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感じること

感じるということ。

感じるということは、「五感を介して得た情報によって生まれるもの」であることには違いない、のだろう。

じゃあなぜ僕たちは、「感じ」るときに、見えた・聞こえた・匂った・味わった・触れた、と直截的に表現しないのだろうか。なぜあえて「感じる」という言葉で表現してしまうのだろうか。

五感を介して得た情報ではあるが、五感を介したという認知が薄く、総合的な感覚でキャッチしたものであると朧げながら認識している状態の時(情報に対するソースが曖昧である状態で)、見る聞く嗅ぐ味わう触れるという端的な概念で表すのは「なんかちがうな」、はたまたもしかすると「そんな有り体の言葉で表現するのは勿体ない」とすら思わせる何か力のようなものがあって、僕たちはなんやかんやで、「感じる」と表現するのではないか。なんなら、もしかしたら「感覚として得たが、実はよく解ってない」のではないか。

そもそも僕たちが見たもの聞いたもの嗅いだもの味わったもの肌で触れたものについて「感じ」を得るとき、それは脳内を通り抜けた情報が、少なくとも何かしらの意味あるいは意味につながる兆しめいたものを生み出しているのではないか。
そうなると、「感じる」ということは、受動的な行為ではなくて、実は極めて能動的で積極的な現象なのではないか。もっと言うならば、感覚に対する脳の挑戦とも捉えられるのではないか。

感じることは、僕たちが知能を持ち合わせて生きていることの現れなのかもしれない。感じ続けることは生きる喜びにつながる。日常に、幼き日のようなみずみずしさを取り戻したいのだとしたら、もっと「感じる」ことに対して素直で、貪欲で、従順になってもよいのではないか。社会性とか、プライドとか、そういった箍を、きれいに留めたボタンを一つ一つはずしながら、僕たちはもっと素直に感じられるはずだ。
失うこと、ほどくこと、それは感じることにつながるのではないだろうか。

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