死にたがりと“ファジー”、遠回りの話
俺はそもそもの性分が死にたがり族。人生長いこと、周りの友人たちと死ぬことを止め合い、傷を舐め合い、生きてきました。
早く死にたいと皆で嘆きながら、傷つきながらも生きる子もいれば、もうこの世に居ない子もいるかもしれません。
今ではそれさえも知り得ない。俺は、今は楽しく幸せに生きているからです。
そんな中、ふと恐怖に襲われることがあります。「いつかあの時みたいになるんじゃないのか」と。
さて、ファジーなる言葉があります。
曖昧、揺らぎ、そんな意味だそうです。
かつて、人間の「勘」をセンサーで判断する、ファジー機能というものがついている洗濯機が流行ったとか。
俺の知らない時代は、話を聞く限り、だいぶ人生の揺らぎ、曖昧さがあったように感じます。学歴社会の競争の勝者となるのはほんの一部の話。
少し遠回りをして、自分の人生を考え、悩み、ぶつかり、失敗しながらも歩む。結果として、その人なりの「正解」を子どもや年下に押し付けてしまうこともあったようですね。
現在の社会ってどうでしょうか。なんだか自分の周りは、俺には余りに輝かしすぎて、凄すぎて。
ある程度の正解を歩み、大人が教えてくれたことを素直に受け止めて。青春を歩み、社会に出ていく。
かくいう俺も、高校を無事に卒業し、大学生として最後の学年に進もうとしています。教員という高2の目標に進むにあたっては、欠点はあれどほぼダイヤグラム通りの運行です。
俺に、ファジーの時間はあったのか。
ここまで綺麗に歩んでいたかもしれません。
ただ、俺には周囲のように普通に学校に行って、親に感謝して、そんな事さえできませんでした。
俺は実家に帰るたび、気持ちが沈みます。宗教3世ゆえに悩んだし、社会を敵視した経験はあるとはいえ、親のことは好きですし、感謝しています。
何故か、心は言うことを聞いてくれません。
皆、俺のことを馬鹿と言うかもしれませんし、社会のことを何もわかっていないと言うかもしれません。それが愛情なのもわかっています。
ただ、俺はファジーの時間がほしい。
どうしても遠回りがしたい。
そんな気分なんです。
揺らいでいます。
ここまでしっかり歩んできた。その中でファジーの時間を作ろうとしてきた。でも、遠回りはしなかった。
俺に滲む昭和臭って、そこなんでしょうか。
そんなこともあってか、ずっとファジーネーブルが好きなんですよね。