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バイブルのない宗教

学部時代のレポートでわりあい深いことを考えていたので、今の自分の考えも加えつつ、書き直していこうと思う。
今日は、誰しもが触れている身近な宗教についてのお話。
※個人的見解に基づいています。


あなたの信じる宗教は?

わたしの家の宗教は、どうやら曹洞宗らしい。
成人してからもしばらく、どんな宗教を信じているのか知らなかった。
親戚の葬式や法事のときにはお坊さんにお経をあげてもらうし、自分の数珠も持っているから、基本的に仏教であるということだけは分かっていたが、それだけ。
あなたは、家もしくはあなた自身がどんな宗教の信者なのか、知っているだろうか?

日本という国は宗教にかなり寛容で、人が亡くなれば手を合わせるし、神頼みも仏頼みもすれば、クリスマスもやるし、ハロウィンで盛り上がる。
神仏習合という言葉もある。
キリスト教やイスラム教の人がいても、珍しいけれど迫害したりしない(と思い込んでいるだけなのだろうか)。
色んなものを混ぜて上手く生活に取り込むのが、日本人の得意とするところであり、よいところだ。

※ちなみに他宗教に寛容なのは、神道の八百万の神々の存在がゆえんだと言われている。キリスト教やイスラム教とは異なり、他に神様がいても全く構わないのだ。


日本人と神道

様々な宗教に影響されてきた日本だが、なぜか生活や命に根差したものの奥深くには、変わらず神道がいるような気がする。

よい例が、食事のあいさつである「いただきます」だ。
生きていくために奪った命に対し、そこに宿る神に対して感謝するという意味である。
普段、この意味を深く意識しながら食事することはほとんどない。
もう慣習になってしまったので、元の意味を考えることは省略されてきたからだ。
しかし、限りなく命を敬い、それが自分の血や肉となることを日常的に感じられる言葉であることに変わりはない。

命や生に近いということは、動的であるということだ。
これは水や火などの移り変わりゆくものと同じ。
仏教にも「無常」という考え方があるが、この世のすべてのものは、永遠に変わらないということは無い。
かつては生きていた動物が死に、今自分の目の前に食事として出されているように、建物が廃れていくように、古い言葉が消えていくように。

わたしたち人間もまた、永遠に若いままではいられない。いつかは死ぬ。
これも動的な命のサイクルだ。
実は、神道には天国や地獄という概念がない。
黄泉の国というところへ行き、死んだ者はすべて一緒になって土の下に還るのである。
女神に出迎えられ、全ての悲しみや苦しみから解放される癒しを受けてまっさらになったエネルギーの塊(魂)は、もはや元の個々の区別はつかない。
再構成されて再び生まれてくるのだ。

還るのが女の元であるということに、自然との緊密さを感じる。
全ての生命は女から生じることを考えれば、再びそこに戻ることは当然ともいえる。
死というのは命の終わりだが、同時に新たな命のはじまりでもある。
ぐるぐると繰り返される生命は、静的な死と隣り合わせであるにもかかわらず、動的な印象を受ける。


宗教とバイブル

これほど奥深く生死に関わる神道だが、なぜか「バイブル」が存在しない。

「バイブル」とは、キリスト教でいうところの聖書、仏教では数えきれないほどの教書が存在し、イスラム教ではコーランがそれにあたる。
もっとわかりやすいところで言えば、“乙女のバイブル”は少女漫画である。これらに共通するのは、何かを教えてくれるまたは導いてくれる「教科書」であるということである。
例えば仏教では、雑に言うと「この世では頑張ってももうどうにもならないので、あの世ではせめて幸福になる」ために教えを守る。

神道にも書はある。日本書紀や古事記、風土記などである。
しかしこれらには、直接的に○○すれば救われる、などということは書かれていない。
つまり、教えが存在しないということである。
これはなぜなのか。
教えの存在しない宗教は宗教と言えるのだろうか。

これには理由がある。
日本人は八百万の神々、つまり自然と近い生活を送ってきた。
西洋や他の宗教の「自然を制御する」感覚とは真逆で、共生がスタンダードなのである。
(これは高校生の頃、現代文の教科書に載っていた『水の東西』という評論で知ったものです。ご存知の方も多いのでは?)

決して「攻略する」ものではないということがキーであり、いつまでも理解できないことに魅力さえ感じる。
課せられた課題をこなし、約束を守ることで何かを手に入れることが重要なのではないのだ。
自分に生を与えてくれる神に感謝することで、聞こえは悪いが勝手に救われた気持ちになっているのである。
教えは必要なかった、という表現が正しいのかもしれない。
特別なことをしなくても、周囲にありふれていて自然と身についていくものであったのだ。

そう考えれば、常識や倫理・道徳なども一種の宗教と考えてもよいかもしれない。
神のような存在も教科書もないけれど、それを信じる集団がそれに沿って生きることで満足感や達成感、自分はよい人間であると思うことができる。
信じることで人生を豊かにするならばそれは立派な宗教であるとも言える。


最後に

神道は日本の誇るべき宗教である。
日本書紀などに記された、詳しい内容は今後どんどん一般的ではなくなっていくだろう。
それでも、完全にその概念や考え方がなくなることは無い気がする。
生活や、文化や、歴史や……至るところに、意識しないうちに息づいているのが神道だからだ。

わたしたちはその名の通り、土に還るための大きな神の道を歩いている。
他のものが混じりあった道の表面は、一見既に踏み荒らされ、作り変えられたように見えるが、その下には我々も気がついていない未踏の道が隠れているのである。

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