ぼくは彼女に人生処方詩集を贈る

 ぼくには交際3年目の彼女がいる。彼女とは首都圏の大学の放送サークルの懇親会で知り合った。ゲイなのに女性と付き合っているぼくは異常だと思うが、それを言うなら、彼氏がゲイだと気付かずに2年7か月を過ごしている由梨も異常だと思う。やっぱり由梨は親子揃って天然なのかなあ?

 もっとも、ぼくがゲイであることがバレていないのは、由梨が天然(肝心なところで鈍感?)である以外にも理由がある。ぼくは「ノンケの彼氏」を結構頑張って演じているのだ。その演技プランの一つが「記念日を大事にする」である。特にぼくは由梨の誕生日を大事にしている。由梨の誕生日が近付いてくると「そろそろ誕生日だね」的なことを言いまくって盛り上げムードを醸成するし、誕生日当日(もしくはその前後)には一緒にどこかへ遊びに行って誕生日プレゼントを渡す。これを彼氏にやられて「彼氏はゲイだ」と思う女性はまずいない。……はずである。

 先月下旬は由梨の誕生日だった。ちなみに、上旬はぼくの誕生日だった。ぼくは他人にプレゼントを贈るのは好きだけどもらうのは苦手という厄介な人間なので、由梨にはいつも「プレゼントはいらない」と言っている。その度に由梨からは「誰も『あげる』なんて言ってない」とツッコまれるが、結局、由梨は毎年ぼくに誕生日プレゼントをくれる。

 ただ、「今年は本当に誕生日プレゼントいらないからね」「もし何かくれるなら誕生日以外のなんでもない日に何かくれ」とぼくがしつこく言っていたせいか、由梨がくれた今年のぼくの誕生日プレゼントは手袋(既製品)だけだった。まあ、めちゃくちゃありがたかったんですけどね。2年前から使っている手袋がボロボロになりかけていたもんで。去年までの由梨には申し訳ないけど、今年の誕生日プレゼントが過去一でうれしかった。本心で感謝の気持ちを伝えられたし、もらってから今日までぼくはこの手袋をほぼ毎日使わせてもらっている。

 実を言うと、今年のぼくの誕生日、ぼくが由梨からもったのは手袋だけではない。由梨はぼくに『わたしは名前がない。あなたはだれ? エミリー・ディキンスン詩集』という本もくれた。文字通り、エミリー・ディキンスン(「エミリ・ディキンスン」とか「エミリー・ディキンソン」とも表記されるらしい)という19世紀アメリカの詩人の詩をまとめた詩集である。もちろん日本語訳だ。

 この詩集はもともと由梨が持っていた本で、自分の好きな詩人の本だからぼくにくれるのだという。ぼくは正直言って詩に興味がないので、「そんな大切にしている本をもらうのは悪いよ。これはプレゼントしてもらわなくていいよ」とやんわり受け取りを拒否したのだが、「気にしないで。もしわたしが読みたくなったら貸してくれればいいから」ということで渡されてしまった。その時は由梨は自己犠牲の精神が強いなあと思ったけど、いま冷静に考えてみると、由梨は自宅の本棚のスペースをあけるためにぼくに不要な本を押し付けたってことなんじゃないか? ひょっとすると……

 さて、それから3週間後。今度はぼくが由梨に誕生日プレゼントを贈る番である。意趣返しってわけじゃないが、ぼくも由梨に本のプレゼントをしてやろうと思った。いや、通常の誕生日プレゼントを渡した上でですよ。ぼくは自分が誕生日プレゼントをもらうのは恥ずかしくて苦手だけど、他人に誕生日プレゼントをあげるのは大好きなのです。

 自宅で不要な本を探してみる。うーん。不要な本がないわけじゃないが、由梨がもらって喜ぶかどうかは別だよなあ。だいたい、こういう「自分が好きな本をあげる」とかいうのはただの好みの押し付けになってしまって、相手にとっては迷惑でしかない場合が多い。ぼくはそのことを経験則で知っている。以前、ぼくは早瀬(学部の後輩)に「面白いから読め。文学部なら読め」と言ってチェーホフの『かもめ』集英社文庫版を無理やり貸して、それで早瀬とちょっと揉めたことがあるのだ。ここは慎重にいかないと。

 詩集をもらったのだからこっちも詩集をあげようかなと思ったが、そもそもぼくは詩に興味がないのだから詩集なんて持っていな……いや、待てよ。たしかブックオフで中古の詩集を買った覚えがあるぞ。『萩原朔太郎詩集』新潮文庫版と、あとたしかもう一冊……あっ、これだ! ケストナーの『人生処方詩集』岩波文庫版!

 高校2年の夏、ぼくは須川くん(ぼくが片想いしていた同級生の男子)と一緒に学校の近くのブックオフによく行っていた。須川くんが中古の漫画を立ち読みしたがるからである(お行儀が悪い)。ぼくは読書は好きだけど漫画にはあんまり興味がなかったから、ブックオフでは文庫本のコーナーを物色することが多かった。その時、ぼくはケストナーの『人生処方詩集』に出会ったのだった。『人生処方詩集』っていうタイトルがよかったのかな。なんか穏やかなユーモアを感じられて。

 ぼくはそこのブックオフで中古の『人生処方詩集』を買った。値段はたしか300円とか330円とかだったと思う。というのも、もし価格が300円台後半以上だったらぼくは買っていないと思うからだ。そのあとぼくは別に『人生処方詩集』をそこまで愛読したってわけでもないのだが、でも、たまに……ごくたまに読み直すことがあって、ぼくはその度に「面白い本だよな」とか「この本買っておいてよかった」と思うのであった。

 よし、由梨にはこれをあげることにしよう。『萩原朔太郎詩集』よりはこっちのほうが好きそうだし。そう考えながら、ぼくはとても久しぶりに『人生処方詩集』のページを開いてみた。

 ケストナーの『人生処方詩集』はまず序文からしていい。ケストナーの思いやりとエンターテインメント精神が伝わってくる。

 さびしさとか、失望とか、そういう心のなやみをやわらげるには、ほかの薬剤が必要である。そのうちの二、三をあげるなら、ユーモア、憤怒、無関心、皮肉、瞑想、それから誇張だ。これらは解熱剤である。それにしても、どの医者がそれを処方してくれるだろう。どの薬剤師がそれを瓶に入れてくれるか。
 この本は私生活の治療にささげられたものである。

エーリヒ・ケストナー作,小松太郎訳『人生処方詩集』岩波文庫 p.13

 この豆本をポケットに入れるといい。そしていざという場合に、これをとり出すといい。自分のなやみを他人に言わせるのは、いい気持ちのものである。言葉に表わすということは衛生的である。
 それに他人もわれわれ自身とちがわない、われわれ自身より幸福に暮らしていない、ということを知るのは健康にいい。
 また、たまには、自分の感じるのとまったく反対の気持ちを理解するのもなぐさめになる。

同 p.14

 ぼくも人生にはユーモアが大切だと思っている。『人生処方詩集』には120篇近くの詩が収録されていて、長い詩もあれば短い詩もあり、軽快なタッチの詩もあれば薄暗いタッチの詩もあるが、どれもユーモアを含んだ詩であることは間違いない。

 これって形式的には詩だけどもはや物語だろ、もはや短編小説だろっていうような詩も多くて(例えば「ハムレットの亡霊」とか「合成人間」とか「グロースヘニヒ夫人から息子へのたより」とか)、そういう意味で『人生処方詩集』は読み応えがある詩集だ。『人生処方詩集』の詩の中でぼくが好きな詩を順に挙げると、「ホテルでの男声合唱」とか「臆せず悲しめ」とか「堅信を受けたある少年の写真に添えて」とか「顔のうしろはだれも覗かない」とか……って、あー、挙げ始めたらキリがない!

 でも、せっかくなので3つだけ紹介しようかな。厳選ベスト3ってわけじゃなくて、いまのぼくの気分的に「こういう詩が載っているから『人生処方詩集』はいい本なんだよ」と感じるというサンプルとして。「略歴」という詩については長いので最初と最後のみの抜粋です。

  警告

理想を持つ人間は
それに到達しないように 用心せよ
さもないと いつか 彼は
自分自身に似るかわりに 他人に似るだろう

同 p.71

 現代美術展覧会

サロンの中に あっちこっち ひとが立っています
みなさんは これを めずらしいことだとお思いですか
これは 全然 見物人ではないのです
これは 画家自身なのです

同 p.75

  略歴

この世に生まれない者は あまり損をしなかった
彼は 宇宙の中で 樹の上にこしかけ わらっている
ぼくは そのころ 子供として生まれた
生まれるつもりもなしに

 (中略)

ぼくも 自分のリュックは 自分で背負わねばならぬ
リュックは大きくなる 背幅はひろがらぬ
つづめて言えば だいたいこういえる
ぼくはこの世に生まれた にもかかわらず生きつづけていると

同 p.166-169 

 久しぶりに『人生処方詩集』を読んでいるうちに、ぼくはこの本を手放したくなくなった。やはりこの本はぼくにとって大切な本だ。高2の時に須川くんと一緒に行ったブックオフで買ったという思い出込みで大切な本だ。由梨にあげたくない。由梨にあげたいと思うぐらい素敵な本であるがゆえに、ぼくはこの本を手放したくない。

 調べてみたら『人生処方詩集』は絶版になっていなくて、大きめの本屋さんではまだ普通に売っているようだった。じゃあ由梨用のやつを買うことにするか。新品を買ってあげることにするか。大学の帰りにぼくは東京駅前の丸善丸の内本店に寄り、『人生処方詩集』の新品を買った。ぼくの手元の『人生処方詩集』(2014年発行)には「定価 本体720円+税」と書かれてあるけど(それをぼくはブックオフで300円か330円で買ったけど)、この日ぼくが丸善で買った『人生処方詩集』は税込で935円もした。この10年間で200円ほど値上がりしたということか。同じ岩波文庫の同じ内容の同じ製本のやつなのに。物価高ヤバ。

 由梨の誕生日当日。ぼくも由梨も他の予定がない日だったので、ぼくらは誕生日当日に会うことになった。といっても、夜は由梨の家族だけでの誕生日パーティーがあるので、ぼくらが会うのは昼だけである。由梨からは「『(ぼくの下の名前)くんにも今夜来てほしい』ってお母さんが言ってたよ」と言われたが、それってつまり「お父さんは『来てほしい』と言っていない」という意味だろうから、ぼくはお誘いを丁重にお断りしておいた。そもそもぼくが家族の集まりに混じるのはおかしいし。

 由梨が前から行きたいと言っていた赤レンガ倉庫のレストランへ行って、小ぶりなくせに2,000円もするチキンライスを食べながら、ぼくは由梨に誕生日プレゼントを渡した。ちいかわのクッション(すみっコぐらしのクッションにするかこっちにするかで悩んだけど結局こっちにした)、グランデュオ蒲田でたまたま見かけたネックレス(セール期間中らしくてめちゃくちゃ安くなっていた)については由梨は喜んでくれたけど(ぼくは周りのお客さんにちいかわのクッションをガン見されて恥ずかしかったけど)、『人生処方詩集』については由梨は「うれしい」というより「なにこれ」というリアクションだった。

 ぼくがケストナーの紹介をすると、由梨は「小学生の時に『飛ぶ教室』は読んだと思う!」と言っていたけど、記憶があやふやってことは読んでいないのと同じことだよな。でまあ、ぼくは「由梨が好きかは分からないけど」と伝えた上で、ぼくが好きな詩のページ番号をまとめたメモも渡しておいたが、その後、由梨から『人生処方詩集』に関する感想は言われていない。自分の部屋のベッドの上に乗ったちいかわのクッションの写真は送られてきたが、『人生処方詩集』に関する感想は言われていない。

 まあ、そんなもんである。別に由梨はこの本を欲しがってたわけでもなんでもないんだし。押し付けられた本の感想なんてあるはずない。実際、ぼくだって『エミリー・ディキンスン詩集』の感想を由梨に(ほとんど)言ってないわけだしな。935円を無駄遣いした気がしないでもないが、それを言うのは野暮というものだ。ぼくは彼女に『人生処方詩集』を贈る。それを機に改めて『人生処方詩集』を読んでみて、ああ、やっぱりこの本はいい本だなって確認できたことをぼくは喜ぶこととしよう。

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