歌詞の意味をあなたにも考えて、知ってほしかったのよ
夏も終わりに近づきました。8月は思い切って超大型夏休みを取り、毎日外に出かけては家に帰って素麺ばかり食べています。この期間中、メンブレと共に体調を崩しましたが回復しつつ、無理矢理に予定を組み込み「海・山・川・ビア・球場・花火・お祭り・映画」等々、行き詰めました(多分唯一していない夏らしいことは”かき氷を食べるくらい)。だいぶ肌焼けてます。
1人旅行が大好きなくせに、1人で家にいることが昔から究極に苦手です。することがないワケではないのに、ただ言いようのない怖さを感じます。それは多分子供の頃から家に1人の時間が長く、その反動で誰かと過ごす時間が好きすぎるんだと思いますが。今、特にメンブレ崩壊の時は尚更、1人でいることはありとあらゆることで自分を責めてしまい危険でした。そもそも、メンブレした経験がなかった私は初めてその苦しさを知り、これを経験するのであればもう2度と同じようなことはしたくない、と、現状新たな人間関係を拒否しつつあります。もう怖い!怯え!
今、私の中にある大切なものの優先順位は、今後同じとは限りません。どうしたって身近な人の方が愛おしいし、縁が遠くなればきっと振り返ることも無くなるでしょう。ちょっと前までは一度できた繋がりは絶対大切にすると意気込んでいましたが、振り返ることが正しいとは今は思いません。
振り返ったところで気持ちがまたブレてしまうのであれば、忘れてしまった方が自分のためになることが世の中にはあるようです。「大切」を豪語してきたあまり今さら手放すのが惜しいと感じていたのはある種、情でありプライドであり、はたまたちゃんとした感情のうちの愛であり。それを一つの枠にはめることは難しいことですが、確かなことは、私は過去じゃなくてこれからを生きていきたいといことです。もう、これ以上「たられば」で苦しみたくないし、関係のなくなる人の心配を過剰にするのをやめてしまいたいし、何より幸せになりたい。
でもこの幸せっていうのがまた難題で、「自分が幸せになれればい」というあくまで自分が主人公的幸せが欲しいワケじゃないんです。私が望むのは「私と私の周りの大切な人が幸せになれればいい」なので、そこの感覚が合う人を大切にしたいですね。自分が自分がは、多分見据える目標が違いすぎます。
自分の思い通りになるっていうことは、誰かがその分何かを我慢しているはずなのに。それに気が付けないのはそれこそ寂しい。誰にもそこを指摘されないというのは心の繋がりが薄いように私は感じてしまいます。そう、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」の歌詞をちゃんと聴いて知って欲しいと何度も思って伝えたように、私の思いは届きませんでしたが。
だから私は私の思う幸せのために、今日も素麺をしっかり食べて、気持ちを真っ直ぐに立てて生きています。物欲がかなりあって、スマホの買い替えとパソコンを本気で悩むくらい平和な日々です。午後も元気にお過ごしください。
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