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ぼくが生きてる、ふたつの世界

耳がきこえない「ろう」の両親を持つ主人公。その産まれてからの半生が描かれた作品。原作者はこの物語の主人公本人。吉沢亮が演じる。

24時間テレビに代表される感動ポルノ。健常者が高いところから眺めつつ、寄り添ったフリして弱者を賞賛するという偽善。人を感動させることを目的にして、弱者を手段に使ってしまう無神経さに敏感な私にとって、この手の感動巨編はだいたい感動虚編に思えるため、なるべく避けているが、この作品のすこぶる良い評判を聞いて、観に行くことにした。

音のない世界、色のない世界、味のない世界。耳も目も鼻も、しっかり機能する持つ者は、持たざる者を気の毒に見てしまう。可哀想な人と思ってしまう。仮に、テレパシーやテレキネシスを持つ人間が大多数を占める世の中だとして、その能力を持たない私はきっと、その世界では気の毒な人になる。障害者という言葉は、そういう多数派側からの決めつけであり、これは単純なマイノリティ問題だと私は思う。

ろうの両親のもとに産まれ育てられた場合、小さな子どもにとってはその音のない世界が当たり前の世界。学校に行き家族以外の社会で生きるようになって、少しずつ、自分の生きていた世界が当たり前ではないことに気が付き、やがて思春期と重なり、そのことが疎ましく感じるようになる。宮城県の実家を出て東京で一人暮らしをし、仕事を見つけライターという職業につく。アウトラインをなぞるとそういう話。

この映画の核心はタイトルにあると思った。耳のきこえる主人公は、音のない世界から音のある大海に船出をして大人になったという話ではない。大海を知る一方で、もう1つ、生まれ育った音のない世界を、東京でも、1人で暮らしてからも、ずっと大切にして、自分の世界として、生き続ける。そういう物語だ。そして、その音のない世界を生き続けるのは、母親への愛ゆえなのだと私は受け取った。

モチーフは特殊かもしれないが、テーマは普遍的。親子の愛の物語。だから、自分の親や自分の子のことと重ね合わせて、涙が出る。素晴らしい作品だと思った。

20万円という大金をかけて、母は補聴器を手に入れる。補聴器をつけても言葉を聞き取ることはできない。音が出ていることを認識できるだけ。息子はそんなものに大金をかけてバカバカしいと腹を立てるが、母は嬉しそうに「大ちゃん(息子)の声がきける」と喜ぶ。息子にとってはどうでもいいと思うことに、親はとてつもなく大きな喜びや不安を感じる。
そんな描写が随所にあって、自分も、子どもと親、両方の経験をした者として、心が震えるのだ。

吉沢亮と母役を演じた忍足亜紀子、2人があまりにも美しいので、それが救いになり、暗くならずに観られた物語かもしれない。その美しさ以上に、2人の演技が素晴らしかった。無音の演出や音楽を使わないという手法も、この作品の完成度を高めている。とてもいい映画だった。



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