まだうまく言葉にできない、マイプロジェクトって何なのさ。【前編】
学びのはじまり
この3日間は、マイプロジェクトAWARD全国Summitでした。
(昨年に引き続き)ほぼフルオンライン開催。とは言え、僕は全国Summitでファシリするのは初めてで、個人的手探り感満載でしたが、変に慣れてない分、高校生たちと同じ背伸び感で参加できた気もします。笑
また、尊敬して止まないマザーハウスの山崎大祐さんとサポーターとファシリの関係でプレゼンブースをご一緒できたのも、僕には良い機会でした。(背伸び感としてw)
そして何より、全国からこの場に集まった高校生たちの熱量とメタ認知能力、思考力に圧倒されつつ、僕自身の学びも深まった気がするので、それを”生煮え状態”でまとめておきたいと思います。笑
たくさんの学びがあったのですが、ここでのテーマは(少し引きで見た)『探究(マイプロジェクト)とは』について。
あと、何が生煮えかって、上手く言語化できてない(多分しばらくはできない)ので、補足の意味の()使用がめちゃくちゃ多いw
もし読んでくださる数奇な方がいらっしゃるなら、本当に申し訳ない限りです。(今回は特にw)
答えなき問いとの対峙
マイプロジェクトの取り組みが始まって(たしか)7年。僕とマイプロの関わりはごくごく最近の話ですが、それとは関係なく、高校生の探究は世の中的に随分とメジャーになりつつありますよね。(学習指導要領変わるし)
それを表す社会の変化として、
高校生が企業とコラボして商品開発しました
みたいな話は(少なくとも)稀有ではなくなった気がします。何かしら形にするチャレンジ(実践)がしやすくなった世界、そのこと自体はとても素敵なことで、それ故に考えたいことも出てきました。
「自分なりの仮説を社会で検証してみる行為」が(例えば商品開発などの)ビジネスのフレームワークの中で行われたとき、その道筋(探究の回転)が知らず知らずのうちに、多くの社会人たちが仕事で行う「PDCAサイクル」みたいな、セオリーで回る探究の路線に切り替わっていたりしないのかなと。
つまり、実践の回転性が高まった結果、その探究プロセスが(例えばビジネスのフレームワークのように)モデル化された回転方法に収斂されやすくもなったのかもしれないと感じたりもするわけです。そのこと自体は全く悪いことではありません(とにかくトライし続ける姿勢はとても大事)。
ただ、
そのPDCAサイクルって、探究なんだろうか?
もちろん広義には探究だと思うのですが、これをマイプロジェクトにしようと思ったとき、照らすべき焦点は「答えなき問い」なんじゃないか、と感じたりしました。
その問いは「今の社会に表層化しつつあるけど、答えが出ていないもの」「現行社会では未だ潜在的になっているもの」のような。
例えば、ジェンダーや多文化共生などは、問題提起こそされているけど、その答えに社会はまだ辿り着けていない問い。もっと社会の周縁部にいけば、問題提起すらされていない、あるいは、既存の社会通念の外側にある(社会通念の拡張可能性をもつ)問いなど。
そんな、まだ人類が答えられていない問いと対峙し、まさに飽くなき探究を続けることがマイプロジェクトの要素なのかもしれないと思いました。
その思考は、抽象化と原点回帰的な感覚。
結局のところ、自分たちがやってきたことは一体何だったんだろう。
という省察を以て、自分軸でも社会軸でもプロジェクトをメタ認知できると、そんな「答えなき問い」が目の前に現れる(かもしれない)。それは、フレームワークによって一般化・簡素化された枠組みの外にある気がしてならないのです。
その意味では、formal⇔non-formalの往復なのかもしれませんね。(とにかくサイクル回して、どこかでアンラーニングみたいな。)例えば、地域を盛り上げるために商品開発を(ここはビジネスのフレームワーク)ひたすらトライ&エラーして、その道中でふと立ち止まって「そもそも地域活性って何だっけ?どういう状態が理想なの?」を考えるとか。
探究と感受性
サポーターの若新雄純さんが「探究と心をつくること」への言及をされていました。ざっくり言うと、「勉強(暗記)は頭、運動は体、探究は心が主体となる」という感覚。なるほどたしかに。
その着想は、今回文部科学大臣賞を受賞した「戦争の記憶を継承する」プロジェクトの彼の感受性がとても豊かで、彼の過去を想像し抜く力に由来します。彼を見ていると、その感受性とは例えば、過去を色鮮やかに想像・解釈できたり、他者という存在そのものに内在する多様さを想像できたりする心なのかもしれないと感じています。
その感受性はやはり、過去の省察から始まる。そしてその「想像し抜く行為」は、とても内臓感覚的だと思うわけです。(言語にすると、微妙にずれる感覚)
とりわけ若者は、(教育的文脈でも)未来を想像することを求められがちですが、それってまあ難しい。僕はまだできない。笑
上記noteでも引用したポール・ヴァレリーの言葉
湖に浮かべたボートをこぐように 人は後ろ向きに未来へ入っていく
目に映るのは過去の風景ばかり 明日の景色は誰も知らない
のように、未来の舵取り=過去を見つめ直すことだとすれば、その過去を想像し抜くことの重要性は限りなく大きく、一方で、過去を想像し抜くことを僕らはこれまでしてこなかったとも言えます。
(自分たちがやってきたことを解像度高く、グラデーション鮮やかに振り返ったり、歴史学習において当時の人たちの感覚に近づこうと思いをはせたりすることって、十分形ではなかったと思います。)
その「見つめ直すこと」の切り口や方法が細分化・体系化されつつあるのでしょうか。この気づきは、その兆しなのか、何なのか。
――うーん。ここは特に生煮えですね。笑
なぜか長くなったので、後編へ続く。(キートン山田さんリスペクト)