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沼田まほかるの「猫鳴り」を読んだ

沼田まほかるの「猫鳴り」を読んだ。

「猫鳴り」とは猫が喉をグルグル言わすアレのこと。
物語は3部構成になっている。
1部は結婚17年目にして突然、夫である藤治の子供を妊娠したが6ヶ月で流産してしまった信枝が仔猫と出会うシーンから始まる。
流産の精神的ショックを引きずる信枝は目も見えているか怪しいほどの仔猫に、生まれてくるはずたっだ子供と同じ「いのち」を見る。

だからといって…というか、だからこそ「この猫を死んだ子供の代わりにしたくない」と思う信枝は何度も仔猫を家から離れた場所に捨てに行く。
まだなんの分別もなさそうな仔猫なのに、捨てられても捨てられても自力で這い戻ってきた強く賢い猫は、近所に住む風変わりな少女、アヤメに「モン」と名付けられた。
モンの存在を軸にして1部では藤治と信枝、2部では育児放棄気味の父子家庭で育ち、幼児に悪意を持つ少年行雄、3部では信枝の死後モンと暮らす藤治の話となる。

前に読んだ「ユリゴコロ」「九月が永遠に続けば」がミステリーだっただけに「猫鳴り」もそういう系統かと思ったが違った。
最初は信枝の妊娠、流産にも夫に言えない秘密が…的な展開かと思ったがそうでもなかった。
猫で繋がった短編集のようだった。

2部では行雄の元に父親が突然仔猫を持ってくる。
その仔猫は数日で死んでしまう。
親からの愛情を確かめられずにいる行雄は親に愛情を注がれている幼い子供に殺意を抱き、無防備な子供にポケットに入れていたナイフを突き出す寸前まで行ってしまう。
3部は藤治の視点から病院に入院し、意識が戻らぬまま病死した信枝と老いて自宅で死を待つモンついて語られる。
この世に生まれ出ることなく死んだ子、生まれても命尽きてしまう仔猫、自分になんの落ち度もなく、親の手厚い保護の元にあっても迫る死と生の瀬戸際…
様々な死のかたちが物語の中に散りばめられている。

特に3部ではモンと藤治の関係性を通して「死との向き合い方」が描かれている。
物言わぬ猫の去り際を飼い主の視点から書くことで、胸に迫るものがあった。
藤治はモンに必要以上に構うこともなく、モンもまた藤治に必要以上に甘えることもない。
それでもお互いがお互いの存在を必要としている。
藤治はモンの行動や表情で気持ちを読み取る。
その視点には愛があり、モンを思う気持ちで溢れている。
だからこそ、モンとの別れの辛さが読者の胸に迫ってくる。
愛するものを失うこと、一人ぼっちになること。
そして自分も同じ死への道を日々歩いていること。

こいつはまるで、俺に手本を示しているみたいじゃないか。そう遠くない日に、俺自身が行かなけりゃなんない道を、自分が先に楽々と歩いて俺に見せているみたいだ。なるほど、こいつの様子を見ているかぎりでは、死ぬというのもそれほど恐ろしいものではないのかもしれないな。とうとうその日がきたときに、俺はきっと考えるだろう。モンのヤツが行けたんだから、俺だってちゃんといけるだろう、と。

文庫版P194より引用

人と人との関わりやつながり、言葉を通してそれらを描いてしまうと、どうしても読者は現実の自分と他人との関係性に落とし込んで理解しようとする。
それを猫という、言語でのコミュニケーションをとることができず、また、姿形も生き方も、そもそも自然界における立ち位置も人間とは全く違う生き物を通して描くことでより自然に、純粋に「死」が浮かび上がってきているように感じた。

「ユリゴコロ」「九月が永遠に続けば」では人と人との関係性の中での不自然な死が描かれていた。
本来自然なものであるはずの「死」に人の思惑が混じると難解で複雑な構造になり、それが物語としての面白さに通じていた。
しかしこの「猫鳴り」では自然な「死」が描かれている。
不自然な「死」によって物語の魅力を紡いできた作者が描いた自然な「死」もまた、途方もなく魅力的で胸を打つ作品であったことに沼田まほかるという作家の強い力を感じた。

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