誤読#5『する、されるユートピア』井戸川射子、『イギ』千種創一、『TEXT BY NO TEXT』橘上+松村翔子+山田亮太、『MELOPHOBIA』安川奈緒
今回の誤読は一つの詩集を扱うのではなく、再読も含めて2023年1月から3月くらいに読んだもののなかで特に気になった四つを紹介していこうと思います。相変わらずの遅筆具合ですね。
この企画の意図や目的などをまとめた#0は以下のリンクから。
一つのパートはこれまでの一記事と比べると短いのですが、全体ではかなりの分量になっています。数回に分けて読むのが良いかと思います。
それでは、早速はじめましょう。
井戸川射子『する、されるユートピア』
一冊目は井戸川射子『する、されるユートピア』(青土社)です。
井戸川射子は小説「この世の喜びよ」で168回芥川賞を受賞しましたが、その前に本詩集で第24回中原中也賞を受賞しています。
この詩集は最初、私家版で上梓されました。私家版とは個人が出版社を介さずに出版した本のことで、一般的な書店にはほとんど流通することがありません。その後、本詩集は中也賞受賞をきっかけに改めて青土社から刊行されました。
僕は私家版を持っている(ちょっと自慢です)ために青土社版を持っていません。引用はすべて私家版を参照したものになっています。もしかすると、細かい部分で青土社版と相違点があるかもしれません。
僕は井戸川が芥川賞を読んだタイミングで再読し、この詩集の味わいを言語化できると思ったため、今回取り上げました。実を言うと、最初、僕はこの詩集の良さが全然わからなかったのです。前回の記事でも書いた「理解するのに時間がかかった」詩集なわけですね。
当時、少しでもヒントになればと中也賞の選評を読んだりもしたのですが、そこに書かれている内容は「理解」できたものの、作品に「共鳴」することはやはりできませんでした。こうなってくるともはや悔しさすらあって、そこから折に触れてはこの詩集を何度も読み返していました。
そして約一年後のある日、急にこの詩集の美味しいところがわかりました。自分なりの味わい方がわかったのです。
では、それをできる限り言語化してみようと思います。
井戸川の詩は散文的な詩だと思います。これは井戸川の行分け詩にも共通することなので、形式というよりは表現のタイプ的な話です。
では、散文性とは何かという話になりますが、これには多くの先人がそれぞれの定義をしています。かなり個人的な感覚を言うと、散文性とは言葉を切り詰めるのではなく、その反対方向を志向することだと考えています。つまり、散文的な詩とは、散文の冗長さによって何かを表現している詩と捉えています。冗長さというとネガティブに聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。
井戸川の詩にもそんな冗長さがあります。詩集冒頭の詩の書き出しの一節を引用します。
切り詰めた表現ではなく、描写を重ねていく感じなのが伝わるでしょうか。でも、たとえば小説の文章とも違うのがわかると思います。カメラが切り替わるみたいに、あるいは漫画のコマが移動するみたいに、場面は変わっていくわけですが、行はひと続きで、イメージも途切れずに繋がっています。
僕がはじめこの詩集の美味しさを味わえなかったのは、この繋がりながら飛躍している文体の味わい方が上手くいっていなかったのが理由でしょう。僕は一つ一つを深く理解しようとしながら読んでいました。たしかにそういうふう読む方が良い詩もあるでしょうが、散文的な詩は、そうでない詩よりも「流れ」という要素が強いです。だから、なんというか、流れに身を任せるような意識で読むのが大切なのだと思います。
極論、一箇所を十分かけて読むより、五分で全体読むのを二回行った方が良い気がします。少なくとも、僕はそういうふうに味わいました。とはいえ、流し読みをするというわけではありません。立ち止まらずに、自分の感覚を流れと一体化させながら読むことで、はじめて見えてくる景色があるのです。この詩集の流れはそこまで速くないので、溺れることはないと思います。
また、井戸川の詩句には透明な「遠さ」があります。
読者とページの間に透明な膜があるような、そんな不思議な感覚です。井戸川の第二詩集は『遠景』というタイトルなのですが、まさに言葉の特徴が端的にあらわれたタイトルだと思います。
「遠さ」とは別の例えを用いるなら、あらすじを知らない映画の冒頭の数分を観ているときの感覚が続くようなイメージでしょうか。
舞台はどこで、登場人物にどんな人がいてどんな関係なのか。それがはっきりとわかる手前で表現されているような感じです。それはたぶん、終始、語り手の「感じたまま」の描写が徹底されていることに由来しているのだと思います。
そんな、背景や文脈のとりにくい(しかし、それは間違いなく存在していて、その気配はたしかに感じられる)言葉の中に、ふっ、と語り手のモノローグがあらわれるのです。
いちフレーズだけを抜き出すと魅力が半減してしまうのですが、流れの中でぽつりと呟かれるモノローグには、自分自身と言葉や身体との距離感があらわれています。
掴みきれない文脈や背景を感じようと、作品の流れに無防備になっているときにこういうフレーズが不意に、しかし柔らかく胸に届いて、じーんと響くものがあるのです。
しかも、語り手は自分の言葉の切なさに溺れることなく、次の言葉を語っていきます。それが逆にモノローグの余韻に繋がっています。
『する、されるユートピア』は、完全に理解することは難しいけれど、「共鳴できる」詩集であり、時間をかけて愛せるようになった一冊です。
この詩集を読むたび、わからないまま、たしかに僕は感覚を受けとっています。
千種創一『イギ』
二冊目は千種創一『イギ』(青磁社)です。
千種は歌人としても活躍しており、2015年に第一歌集『砂丘律』(青磁社、文庫版はちくま書房)を上梓し、日本歌人クラブ新人賞、日本一行詩大賞新人賞を受賞しています。第二歌集『千夜曳獏』(青磁社)の刊行後、2021年に「ユリイカの新人」に選出され(和合亮一・選)、第一詩集である本詩集を上梓しました。ちなみに、『千夜曳獏』にも詩が収録されています。
千種の作品を語る上で大切な要素として、彼が中東在住であるということがあります。千種は「中東短歌」という短歌同人誌で活躍していたこともあり、すべてではないと思いますが、千種作品の重要な舞台として中東が登場していることは間違いないでしょう。また、現在がどうかわかりませんが、少なくとも『ユリイカ』に詩を投稿していた頃、彼は中東在住でした(新人欄掲載時の在住地がヨルダンになっていたはずです)。
そのため、僕も自然とその情報を前提に詩集を読みました。その作者の情報をあえて抜きにして読むこともときには大切ですが、今回は初読ということもあって詩集の生い立ちに正面からぶつかっていった形です。
冒頭に位置する「削肉包(シュワルマ)」は、千種作品の魅力が端的に詰まった作品だと思います。
串に刺した大量の肉が加熱の際に回転する様子(日本のケバブ屋さんでも見られると思います)を「あるんあるん」というオノマトペを用いて表現しています。そして、その音はそのまま「あるだろうか(いやない)」という反語的な意味に変化します。この音と意味の両立に僕は惹かれました。
まず擬音の選択が絶妙です。規則的な運動でありながら、そこで回っているのは肉であるという生々しさが感じられる点が、他に考えられないくらいぴったりです。僕は中原中也「サーカス」の有名のオノマトペを連想しました。
ほかにも詩集では音楽的な表現が繰り返されるのですが、それと対比されるように随所で描かれるのが静けさです。たとえば、音を食べるという架空の生き物について手紙の形式で語る「すなつむり」には以下のような詩句があります。
静けさの中で生が克明になっていくのが伝わります。個人的には架空の生物が登場するということもあり、僕は漫画『蟲師』を思い出しました。この対比は「Got Lost」でも描かれています。
このような対比を支えているのが詩集全体に漂っている異国感だと思います。
ただし、この詩集の異国感は独特なバランスで成り立っています。日本で生まれ育ち、しかも海外への渡航経験すらない僕のような読者がイメージする、偏見も混じっているであろう括弧つきの「中東」のイメージを、利用しつつ絶妙に裏切っているような気がします。そして、千種は意図的にそのようなバランスをとっているいるのではないかと僕は妄想してしてしまうのです。
第一に、この詩集は(僕から見た)「異国」で暮らしている生活者の視点で描かれています。「礼拝所」や「犠牲祭」という単語が自然に登場するのと地続きに、マクドナルドやAmazonが登場するのです。
そして、この点が千種の意図と、その絶妙さを感じてしまうところなのですが、引用からもわかる通り、この詩集は全編を通して歴史的仮名遣いが用いられています。それだけでなく、随所で日本史からの引用が確認できます。
「正義は我に在り、敵は本能寺に在り/本能寺に立て籠もって焼けていくテロリストたち」(「削肉包」)は、明智光秀の有名なセリフからの引用と一読して気づくでしょうが、他にもいろは唄や、柿本人麻呂や西行法師の和歌も引用されています。「此頃都」という詩には江戸時代に書かれた二条河原落書がオマージュがあります。僕が気づいたのはこれくらいですが、もしかしたらほかにもあるかもしれません。
中東という作中舞台は日本から見ると地理的な距離があるわけですが、歴史的な引用は現代の読者に時間的な距離を意識させます。このような二種類の遠さを用いながら、同時に生活感のある表現が続くことによって、この詩集は独特な異国感を成立させているのだと言えるでしょう。
また、この詩集には様々な視覚的な表現が行われています。
たとえば、自爆テロをモチーフにレシートの形式で表現している「残っていた七枚」や、Wikipediaの記事のような形式で本文と注釈の二部構成で表現された「ヒルドゥート遺跡」。他にも、看板の文字を枠で囲んで表現したり、検閲をあえて「●●●●」(「炭の消える」)という伏せ字であらわしたりもしています。縦書きで引用できなかったのが残念ですが、「削肉包」の「—肉肉肉肉肉肉—」もその一つでしょう。
これらは生活者のまなざしの延長線上にあるの同時に、それ以上に一つの距離感の表現だと感じました。
これらは視覚的であるのと同時に、物質的な表現と言えます。読者は言葉を読むことによって言葉を自分のものにしてしまう側面があります。この文章なんかまさにそれですね。言葉が書き手と読者の中間に位置づけられているからこそ、読者がそれを自分の側に引き込んでしまうことが可能なわけです。
しかし、物質的な表現はそれが難しいような気がします。どこまでも他者的なのです。そしてその他者性が逆説的に読者の想像力を掻き立てるのではないでしょうか。自分のものになり得ない物質的な表現を介して、その向こう側で生きている(あるいは生きていた)、自分とは異なる人間の存在を克明に感じるわけです。
このように詩集では様々な表現が駆使されているわけですが、そうやって表現されるものの一つに人間の持つ暴力性や加害性の存在があります。
冒頭の「削包肉」の引用にもあるように、語り手は生活の延長線で自然にそれらを見つけます。「中東」がそれらと隣り合わせの環境であることも要因としてあるのでしょう。
前述したような自然さで「内戦」や「テロ」という言葉が詩の中に登場し、視覚的な表現はその向こうにいる犠牲者や加害者の存在を浮かび上がらせます。また、「空の魚」や「青と未遂」では、個人が持つ加害性が描かれています。この二作には共通していると思われる人物が登場しており、それがより読み味を深くしています。語り手はあくまでも冷静にそれらを見つめていて、それがまた逆説的に生々しいのです。これらは遠い舞台で描かれるものでありながら、目を背けたくなるほど身近な問題であり、ここでも距離の存在が効果的に働いています。
砂漠に囲まれた街があって、茫漠とした静寂が街の隅々や人間の中にも行き渡っています。街では人の命や営みがざわざわと続いていて、ときに爆発音や銃声も響くこともあります。そんな街に読み手という旅行者として、僕は訪れるのです。しかし、僕は様々な意味で街と距離があって、近づきたいと思ってもその距離は埋まることがありません、距離を意識しながら砂の街を歩きながら、ふと我に返ってページから顔を上げると、自分の生きている音がやけにはっきり聞こえる——そんな読書体験ができる一冊だと思います。
ちなみに、千種の単行本はどれも造本にこだわりが感じられて、他の本にはない存在感があります。『イギ』の造本も素晴らしくて、本全体が一般的な本よりも物理的に空気を含んでいるような気がして、なんというか、ページを捲ると砂漠の砂がこぼれてきそうな、そんな妄想をしてしまう一冊になっています。
橘上+松村翔子+山田亮太『TEXT BY NO TEXT』(いぬのせなか座叢書)
『TEXT BY NO TEXT』は一冊の本ではなく、異なる作家によって書かれた四冊の総称です。また、それぞれは詩人・橘上の公演「NO TEXT」の内容をもとにつくられています。
それぞれを個別に購入することは可能ですが、個人的にはプロジェクトを立体的に捉えるためにも、お値段的にも、合本で入手した方が良いと思います(合本を買えば送料が無料になるようです、お得ですね←ステマじゃないです)。
この四冊のもとになった橘上の公演「NO TEXT」についても説明が必要でしょう。紹介文には「読みあげる書物も付き従う戯曲も持たず、身一つで舞台に立ち、言葉を即興かつ高速に発し続ける」パフォーマンスとあります。そのような即興性の高いパフォーマンスから生まれた言葉をもとに、本人を含めた三人といぬのせなか座の作家たちがそれぞれの方法で制作したのが『TEXT BY NO TEXT』の四冊というわけです。
四冊には一応、橘上『SUPREME has come』→松村翔子『渇求』→山田亮太『XT Note』→『NO TEXT DUB』の順でナンバリングがされていているのですが、僕は『SUPREME has come』→『XT Note』→『渇求』→『NO TEXT DUB』という順番で読みました。自分の興味に従っただけで、特に深い意味はありません。
僕はこの四冊を、それぞれの語りの形式やその特徴を比較しながら読んでいくところに面白さを見出しました。作家によって、あるいは表現ジャンルの違いによって、言葉のあらわれ方が異なっているわけです。
ここからは一冊ずつ、僕がどのように「面白がったのか」を紹介していこうと思います。
橘上『SUPREME has come』
最初に読んだのは橘上の詩集『SUPREME has come』です。
収録されている作品はいぬのせなか座の山本浩貴とhによって、視覚的かつポップにレイアウトされています。そのぶん、ここで正確に引用することはできないので、そういう意味でもぜひ読んでみてほしいです。なんというか、こんなにもゴシック体の、しかも太字が似合う詩集を僕は読んだことがありません。
橘の詩についてまず伝えたいのは、「笑える」詩であるということ。「笑える」にも色々なタイプがありまずが、橘の場合は明確に、意識された「笑い」であると思います。
「橘の詩はなぜ笑えるのか」という問いは正直手に負えませんが、あくまでも感覚的な表現であることを前提として述べると、本詩集において橘は、笑わせる手段として言葉を使っているのではなく、言葉によるお笑いそれ自体を目的として表現しているような感じがします。そこでは、語りによって意味が伝わってくる以上に、言葉のあり方が変化していくところに面白さがあるのです。
橘の詩の語りの特徴を整理してみると、大きく分けて二つのタイプの語りがあるように思います。一つはポリローグ的な語り、もう一つはモノローグ的な語りです。ポリローグという言葉は(たぶん)僕の造語で、モノローグに対比される語りだと思ってもらえれば良いです。モノローグが一人語りなら、ポリローグは複数人的な語りです。
橘の語りを考える上で大切なキーワードとして「過剰さ」があって、それが笑いに与えている影響は非常に大きいと思っているのですが、二種類の語りは過剰さの方向性の違いであるとも言えるでしょう。ポリローグ的な詩は、まさしく漫才やコントのように捉えることができます。
ポリローグ的な詩は短い掛け合いや独白を重ねていくことで詩を展開していくのですが、ここでは、言葉が持つ既存の価値基準をぶつけて相殺し、一種の真空状態を発生させている感じがします。「無」を生み出している、とも言えるでしょう。
詩集冒頭の連作である「時代はもう現代詩」でもそれは言えて、冒頭から現代詩というジャンルやその世界、そしてそこにあるシステムについて、強烈な皮肉を言った直後にそれ以上の自虐をかますのですが、タイトルの元になっているフレーズは非常に印象的です。
言葉遊び的な表現とも言えるのですが、その「遊び」によって中間をすっ飛ばして真理に辿り着いてしまう感じがあります。瞬間移動によってエベレストに登頂してしまうというか、ある意味では非常に台無しなのですが、そこに爽快さが感じられるのですね。こういうフレーズが至るいたるところにあって、それが空虚だけど風通しの良い笑いに繋がっているのです。
ほかにも、「あたらしい憲法のはなし」はかつて文部省が1947年に発行した『あたらしい憲法のはなし』と「りぼん」で連載されていた柊あおいの『星の瞳のシルエット』(集英社)という漫画からの引用だけで構成されています。
引用によってつくられた詩はほかにもあるのですが、これらは性質の異なる語りを馴染ませるのではなく、逆にその違いが露骨に見える形で構成されています。ここでもタイプの違う言葉をぶつけることで生まれる効果を狙っているのでしょう。
次に、モノローグ的な語りについて考えてみます。
モノローグによって語られている作品で一つの到達点であると思うのが「戦争自体賛成詩(INOCENT MIX)」です。
ポリローグ的な詩は、言葉をぶつけることで瞬間的に「無」を生み出していましたが、モノローグの場合は徐々に言葉が「無」に近づいていきます。この詩の場合は、「戦争」という言葉が内包する要素をどんどん取り出していっているわけですね。「戦争」という言葉に針で穴を開けて、風船から空気が抜けていくようなイメージです。そして、最終的に「戦争」という言葉それ自体が一つの穴になってしまいます。かろうじて、言葉として存在しているということが外縁を定義しているものの、その内側は空っぽになってしまうのです。語れば語るほど、対象としている言葉が空虚になっていく、そんな感じです。
また、「あらかじめ決められた欲望(仮)」や「This is not 水を飲む男」といった詩では、その対象が言葉だけでなく特定の現象に向けられます。具体的に言うと、この詩では「舞台上で水を飲む」という行為を突き詰めていきます。行為の裏にある欲望について言及し、その欲望の正体を深く考えていく。すると、どんどんと語り手は(そして読者は)「行為」と「欲望」の関係性がわからなくなっていきます。飲みたくて飲んでいるのか、演出として飲まされているのか。言葉を尽くして正確に言い表そうとすればすると、一つの現象を構成する要素の関節が脱臼していくのです。ここにもある種の「無」があるような感じがします。
ほかにも、「午前四時の時間殺し」や「Hi-Hi Pan-Cake」といった詩を読むと、言葉における時間というものが無効化されていくような感覚があります。
個人的な考えですが、文章、より狭義に言えば言葉というものは未来と過去の存在を前提に成り立っているように思います。
「これはペンです」という文章を文節で分けると、「これは」、「ペン」、「です」となるわけですが(合ってますよね?)、ここで「これは」という言葉はそのあとにくる「ペン」「です」という未来を信じているし、「です」もまた、自分の過去に「これは」「ペン」があることを前提にしています。文章によって情報をあらわそうとすると、どうしてもそこに時間の概念が必要不可欠になるわけですね。
しかし、先ほど挙げた詩の語りは常に「今」であり続けます。未来へ進むのではなく、「今」から次の「今」をひたすら繰り返すのです。過去との繋がりが希薄なため、文脈をとることも難しいです。
ここにも「今」を突き詰めることによって、結果的に「今」そのものが認識できなくなるような「無」があるように思います。
さて、ここまで何度も指摘してきた通り、橘の詩の語りには過剰な言葉によって「無」が生まれる点が共通しているように考えられます。それが笑いの要因であるような気もしますが、この「なぜ」という問いも突き詰めるほどに空虚になっていくようなところがあって、そこで手綱になるような理論を僕は持っていないので、このあたりで次に移ろうと思います。
ちなみに、詩集の最後の二作はそれまでの作品と異なり、むしろ非常に静かなで真顔な作品です。これまでとのギャップもあって、そこから感じられる静けさはぞっとするほどです。
山田亮太『XT Note』
次に読んだのは山田亮太の『XT Note』です。
初めに断っておくと、これからの三冊についてははじめに読んだ『SUPREME has come』を一つの基準として比較しながら読んでいくような形になります。
この詩集には、橘の「NO TEXT」の内容に、山田が彼自身の言葉を加えながら再構成した「XT Note」シリーズと、山田がこれまでに書いてきた上演や記録に関わる詩が収録されています。
「XT Note」シリーズと橘の詩の語りを比較して考えてみましょう。
『SUPREME has come』と「XT Note」シリーズは、共に「NO TEXT」の公演が基になっているはずなのですが、二つの語りはまったく異なった性質を持っています。
二冊を比較するために、「XT Note」から「戦争自体戦争詩(INNOCENT MIX)」と同じ内容が語られている箇所を引用してみましょう。
橘の語りは、語り手の顔が見えます。キャラがある、と言ってもいいでしょう。しかし、山田の詩の語りからはそれが感じられないように思います。
私は日頃から、普段詩を読まない人に詩を布教していて、そのターゲットの一人に祖母がいます。祖母に山田の詩集『誕生祭』を読んでもらったときの感想の中に「この詩を書いた人の顔が見たい」というものがありました。僕にもその感覚がとてもわかります。
特定の誰かがではなく、顔のない誰でもない人間が語っているような語りなのです。また、作中には頻繁に「あなた」が登場しますが、これも特定の誰かではなく、不特定多数の中の一人、といった感じがします。この語りの特徴は、山田の他の詩集にも共通する文体なのでしょう。
橘の(というか、ほとんどの文芸作品の)一人称の語りは、語り手の感覚や思考したことを外側に向けて語っていると言えます。つまり、語りの出発点が語り手にあるということです。
しかし、山田の場合は語りは外部化された言葉それ自体から始まっているように感じられます。ここからさらに妄想を広げると、(あえてこの表現を使いますが)一般的な作者が出力される言葉に注目しているのに対して、山田は受容される言葉の方を強く意識しているように思えます。「どう表現するか」ではなく、「どう読まれるか」の方を強く意識しているのではないか、というわけです。
自己表現ではない言語表現というのは珍しくありませんが、山田の場合は言葉を「表現する」ものというより「読者を刺激するもの」として扱っているような気さえします。ここまでくると完全な妄想ですが、それくらい独自の言葉のあり方だと思います。
そういう意味で、橘と山田の語りは極めて対照的だと言えるでしょう。それらを比べながら読んでいくと非常に楽しめると思います。
さて、前述の通り、この詩集には「NO TEXT」と直接関連のない詩も収録されています。しかし、そのなかにもこの詩集に収録された必然性が感じられるものがありました。
「記録についてのメモ」には作品のそれぞれのまとまりの冒頭に、「ひとつのものに向かって、三人が同じ距離、別の方向から同時に朗読する。」といったふうに朗読の仕方について指定があります。
その後に書かれている本文はA、B、Cとパートが分かれていて、ほとんど同じ文章なのですが、ところどころに微妙な差異があります。指定通りに朗読されると、ひとまとまりだった三人の語りが一瞬分裂したり、まとまったりするのが想像できます。
橘の場合、ポリローグ的な語りであったとしても、あくまでも橘一人、あるいは語り手一人が演じ分けているように感じられます。一方、「記録についてのメモ」は複数人がぞれぞれの声で語るという形式でしかできない表現が試みられています。ここにも二人の表現が対照的であることがわかります。個人的には「三人が同時に朗読する。「キツネ」が駆けていくのを見ながら。」という指定が気になります。映像等を使わずに実演するのを見てみたいです。
松村翔子『渇求』
『渇求』は詩集ではなく戯曲の作品です。
この作品は実際の事件をモチーフに、自閉スペクトラム症を抱える子供と、その母親の育児放棄を描いた作品で、「戯曲の芥川賞」と称される、第67回岸田國士戯曲賞の最終候補に選出されています。
『渇求』のエピグラフには橘の詩集『うみのはなし』から「無題」が引用されています。また、『うみのはなし』収録の「目」や『SUPREME has come』収録の「黄色っぽく見える風」の内容が下敷きになっている登場人物の語りがあります。
作品全体を通して登場人物の内面や情景描写の表現力が高く、橘の詩の内容も完全に戯曲内に溶け込んでいます。
ただ僕に演劇というジャンルの経験値がほとんどないので、この優れた読み物としての表現が、どのように舞台上に表現されるのかの想像がまったくつきません。どうやって実演したのでしょう。
一方で、第二幕一場や第二幕五場において、異なる場所を同時平行的に描くというのは小説などでは難しい、演劇ならでは表現だと思いました。
さて、ここからは戯曲のなかに置かれた橘の詩が、作品単体として存在しているときと比べてどんなふうに変化しているのかを考えてみます。
まず、エピグラフにある「無題」における「鏡」は作品が始まるとすぐにそれが、主人公の一人「鏡子」の象徴だと思い至るはずです。
もともと詩作品には具体的な文脈がなく、あくまでも抽象的なものとして成立しているのですが、読者が「鏡」に鏡子を代入して考えたとき、詩に具体的な文脈が生まれます。
「目」や「黄色っぽく見える風」の内容を下敷きにしたモノローグも、具体的なストーリーの中に言葉を置くことによって、同じように一つの文脈を生み出していると言えます。点として存在していた詩作品をストーリーという線で繋いでいくようなイメージでしょうか。それぞれの作品の無数の解釈のうち、松村の解釈の一つを採用しているとも言うことができるでしょう。
山田の「XT Note」シリーズが「NO TEXT」の語りをあくまでも物質的に操作することによって異なる表現を行っているのに対して、こちらは松村のオリジナルのの文脈の中に置くことによって橘の言葉の異なる一面を引き出していると言えるかもしれません。
次は、より具体的にストーリーの内容を「無題」の内容をもとに分析していこうと思います。
作中の印象的なシーンとして、鏡子とミノリ(実)がお互いの顔を見つめる場面が何度か繰り返されます。
この行為はコミュニケーションの試みであるのと同時に(あるいはそれ以上に)、鏡子にとっては自身の実存的な意味を求める行為として読めます。しかし、鏡子からミノリへのまなざしも、ミノリから鏡子へのまなざしも成立することはありません。「無題」は鏡が別の鏡を使って自分の顔を見ようとするという内容です。つまり、鏡子からミノリへの視線の働きは、合わせ鏡のような空虚なものになってしまうことが詩の内容から暗示されているわけです。
さらに、ストーリーが進むに従って、鏡子からはミノリと向き合う以外の選択が失われ、後戻りができなくなっていくように感じられます。そこには核家族的な性規範など、現代社会と地続きな構造的な問題が関わってくるわけですが、それらによって、鏡子はミノリと適度に向き合うことができなくなっていくのです。
結果として、鏡子のミノリへの向き合いは神経症的な過剰なものにならざるを得なくなっていき、逆説的にそこから目を逸らす方法も歪んだ形での逃避になってしまうわけです。それが育児放棄や、ドラッグと自傷的な快楽への依存としてあらわれたように捉えられます。しかも、ここでも合わせ鏡のように育児放棄と自身へのセルフネグレクトが重なって見えてしまいます。
そして、このミノリとの向き合い方が過剰に狭まっていく感じが、橘の詩の語りと通じるものがあるように思われるのです。
橘の詩において、前述の通り語りの過剰さは笑いになっているのですが、『渇求』においてまなざしの過剰さは悲劇に繋がっていくのです。しかし、過剰性を突き詰めていった結果として空虚があるというのは、二作に共通する要素だと言えるでしょう。この点において、二冊は対照的な印象が表出されているのですが、本質的には同じ対象の中心を持っている作品だと考えられるのです。
『NO TEXT DUB』
『TEXT BY NO TEXT』最後の一冊は『NO TEXT DUB』です。
これは橘上の「NO TEXT」の三公演をテキスト化したものです。他にも、橘が書いた「No Text 宣言」と『現代詩手帖』2018年11月号が初出の、橘が企画について紹介した「NO TEXT」というテキストが収録されています。さらに、三公演分のアーカイブの二次元コードも収録されています。
二つのテキストは「NO TEXT」や『TEXT BY NO TEXT』を読んでいく上での補助線になります。こういうコンセプチュアルな企画にとっつきにくさを感じている方は、最初に読むと良いと思います。逆に、作者の考えを最初に知りたくないという方は最後に回しましょう。
さて、『SUPREME has come』の語りは非常に口語的、つまり話し言葉に近い性質を持っているわけですが、『NO TEXT DUB』を読むと、『SUPREME has come』の語りはあくまでも「話しているように書かれた」言葉であるということを認識させられます。『NO TEXT DUB』は実際の公演で語られた言葉を文字起こししたわけですから、それと比較すればそう思うのは当たり前なのですが、この感覚は二冊を比較する上で無視できません。
『NO TEXT DUB』には非常にプリミティブな語りが記録されていると言えます。
たとえば、言い淀みや繰り返しといった、普通なら編集段階で整えられてしまう部分もありのままに残されているわけです。
また、主語と述語が繋がっていない文章もそのまま記録されています。それが不自然に感じられないのは、読者の中に「これは話されたものである」という了解があるからでしょう。
この感覚を突き詰めると「身体性」というキーワードに行き着きます。『NO TEXT DUB』には身体があるのです。
話し言葉を文字起こしするとわかるのですが、常に文法的に正しく、整えられた言葉で語っている人はほとんどいません。前述したような言い淀みや言葉の不自然な接続の仕方があったとしても、身体の存在がそれらを一貫したものとしてまとめあげているのだと思います。
僕は本文を読み終えたあとに公演のアーカイブを視聴したのですが、橘が現れた瞬間、「ああ、身体がある」という非常に当たり前のことを強く感じました。本文の語りが持っていた「身体性」が、いよいよ本物の「身体」としてあらわれたような気がしたのです。
しかも、橘は状況ごとにキャラクターを宿しながら声音を変えて語っていました。これはテキストだけでは伝わらなかった要素です。さらに、語りながら大きく身振り手振りをしたり、ときに寝転びながら語ったりと、動画にはノンバーバルな表現が溢れていました。
また、「NO TEXT」の公演はその形式上、前述のモノローグ的な語りの要素が強いです。公演を観ながら思わず笑ってしまうことは何度もあったのですが、不思議なことに『SUPREME has come』のモノローグ詩を読んだときに感じた空虚さをほとんど感じませんでした。
なんというか、笑いどころが変わった気がするのです。具体的には、言葉のあり方によるものというよりも橘の語りの声色やリズムによって笑いが生まれているような気がしました。
『SUPREME has come』と内容が共通する点もあるのですが、『NO TEXT DUB』はあくまでもイメージが「有」に留まっています。そして、何がそれをもたらしているかと言えば、それはやはり「身体」なのだと思います。そして「身体」が強く感じられるのは、『NO TEXT DUB』が限りなく編集のない「記録」であるからなのではないでしょうか。
そう、「記録」というのが『NO TEXT DUB』の形式の特徴です。
他の三冊は良くも悪くも「表現物」であり、それによって失われる身体があるのだと思います。また、一つの身体が続いているということによって、言葉と時間が強く結びついたまま存在しています。そういう意味で、『NO TEXT DUB』の本文中に経過時間が記載されていることは非常に象徴的です。
ここまで考えて、僕は今、「NO TEXT」の公演を生で見てみたいと強く思っています。配信ライブという選択肢もある現在だからこそ、同じ空間・時間で身体を目の当たりにしたいです。
さて、ここまで四冊を読んでいった感想を書いてきましたが、『TEXT BY NO TEXT』の感想は四冊をどのような順番で読むのかによって大きく変わってくる気がします。
ぼくは深く考えず、最初からナンバリング通りではない順番で読んだわけですが、ナンバリング通りに読むことで感じられる良さもあるでしょう。すべてを読んだ今は、たとえば『NO TEXT DUB』→『渇求』→『SUPREME has come』→『XT Note』で読むと、徐々に言葉から身体性が希薄になっていく変化を感じられるような気がします。はじめて読んだときの感覚というのは二度と味わえませんが、順番を変えて再読することで改めて見えてくるものがあるかもしれません。
安川奈緒『MELOPHOBIA』
最後に紹介するのは安川奈緒の『MELOPHOBIA』です。
本詩集は2006年に刊行され、第12回中原中也賞の最終候補になっています。安川が2012年に亡くなってしまったこともあり、『MELOPHOBIA』は彼女の唯一の詩集なのですが、現在すでに絶版になってしまっています。
僕が本格的に詩を読み書くようになってから、色々な方から「『MELOPHOBIA』はすごい」という話を耳にしていました。しかし、すでに絶版になっている詩集を入手することは難しく、気になりつつもずっと未読でした。
安川の全集が出版されるという話が2019年くらいにあったのですが、その後、現在まで続報はありません。Twitterで「安川奈緒 全集」で検索すると、今でも定期的に刊行を待ち望む声が投稿されています。
僕はある日、まるで天啓のように、図書館の相互貸借を利用すればを読めるのではと思いつき、数年の時を経て『MELOPHOBIA』を手にすることができました。
ちなみに、相互貸借とは図書館同士で蔵書を融通し合う仕組みのことで、たとえば僕が行ける範囲の図書館にない本でも、遠い別の街の図書館に蔵書があれば、それを取り寄せて借りることができるというものです。前から存在自体は知っていただけに、それまで『MELOPHOBIA』を読むことと結びついていなかったことが悔やまれます。とはいえ、詩集や歌集には絶版になってしまって入手困難なものも多いので、今後も有効活用していくつもりです。
話が少し逸れてしまいました。早速『MELOPHOBIA』を読んで感じたことを書いていきましょう。
あらかじめ断っておくと、これを書いている現在、僕の手元に『MELOPHOBIA』はありません。詩集からの引用は、借りていたときに書いたメモを参照したものです。誤字脱字がないようにメモしたつもりですが、引用が不正確な箇所があるかもしれません。ご承知おきください。
僕は『MELOPHOBIA』を読んで、この詩集で語られている言葉は、そのすべてが語り手の内面なのではないかと思いました。
もちろん、詩集中には描写も存在しますし、詩集の最後に位置している長編詩は三人称的視点なのですが、語られている対象はありのままに語られているのではなく、語り手の強烈な自我というバイアスを通して言葉になっているような感じがするのです。バイアスというとネガティブが捉えられてしまうかもしれませんが、その歪み方がこの詩集の最大の魅力だと思います。
今回も、冒頭の詩から個人的に印象的だった連を引用してみます。
語り手は自分を含めたすべてに対して攻撃的で、露悪的で、不道徳な態度をとります。しかも、僕が今まさに使用したような「〇〇的」といった言葉によってひとまとめにされることを最も嫌うタイプであるような気がします(これも決めつけですが)。しかし、それでいて、ときどき不意に触れようとするだけで壊れてしまうような繊細さを見せるです。
一度形式の話をすると、『MELOPHOBIA』で気になったのは、前述の引用のように行分けのない連によって展開していく詩です。
行分けのない詩ということで、井戸川の詩と安川の詩を比較してみると、井戸川の言葉はひと繋ぎのイメージを維持したまま細かい飛躍によって展開していくイメージでした。行分けされていないのと同じようにイメージも途切れていません。
一方、安川の詩で行分けがされていないとき、そこでは逆に一行一行の断絶が露わになっています。句点ではなく、全角スペースによって行が区切られていることもその感覚に拍車をかけている要素でしょう。
ただ、たしかに安川の語りからはある種の断絶が感じられるのですが、それらはより過剰な方向、たとえば日本語自体を解体するような方向には向かいません。言葉を形にまで還元するようなグラフィカルな表現だったり、文脈自体を洗い流してしまうほどの言葉の氾濫は起きません。むしろ、前述した行分けのない連によって展開していく詩は、一つの形式の中に収まっているとも言えるでしょう。
以下の引用のように、中黒(「・」)を多用するタイプの詩においても、たしかにその語りはノイズによってかき消され、読者には届いていないのですが、語り自体はその向こう側で持続しているように感じられます。
日本語や形式の中に収まっているからこそ、安川の語りには一行一行の繋がり、あるいは一行の中にある言葉と言葉の接続にある小さな骨折が認識され、そこにたしかな痛みがあるのです。詩句からは意味が壊れていることではなく、「壊れた意味」が伝わってきます。
そしてそこに、あくまでも人間が語っていることが保たれている感じがします。奇妙な感覚ですが、仮にこの詩集で何かが壊れているとしたら、こういう壊れ方は人間にしかできないだろうなと思うのです。
また、この痛みを伴うような飛躍は、ときにシュールなユーモアとして表出したり、不意に切実な意味を結んだりするのです。
僕は『MELOPHOBIA』が持つこの歪なバランスに惹かれました。
先ほど僕は「人間が語っていることが保たれている」と述べました。しかし、この詩集の語り手の人物像をプロファイルしようとする試みは、たとえそれを行ったとしても上手くいく気がしません。
僕は山田の『XT Note』の語りについて「誰でもない誰かが語っている」と表現しましたが、『MELOPHOBIA』から感じるのは、それと似ているようでまったく異なる感覚です。
ベクトルの絶対値を限りなく0に近づけることによって可能になる語りを表現している(と感じられる)のが山田なら、安川の語りの内部には複数の力が感じられるのです。そして、語りはどれか一つの力によって語っているのではなく、四方八方さまざまな方向へ向かう力に強引にひっぱられ、引き裂かれながら語っているのです。しかも、それは文章という一本の流れの中に無理矢理押しこまれながら表現されています。
語り尽くすことはできず、それどころか語ることによって一層壊れていくイメージ。しかし語り手は語ることをやめません。それがこの詩集の魅力的な歪さの正体なのかもしれません。
さて、ここまでは安川の詩について比較的分析的に紹介してきましたが、これからはより感想で近い内容を述べていこうと思います。
僕は刃物を切りつけてくるような一行一行に、一緒に傷つきながら読んでいきました。
「一緒に」と表現したのは、『MELOPHOBIA』の語り手は自分が語ることによって誰かを傷つけるのと同時に、自分自身も傷ついていると感じたからです。そして、それと逆さまの同じあり方で、読者である僕は語りに傷つけられるのと同時に、自分の中の暗い欲望が逆撫でされる感覚がありました。それはもしかしたら傷つけることの欲望なのかもしれないし、より根本的には関係することの欲望であるような気がします。
受け手として読むことによってその言葉を発したときの語り手の感覚が伝わってきて、ぼくは語り手に「わかるよ」と言いたくなってくるのです。まさに「共鳴」ですね。しかし、カテゴライズされる言葉が拒否されるのと同じくらい、この詩集は安易な共鳴を拒絶するでしょう。それもわかっていて、それでもそう思ってしまうのです。
詩集に挿まれている小冊子において福間健二も同じ文脈で引いているのですが、詩集中には「「助けに来るな/この不幸はわたしのもの」」(「96.9.12 Friday Sunny」)や「そこのひと/このわたしの川で/魚を釣るな!」(「今夜すべてのメニューを」)という詩句が見られます。
あとがきにおいて、安川は「自分が必要した言葉を他人も必要としていると根拠もなく信じること。それ以外に私は他人との関係をもう想像することもできないぐらい友達がいない」と語ります。
それらをふまえて妄想すると、安川の語る「関係」とは、「詩人—詩の言葉—読者」というひと繋がりのものではなく、「詩人—詩の言葉」と「詩の言葉—読者」という関係性が限りなく同じ重さで、そしてどこまでも別個のものとして成立している状態なのではないでしょうか。
この詩集には、絶対的な一対一の関係にならざるを得ないような力があります。
詩集のいたるところから、「お前になんてわかられてたまるか」という声が聞こえてくるのだけれど、同じ作品で「他人の部屋の前で/「おまえのせいで わたしは死ぬ」/と倒れる」(「今夜、すべてのメニューを」)と語ることもあるのです。
好きの対義語は無関心とはよく言ったものだけれど、この詩集は読んだら最後、無関心であることは難しいでしょう。
そして、ここまで色々書いておいてなんですが、この詩集は客観的な分析が野暮になる感じがします。距離をとりながら俯瞰して読むのではなく、俯瞰ごと危うい複雑さの中に飛び込んで、我を忘れるように没入しながら読むのが良い気がします。
そういう意味でこの詩集は、作品について語っているつもりがいつの間にか自分のことを話してしまうようなタイプの作品だと言えるでしょう。実際、僕の誤読もそういうふうになっている自覚があります。
全集がいつ出版されるのか(というかそもそも出版されるのか)がわからない以上、読むための方法は限られてしまいますが、この一対一の関係は多くの方に味わってもらいたいと思います。
最後に
はじめ、複数冊を扱う代わりに一冊一冊は簡潔にまとめて、前回からなるべく間を空けず#5を投稿するつもりでした。しかしいつの間にか、扱う冊数は四冊から七冊になっていて、総文字数も約二万字になっていました。なかなか思った通りにはいかないみたいです。これからも試行錯誤しながらやっていこうと思います。
ここまで辿り着いてくださった方には感謝しかありません。読んでくださり本当にありがとうございます。
では、今回はこの辺で。
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