モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群)について学びました。
1903年から1906年にかけ反ユダヤ襲撃ポグロムが盛んとなり、また、乳ヤコブ・ロスコウィッツは彼の息子がロシア帝国陸軍に招集されることを恐れ、アメリカへ移住することを決意します。1910年(7歳)に父ヤコブは、兄を頼って単身で渡米し、その2年後(1912年、9歳)、長男モイーズと次男アルバートが続いて渡米をします。その数か月後、1913年(10歳)の冬にエリス島に到着し、父と兄たちがいるアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに移住しました。
アメリカ合衆国、エリス島
エリス島からポートランドへ向かう汽車のなか、彼らは胸に「われわれは英語がしゃべれません」というバッジをつけていたそうです。
父ヤコブは、1914年3月(10歳)に結腸癌で死去。そのため、家族は経済的な基盤を失うことになります。姉ソニアはレジのオペレーターをし、マーク自身も叔父の倉庫の一つで働きながら、新聞売りをしていました。
進学したリンカーン高校では文学、哲学、社会学などに興味を示す一方、ギリシャ神話にも親しむようになりました。
1921年6月(17歳)にポートランドのリンカーンハイスクールにて優秀な成績をおさめています。マークは、4つ目の言語である英語を学び、同時にユダヤ人コミュニティーセンターで積極的な活動メンバーの一人となり、政治的議論を得意としていました。マークは父のように、労働者の権利や女性の権利などの問題について情熱を注ぎました。
1921年(18歳)に奨学金を得てイェール大学へ進学。大学では心理学を学び、ゆくゆくは法律家かエンジニアを目指していました。しかし新入生の終わりに奨学金の更新が出来ず、ウェイターや配達員をしながら勉強をしていました。
マークは、イェールの学生の多くがエリート主義で差別主義者であることを知り、彼と彼の友人アーロン・ディレクターは学校の古風なしきたりやブルジョア趣味を風刺する風刺雑誌『イェール・サタデー・イブニング・ペスト』を発行します。
いずれにしても、ある学生が当時のマークについて「彼はほとんど勉強をしていないように見えたが、熱心な読書家だった」と語っています。2年の終わり1923年(20歳)に彼は中退し、46年後に名誉学位を授与されるまでイェール大学に戻ることはありませんでした。
1923年秋にニューヨーク、ガーメント地区に移住。ロスコ本人によると、彼は友人を訪ねるためアート・スチューデンツ・リーグを訪れたとき、ヌードデッサンのようすを見て美術の世界に入ることを決心したという。だが2か月程で辞め、ポートランドに帰省。ジョゼフィーン・ディロンが主宰する劇団で役者の修行をしました。
1925年(22歳)、再びニューヨークに移り、パーソンズ美術大学に入学し、グラフィック・デザインを学びます。その時の彼の指導講師の一人は画家のアーシル・ゴーキー(Arshile Gorky)でした。マーク・ロスコにとって前衛との初めての出会いとなりました。マーク・ロスコは、ゴーキーの指導について「要求が厳しく、管理的だった」と振り返っています(※1)。
その秋、彼はアート・スチューデンツ・リーグで行われているキュビズムの作家、マックス・ウェーバーのコースをロシア系ユダヤ人の仲間とともに受けています。ウェーバーは、フランスの前衛芸術運動の一端を担っていたため、現代美術の生き証人として学生たちは彼の教えを熱望していました。ウェーバーの指導の下、マークは、美術を宗教的、感情的な表現の道具として見るようになりました。数年後、ウェーバーは元学生であるロスコの展覧会を訪れたとき、彼の作品を賞賛し、ロスコもまたその賞賛を非常に喜びました。
マークの初期に重要な影響を与えたアーティストに、パウル・クレーとジョルジュ・ルオーの絵画があります。
1927年(24歳)、ルイス・ブラウン著『絵入り聖書』のイラストの仕事を受ける。731ページにも及ぶ大著のため、マークは、メトロポリタン美術館の古代美術コレクションを参照し、古代装飾模様やブラウン本人のイラストからヒントを得てイラストを完成させました。しかし、ブラウンはロスコの絵を手抜きとみなし、契約の解消をしてしまいます。
1928年(25歳)、他の若いアーティストとともにオポチュニティギャラリーにて展示を行いました。マークの絵画は暗く、不気味で、内面の表出だけでなく都市の風景が描かれており、多くの批評家や仲間から評価されました。
1929年から1952年(26歳-49歳)までセンターアカデミーで教師として粘土彫刻を教えていました。この期間にロスコは15歳年上の作家ミルトン・エイブリーの周囲の若いアーティストたち、バーネット・ニューマン、ジョセフ・ソルマン、ルイス・シャンカー、ジョン・グラハムと一緒にアドルフ・ゴットリーブに会いました。
1933年(30歳)、ポートランド美術館でドローイングと水彩画による初の個展を開催。マークの家族は、絶望的な経済状況から、アーティストになるというマークの決意を理解できませんでした。家族は深刻な財政的挫折を被っていたが、マークの経済に関する無関心に困惑していました。
1935年(32歳)の後半にマークは、イリヤ・ボロトウスキー、ベン・シオン、アドルフ・ゴットリーブ、ルー・ハリス、ラルフ・ローゼン、ルイス・シャンカー、ジョセフ・ソルマンとともに「ザ・テン」を結成。その使命は、当時のアメリカ美術界の昔を懐かしむ風潮やヨーロッパの美術に重きをおく保守的な価値に対して抗議することでした。
1936年(33歳)になって、マークは、子供たちの作品と現代絵画の作品との類似性について、決して終わることのない本を書き始めました。
1937年(33歳)の夏、ロスコは妻エディスと離婚。1938年2月21日(34歳)、マークはヨーロッパで台頭してきたナチスの影響から、アメリカも国内のユダヤ人を突然の国外追放するかもしれないという恐怖にかられ、また公共事業促進局の応募資格がアメリカの市民権を要求していたため、アメリカの国籍となります。反ユダヤ主義に対する懸念から、1940年「マーカス・ロスコビッチ」から「マーク・ロスコ」に名前を変えました。「ロス」ではまたユダヤ系の意味を持つので出自の分かりにくい「ロスコ」にしています。
1946年(43歳)からマークは、作品に題名をつけることをやめ、番号のみにします。題名から読み取れる情報をノイズとして消失するという意図がありました。そして1949年、46歳にして、ついに縦長のキャンバスに複数の色の帯を描く「マルチ・フォーム」の表現に至り、ロスコ・スタイルが完成します。
絵具は、しばしば下の色が透けて見えるほど薄く塗られ、マークは、色彩の振動を「呼吸」の比喩で語っています。それゆえ、人体よりも少し大きめにつくられた縦長の画面は、あたかも人と対面するかのような感覚を鑑賞者に与えます(※3)
マークは、作品と対峙した人がどう感じ取るか、どう理解するかに徹底的にこだわって作品をつくりました。そのこだわりは「7つの成分」によって構成されました。
死に対する明瞭な関心がなければならない……。 命に限りがあり、それを身近に感じること。悲劇的、ロマンティックな美術等は死の意識をあつかっていること。
官能性:世界と具体に交わる基礎。存在に対して欲望をかきたてる関わり合い方。
緊張:葛藤あるいは欲望の抑制。
アイロニー:人がひと時、何か別のものに至る為に必要な自己滅却と検証。
機知と遊び心:人間的要素として。
はかなさと偶然性:人間的要素として。
希望:悲劇的な観念を耐えやすくするための10パーセント。
これらの成分をもとに、マークは色の構成比率を算出していました。
1940年代の末ごろに、クレメント・グリーンバーグらの高い評価により、彼は一躍有名になりました。そしてニューヨークのシーグラム・ビルディングにあるフォーシーズンズ・レストランの壁画を依頼され、約40枚の連作(シーグラム壁画)を制作しました。しかし友人に譲った作品が売りに出されるという事件をきっかけに、自分の作品が世間に理解されていないと考えるようになり、前渡しされた購入金を全額返却して納入を拒否。その後、いくつかの美術館が作品の買い取りを申し出ましたが、マークが全部を一つの空間で展示することにこだわったため難航し、結局彼の死後、世界の3つの美術館(ロンドンのテート・モダン、ワシントンD.C.のフィリップス・コレクション、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館)にわかれて収蔵されました。
マーク・ロスコは、1970年に病気や私生活上のトラブルなどの理由で自殺してしまいました。
マーク・ロスコの主な作品
マーク・ロスコの作品が見られる国内の美術館
DIC川村記念美術館
千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館には、「自分の作品だけで一室を満たす」というマーク・ロスコの望み通りに、彼の作品のみが展示されている部屋があります。その部屋は「ロスコ・ルーム」と呼ばれ、《シーグラム壁画》がこの部屋の設計は、根本浩氏。
Artizon Museum
東京、京橋にあるArtizon Museumにマーク・ロスコの作品《無題》 (1969年 アクリル・カンヴァスに貼られた紙』)があります。
まとめ
マーク・ロスコは、見る人と対峙するためにマルチフォームというカラーフィールド・ペインティングを確立し、その色の構成に7つの成分を設定。死、官能、緊張、アイロニー、機知と遊び心、儚さと偶然性そして希望(これは10%)というこれらの成分を色に込め、見る人に伝えようとししています。
わたしもDIC川村記念美術館で彼の作品に対峙したとき、なんとも言えない感情を体感しました。
参照
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