ぼくは浮気を疑われる

 ぼくは浮気を疑われる。ぼくには交際二年目の彼女がいる。彼女とは首都圏の大学の放送サークルの懇親会で知り合った。ぼくは本当はゲイなのに、彼女からの「お茶でもいかがですか?」という誘いに乗ってしまったばかりか、デートを重ね、なんと自分のほうから「ぼくと付き合いませんか?」と告白してしまったのである。

 こうやって書いていても、ぼくは自分がとんでもないサイコパスだと実感する。ただ、それを言うなら、「お茶でもいかがですか?」というLINEでぼくを横浜に誘い出しておきながら、実際には喫茶店にも茶室にも行く素振りさえ見せなかった由梨だってサイコパスだろ。だったら最初から「デートしたい」と言えばいいじゃないか。初めてのデートの時にぼくが飲んだのはジンジャーエールと烏龍茶だけだぞ!(……烏龍茶ってお茶に入りますか?)

 ぼくはここ最近、由梨から浮気を疑われている。念のため言っておくと、ぼくは浮気はしていない。サークルの後輩の深田(一年男子)に片想いしているのを「浮気」と呼ぶならぼくは立派に浮気をしていることになるが、由梨以外の誰かと愛の言葉をささやき合ったり肉体関係を持ったりはしていない。ぼくは完全に無実である。にもかかわらず、ぼくは由梨から浮気を疑われている。ぼくが変なことを口走ってしまったせいだ。

 それは7月のある日のことだった。こんなことを全世界に向けて発信するのは恥ずかしすぎるのだが……ぼくらはいかがわしいホテルに立ち寄り、お互いのどこが「好き」なのかを言い合っていた。とはいえ、人間の魅力なんて無数にあるものではない。そのゲームが停滞すると、由梨は「じゃあ、わたしの嫌いなところってある? ここ直してほしいとか」と聞いてきた。急にゲームの難易度が上がったぞ。ぼくはしばらく考えたのち、「お尻を叩くところ。あれはよくない」と答えた。これがまずかった。

 実際にはぼくは由梨にお尻を叩かれたことはない。触られたことが二度あるだけだ。やはりそれもいかがわしいホテルでの出来事であった。いかがわしい行為をなんとか済ませ、ぼくが立ち上がってペットボトルの烏龍茶を飲んでいる時、由梨が突然ぼくのお尻(肉の部分)を触ってきたのだ。ぼくとしてはヒィッ!となった。そこでぼくは「合意を得ていないのにお尻を触るのはよくないぞ。セクハラだぞ」と冷たく注意した。普段こういったこと(ハラスメントとかジェンダーとか)に厳しいのは由梨のほうなので、ぼくに注意されて由梨は自身の過ちを深く反省したようだった。そういう出来事がたしかに二度あった。

 ぼくから「お尻を叩くところ。あれはよくない」と言われて、由梨は「……叩いてはいないよ? 触ったことはある。それは認める。でも叩いてはいないよ」と反論してきた。ぼくは自分の言い間違えに気付いたので、「……あ、うん……『叩く』じゃなくて『触る』。あれはよくない」と訂正した。それを無視して由梨は「誰か他のひとと勘違いしてるんじゃない?」と言ってきた。はあ、めんどい。口元が緩んでいたのでたぶん本気でぼくの浮気を疑っていたわけじゃないんだろうが、ぼくは自分が浮気をしていないこと、SMプレイに興味はないこと、もし興味を持ったら由梨に真っ先に相談することなどを伝えた。その場はそれで収まった。

 惨事のあとに大惨事は訪れる。その数分後、ぼくは由梨に対し、「ユリ」と呼びかけるつもりが「ユミ」と呼びかけてしまったのである。なぜそんな呼び間違えをしてしまったのか、自分でもさっぱり分からない。ユミという名前のひとは知り合いにいないし(むしろ「ユリ」という同名の知り合いならいる)、ぼくは由梨のことをユリとしか思ったことがない。「……ユミって誰?」と由梨はぼくの目をじっと見つめて問い詰める。さっきと違ってもはや笑顔ではない。ぼくは焦って「……ユリ! ユリ! 言い間違えた! なんでだろ? 暑いから口が乾いてるのかな? ぼく活舌悪いのかな?……あっ、去年漫才やった時に真井(サークルの同期)からも言われた! 『(ぼくの下の名前)は活舌悪い時ある』って! ごめん、活舌悪くてごめん! ユミ、じゃなくてユリ、ぼく由梨大好き!」。ぼくの必死な弁明を聞いた由梨は、目を逸らして苦笑いすると、「浮気ってこうやって発覚するんだね」とつぶやいた。違う。ぼくは浮気していない。本当に浮気していない!

 まあ、由梨も本気のガチでぼくの浮気を疑ったわけではないと思う。あの日以降、バイトの同僚の東條さん(バレンタインデーにチョコを渡してきた)や、同じゼミの永野さん(飲み会でボディタッチしてきた)とのことをイジッてきたり、「(ぼくの下の名前)くんはお尻叩かれるの好きなんだっけ?」と言ってきたりはしたが、いずれも大人の冗談としてである。由梨はあれが単なる言い間違いだと理解しているはずだし、ぼくに浮気をする時間的・体力的・経済的余裕がないことを知っているはずだ。

 それに、ぼくは先日、由梨を決定的に安心させてあげた。ベッドで並んで横になっている時、由梨がまた「さすがモテる男は違うね」的なことを言ってきたので(言っておくがぼくは全然モテない)、「由梨はまだぼくが浮気してると思ってる?」と逆追及してやったのだ。由梨は最初、「別に責めてはいないんだよ?」などと冗談めかして言っていたが、ぼくが真剣モードなのを察すると、ぼくの顔を見つめて黙り込んだ。ぼくは由梨の目を覗き込んで言う。「少し前、由梨はぼくのこと『優しい』って言ってくれたよね」。「優しい」……お互いのどこが「好き」かゲームで8番目ぐらいにぼくが言われたやつである。「優しい彼氏が彼女を裏切るような真似すると思う? ぼくは自分が優しい人間なのかどうか分からないけど、でも、由梨が言うんならそうなんだろうと思う。ぼくは由梨を裏切れない。ううん、裏切ない。これまでも裏切ってないし、これからも裏切らない。ずっとずっと裏切ない。ごめんね、優しい彼氏で」。

 言うまでもなく口から出まかせである。ぼくは放送サークルで音声ドラマの脚本を書いて演出しているような人間なので、こういう台詞を適当に思いついてそれっぽく口走ることができる。ぼくは由梨の背中をなでると、再び目を覗き込み、「ねえ、本当に浮気してないからね?(笑)」と告げる。これで由梨はだいぶ安心したようだった。このパフォーマンス以来、ぼくは浮気を由梨から疑われていない。しめしめ。ぼくは自らのサイコパシーに尊敬の念すら抱く。ぼくは恋愛詐欺師になれると思う。

 ただ一つ残念(?)なのは、ぼくが浮気をすることはないと安心してしまったせいで、由梨がぼくにやきもちをちっとも妬かなくなったことだ。ぼくは誰かに束縛されるのは不快だが、「束縛する必要のない相手」認定されるのもそれはそれで寂しいんだよな。自分がモテない男であるという事実を突き付けられているようで虚しくなる。やっぱりちょっとは由梨をヤキモキさせたい。今度、わざと「ユミ」と呼んでみようか。あるいは本当に浮気しちゃおうか。……いやいや、よくない。ぼくは優しい彼氏なのだ。彼女を弄んだりしない。ゲイであることを隠して愛の言葉をささやいてる。それだけでぼくの裏切りは十分だ。

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