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誤読#4『なんかでてるとてもでてる』蜆シモーヌ

一年半以上更新することができていませんでした。ちなみに「#3」は出張版として北十(ほくと)という同人の「砂時計」第3号に掲載されています。扱った作品は山田亮太の「みんなの宮下公園」(詩集『オバマ・グーグル』(思潮社)収録)です。ぜひ下記リンクから購入いただければ幸いです。

「誤読」を再開するにあたって、最近詩を読むことについて考えていることを話の枕にしたいと思います。

改めて確認すると、この「誤読」という試みは、僕の詩の楽しみ方を紹介することで、それを参考にして詩を楽しむ人が一人でも増えることを目指しています。詳細は下記のリンクから。

最近、僕は少しずつ洋楽を聴くようになったのですが、そのきっかけの一つとして「みのミュージック」というYouTubeチャンネルがあります。

邦楽・洋楽問わず音楽の魅力を発信しているのですが、以下の動画では「理解できない音楽」との向き合い方をご本人の実体験を踏まえて語られており、非常に勉強になりました。

理解するのに時間がかかった音楽とどう向き合い、どんなふうにその良さを感じられるようになったのか。ここで語られている内容には詩にも共通するところがあって、触れられている音楽を知らなかったとしても充分楽しめる内容です。

詩や音楽などの芸術作品には、美味しい味わい方が作品によって大きく異なるということがあるように思います。食べ物で例えるなら、お吸い物のような味わいの作品を、スポーツ後にポカリスエットを飲むように味わっても、お吸い物本来の美味しさを感じることは難しいわけです。もちろん逆もありえるでしょう。

その味わい方を掴むまでに時間がかかることは間違いなくあって、僕も初読時にまったく琴線に触れなかった詩を、数年を経て美味しく味わえるようになったという経験があります。

動画の中で語られていますが、そのような経験を通して好きになった作品の存在や、その経験そのものは自分の中で非常に大きなものになります。

その一助になればと思いながら、今回もやっていきます。


詩集を支える、ひらがなの文体

さて、今回扱う詩集は蜆シモーヌ『なんかでてるとてもでてる』(思潮社)です(リンク先は出版社HP)。

蜆シモーヌは第59回の現代詩手帖賞を受賞し、第一詩集である本詩集を刊行しました。その後、本詩集は第27回中原中也賞の最終候補に選ばれ、現在では第二詩集『膜にそって膜を』(書誌子午線)も刊行されています。

この詩集は個人的にとても大好きな一冊で、現時点で好きな詩集を五冊選べと言われたら、確実に選ぶ一冊だと思います。

味わいやすさもありつつ、同時にいつまでも味が続くような奥深い一冊です。

この詩集は、老人のような子供のような不思議な声をもっているように思います。個人的に大好きな詩句を引用しましょう。

うわ つ
あたまだつ ぴ
してるね
げんばく
どおむ
だつ ぴ
してるね

 ええ
 あれは
 だいかこの
 だつ ぴ です
 まいにち
 まいにち
 あたま
 だつ ぴ します

まいにち
だつ ぴ したら
あたま
なくなるね

 まいにち
 あたらしく
 あたま
 はえます

せんせー
だいかこつて
なんですか

 それは
 かこよりも
 かこへ
 とおくて
 いまより
 はげしく
 みらいに
 ちかい

「カウント」

ちなみに、noteで引用しきれなかったのですが、「せんせー/だいかこつて/なんですか」の「だいかこ」には下線が引かれています。

このように、蜆シモーヌ詩はひらがなが非常に多く使用されていて、この文体が世界観を根底から支えています。これらには独特の生々しさがあることがわかると思います。

物質としてのあり方が強いというか、一文字ごとに肉体性があって、もっと言えば生き物のように見えてくるように感じられます。

多用されるオノマトペも似た印象を持っています。蜆シモーヌが使うオノマトペは非常に肉感的で、なんというか、猥雑でいかがわしい印象すらあります。オノマトペの効果が特に顕著だと思う「お肉しんぽじうむ」から引用してみましょう。

本日はまことに
おっ
こしくださり
まことに盛況
お肉しんぽ
じうむ
ぬぽ
ぬるっぽ
なまぽ
おっ
ちぬる
お手てがお手てが
ぬぬる
のびてくる

「お肉しんぽじうむ」

一行一行が血などの体液で濡れ滴っているように感じられないでしょうか。また、「ちぬる」や「ぬぬる」という言葉は、オノマトペとしても、独自の動詞としても読むことができます。ひらがなであることで、文字において音と意味が限りなく不可分に、同一化しているわけですね。詩集の世界観にも一致した表現で、こういう表現は詩集中に散見されます。

また、改行を多用しながらリズムをつくっていくのも特徴的です。関西弁や諧謔に満ちたような語り口も、そのような音楽性を生み出します。

そら

やっ
ぱり、あれ
なんちゃいますか

ちから
ぬく、ゆー
ことちゃいますか

ちから
ぬく、て
どないですのん?

そら

やっ
ぱり、あれ
なんちゃいますか

じぶん
ぬけてく、ゆー
ことちゃいますか

「ぱり、これ」

ちなみに、引用中の「?」は斜めになっています。おどけていて、くだらないことのように語っている詩句を読んでいると、思わず笑ってしまう箇所も多いです。

このように、蜆シモーヌの詩の文体には読む楽しさがあります。

詩集に満ちている独自の世界観

詩集を読んでいくと、複数の詩に共通するイメージやモチーフがあることがわかります。

「王女白梅」や「りもーとふぃーと」には管/チューブのモチーフが登場します。また、同時に垂直的なイメージも読みとれます。これらのイメージはあまりに多くの作品に共通するもので、引用しきれないほどです。

回転のイメージもいくつもあります。「まわるまわるうわまわるわ」には天体の公転運動がモチーフとして登場し、「のーり め たんげーれ」では人形浄瑠璃を題材に、人形遣いと人形の関わりにおける「反復回転」が語り手によって提示されます。

個人的に非常に重要な作品だと思っているのが「ろーとしとる」です。

この詩は前述のような音楽性が強く備わった作品でもあります。「ろーとしとる」とはつまり「漏斗しとる」ということで、作中ではそこが太字で表記され、「集めとろーとしとる」、「巻とろーとしとる」といったように、色々な動詞で韻を踏んでいきます。個人的な感覚なのですが、その長音の箇所に脱力するような妙なグルーヴ感があって心地よいです。

内容を見ていくと、この詩では二人のボクサーがリングの上で試合をする様子——二人がパンチしたりステップしたりするという関わりが描かれます。これも二者間の関わりのモチーフですね。

そこでは、ボクサー同士の行為が能動でもあるし受動でもあるものとして捉えられます。ボクサーがパンチをする。これは一見能動的な行為ですが、パンチするべき状況だからパンチしたのだと考えると、状況によってパンチさせられているということもできるわけです。しかも、パンチという行為自体が状況を形づくる一つの要素でもあります。

能動なのか受動なのか、卵が先か鶏が先か、それらの見分けがつかなくなって、行為と状況は循環し、以下のように姿を変えます。

グルーヴしとるリングのグルーヴを
ステップは
パンチは
ボックスで
集めとろーとしとる
ヘリックス曲線状に
巻きとろーとしとる
スクリューしとる

 ろーとしとる

「ろーとしとる」

ヘリックス曲線状とは螺旋のことです。ここを読んで、僕の頭の中で管のイメージと回転運動のイメージが繋がりました。それまで個別のものだと思っていた二つのイメージが漏斗の形のイメージによって接続されたのです。それからはこのひと繋ぎのイメージをもとに作品を読んでいきました。つまり、僕はこの詩集を「理解」しようとしながら読んでいったわけですね。

今の僕の解釈を説明すると、このイメージの変遷の最初にあるのは、表題作「なんかでてるとてもでてる」の「なんか」です。これはたぶん、この世のあらゆる関係性の知覚できない本質なのだと思います。

その「なんか」が関係性の中で「回転」に変わり、それは螺旋を描き、やがてチューブになる。僕はそんなひと繋ぎの解釈をしました。

そして、このイメージの変化は、一つの宗教的な世界観として表現されているように思います。実際、本文中にはキリスト教や仏教の言葉が多用されています。

また、チューブのイメージは以下のようにその宗教性に直接関連しているようです。

りもーとふぃーと
あっぷわーどもーどの
みちびきとともに
とてもいいちゅーぶが
救済にのりだす
まんたんの
VOIDが
信仰心をもちあげて
じんるいは
くちをまうえにひらくだろう

「りもーとふぃーと」

「じんるいは/くちをまうえにひらく」とあるように、詩集の後半では人間の身体が一つの管として捉えられ、「分泌」というモチーフを介して、「親愛なるせくれしょおん/きみは/なんて分泌でしょう/(中略)/あのきらきらは/ここにいるみんなのいのちを/よろこばせる」(「せくれしょおん」)と、あらゆる生(あるいは性)が肯定されます。

このように、僕はいくつかの作品におけるイメージの共通点とその変化を、まるで謎解きをするように読んでいきました。

蜆シモーヌ詩では、「りもーとふぃーと」や「ろーとしとる」のような独自の概念や、「のーり め たんげーれ」のように既存の言葉を独自に解釈したものが提示されます。

ちなみに、「のーり め たんげーれ」は聖書に記されたキリストの言葉が由来になっていて、それが人形浄瑠璃という題材で解釈された結果、独自の概念として登場しています。

未読の方にはそれらの概念が難解に思われるかもしれませんが、基本的に詩はそれらの意味を一義的に定義するのではなく、読者の想像力を膨らませる方向に働いています。また、前述の文体の心地よさが内容の奥深さを味わいやすくしてくれています。

改めてになりますが、食べやすく、しかし味わいはどこまでも奥深い、この詩集はそういう食べ物だと僕は考えています。

そして、この詩集は宗教的な世界観を表現しているだけではなく、他にも様々な主題の作品が収録されています。ただ、僕は収録されている作品の根底には前述の世界観が存在するという解釈をしています。

たとえば、詩集の中には蜆シモーヌ自身の詩や言葉への考え方が表現されたような作品群があります。そこでは、蜆シモーヌの基本姿勢が明示されます。

きっとぼくも
すすんでわれめになろう
ひとのいかない
低いほうへいこう
あかいぷりみてぃぶな
性になろう
それが
ぼくのしんじるあなきずむ

「にゅーばらんす」

このように、蜆シモーヌは「低さ」を志向しています。そのなによりの実践が詩の文体であることは間違いありません。

また、この低さは宗教観とも関連しています。

みんながみんな
幸福のための練習に
ひとしく成果をえられるなら
なにもあの人も
くだることはなかったろう

(中略)

あの人は、そうか
水だったのか
ひとりくだって
いや
くだったのではない
あの人は
ひとりあがったのだ

「石を抱く人」

管の中を低く降りていく、それがつまり高みであるような教え。そんなイメージが湧きます。そしてその教えを蜆シモーヌ自身が実践しようとしているのです。

そう考えると、発話される言葉は一種の分泌物と捉えられるでしょう。また、縦書きの詩の一行一行をチューブのように捉えることもできるかもしれません。詩の言葉すらも、この世界観の中に位置づけることができるのです。

他にも、第二次性徴期が主題になっていると読める「受難」や「命令」などは、低いところから高くなろうと、成長しようとしている生(性)のエネルギーが表現されていると考えられそうです。

また、冒頭に引用した原爆を題材にした「カウント」や、東日本大震災を題材したと解釈できる「ひゃくまんとおりのたましい」は詩集の世界観をもって現実の災禍を語った作品だと位置づけられるでしょう。

僕はまだこの詩集を味わい尽くせていない

このように、僕は最初に見出した宗教的世界観をもとにして、それぞれの作品を解釈していきました。

ただし、これはあくまでも僕の読み方にすぎず、世界観も僕の解釈でしかありません。

宗教的世界観についても、細部を検討すると矛盾点があるかもしれません。実際、より定義を厳密にした解釈をここで行おうとしたのですが、収集がつかなくなってしまいました。もちろん、この一筋縄でいかなさがこの作品の奥深さに繋がっていることは言うまでもないことでしょう。

それに、白状すると、実は僕は詩集後半に収録されている作品の解釈がうまくいっていません。

「せくれしょおん」、「ぱり、これ」、「えんとろ ぴー」などはこれまでの自分の解釈の中に位置づけることができたのですが、それ以外は自信がないというのが正直なところです。

「てぴ と きゅ」には「水平」という詩句が出てきて、垂直的な宗教観と対比されているのかなという想像をするのですが、作中に登場する「てp」と「てq」という概念も含めて、理解できないことだらけです。

「あにま」や「みっしんぐ」などのページに文字を散りばめたようなレイアウトの作品は、ひらがなの生命感をさらに突き詰め、一文字単位や音素のレベルで表現しているように感じられます。まるでアメーバが蠢いているような、ある意味で、意味というものが通用しない世界のようにも思えます。

「まほらに」と「浮き舟」にいたっては、単語ごとに古語なのか造語なのかを調べながら読んだのですが、僕には内容を読みとるのも困難でした。ただ、この二作は他の作品と比べて大人っぽいというか、成熟した印象を受けます。「ななしの星」や「あなたの言葉を買いにいきます」は内容を理解することは難しくないのですが、詩集全体の中でどういう位置づけにあるのかを解釈しきれていません。

本当なら詩集が出てからなるべく間を空けず投稿する予定だったのですが、うまく解釈できないところを落とし込めないまま、どんどんと時間が経ってしまいました。

どうしようかといろいろ悩んだ結果、僕は解釈に至っていないところも含めて、ありのままに書くことに決めました。つまりこれがそれです。

その上で、「理解する」ことができなかったとしても、この詩集が持つ味わいは全然損なわれていないことを言いたいです。むしろ、まだ言語化できていない味がたくさん残っているとも言えるでしょう。

また、(少なくとも僕の知る範囲の)世の中には、「まだわからないところがあるんです!」なんて言っている書評を見たことがなくて、しかもそれらの書評を読んでもピンとこないままの作品があったりして、自分なりに読めばいいということをわかってはいるものの、自分の読みの拙さに少し落ち込むようなこともあるのです。

だから、一つくらい当たって砕けた結果を正直に書いたものがあってもいいのではないかと、開き直りかもしれないけれどそう思ったのです。

詩を、詩集を完全に理解することなんてできなくても大丈夫です。

改めて言いますが、僕はこの詩集が五本の指に入るくらい好きです。これからもずっと読み続けるでしょう。たぶん、そのたびに新たな発見して、それでも最後まで味わい尽くすことができないのだと思います。

そういう関係性が僕とこの詩集の間には成り立っています。

では、今回はこの辺で。

もし可能なら、この詩集を読んだ方の感想や解釈を知りたいと思っています。実はここに書ききれななかった内容もあるので、コメントや、たまにスペースをやることもあるのでそのときに話題を振ってくれたら嬉しいです。

【更新情報】
20230319
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