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#5 【知の体力】

読んでわかる「自分らしさ」

題名に惹かれて買った。「知の体力」、なんとも仰々しい題名だなと思ったが、買って読んだら「ああ、これは確かに『知の体力』だ」と妙に納得できる一冊だった。

そもそも「知」とはなんだろう。単純な知識なのか、それともロジカルな思考力なのか、はたまた独創的な創造力か。

そんなことを考えながら読み進めていって、最後に出てきた答えはこうだ。

知というのは「自分らしさ」である。

こう言ってもパッとこないと思う。知というのはある種客観的なものというイメージがある一方、自分らしさなんて主観の極みだ。そこがどう繋がっていったのかをこれから紹介していきたいと思う。

前提を知るということ

軽く筆者について紹介しておくと、筆者は京都大学で細胞について研究していた研究者で、現在は京都産業大学の学部長を務めるなどいわゆるアカデミアの人間だ。さらに面白いのが、筆者は「歌人」としての顔も持ち合わせていることだ。細胞学者と歌人という全く違う畑をどちらもこなす人が書いているところも本書の特徴の一つである。

筆者はまず、自分と学生の間でさまざまな「前提」の違いがあることを指摘する。例えば、大学というのは本来答えがないかもしれない問いについて自ら答えを探していくことを行う場所であるにも関わらず、いまだに問題には答えが必ず一つ存在すると思っていること、自分と相手は全く違う人間で備えている前提も違うはずなのに、自分が知っていることは相手も知っているはずだと思い込んでいることなどが挙げられている。

他人と話す上で前提をお互いに共通の認識にする作業というのは非常に重要だ。この前提が違っていると、絶対にお互いに意見が合うことがなくなってしまう。まずは我々学生が、大学に対して持っている前提を一度破壊し、更新しなければ一生本書の言っていることの意味は理解できない。

しかし、あえて言い換えるならば最初に述べた「自分らしさ」というのは各個人が持つ前提の違いから生じることも多い。もう少しわかりやすく言えば前提とは一種の価値観と言える。

自らの前提がどんなもので、それが周りの人たちどどう違うのかを認識しておくことによって、コミュニケーションの齟齬を減らしていくことができる。そして、そのコミュニケーションによって「自分の前提がなんなのか」という一つの「自分らしさ」を明確にすることにつながるだ。

勉強と自分らしさ

高校生までの間は、みんなで前ならえ!と同じように受験という一つのイベントに向けて勉強することが当たり前だ。勉強する目的は受験に合格するためである。ここに個性なんてものは存在しない。

しかし大学はそうではない。そもそも勉強に目的を持っていない人すらいるだろう。現に私はただ楽しいから、面白いからという理由で経営学を学んでいると言っても良い。

大学は勉強というよりも学問と言ったほうが正しいかもしれない。実際、著者は本書の中で

学問は、「学び、かつ問うこと」と私は解釈している。学び、それを受け入れるという一方的な「知」の流れではなく、入ってきた「知」をいったん堰き止めて、それが正しいのかを問い直す、どのような意味を、あるいは価値を持っているのかを問い直す。

知の体力 永田和宏著

と述べているし、これが高校の勉強とは全く違う性質であることはわかると思う。また、大学ではすでに知っていることだけが出てくるわけでもない。いまだに何もわからないことをたくさんあるだろう。その時に「自分が知っていることの隣には、まだわからないことがたくさんある」ということをよく知っておくことが大切だと思う。

そもそも論として、一人の人間が理解できる範囲なんてごく狭いものだ。むしろ学問はいかに自分が狭い範囲しか理解できないかを知って初めて始まるとすら言える。自分は何を知っていて、逆に何を知らないのか。これを自分なりに明らかにすることでむしろ自分のオリジナリティや色というものを出していけるようになるのではないだろうか。

つまり、勉強という単一方向を向いている学習から、学問という個人のオリジナリティを出していく学習にシフトしていくことで「自分らしさ」を醸成していけるのだ。

「評価」の自分らしさ

ここまでで大学における学問においては、高校までの画一的なものとは違うものであることを説明してきた。しかし大学にもその学問に対する評価というものが存在する。

大学の授業にもテストやレポートがそれだ。テストであれば点数、レポートであると文章の論理構成、自分の意見を考えているかどうかなどいくつかの評価項目がある。そしてこのような評価というのは、全員に同じ物差しを当てて測っているため、必然的に物差しを当てられる要素しか評価できない。

だからこそ、自分で自分を評価する物差しを持つことが重要になってくる。共通の評価からは見えてこない自分の価値観を使った評価がなければ、結局みんなが持っている評価基準でしか測ることができない。それが定常化してくると社会はものすごくツマラナイものになってしまう。

しかし、社会で共通に認識されている評価基準というのは普遍的なものではない。時代の流れによって常に変化しているものだ。そんな中で各個人が自分の価値観を持っておくことで社会の中に幅が生まれたり、その中から未来の共通価値基準が生まれる場合もあるだろう。

その活動を止めないという意味においても、自らの価値基準を持つことは重要なのだ。

本当の意味での「自分らしさ」

これまでこの一冊を通して、何回も「自分らしさ」という言葉を書いてきたが、実は本書の中ではこの「自分らしさ」という単語に対して批判的なことが述べられている。

「自分らしく」という言葉は、一見フレキシブルなことを述べているように見えて、実は自らを縛っているのであり、「らしくの強要」がむしろ多様な個人ではなく、ただの同調圧力になってしまっているという指摘だ。

しかしあえて私は、本書を通して本当の意味の「自分らしさ」というものの正体を知ることができたと言いたい。

ここには筆者と私の間に「自分らしさ」という言葉の意味の解釈に違いがあると思っている。筆者のいう「自分らしさ」というのはある種、副詞のような意味を持った「自分らしさ」であるのに対して、私が思うのは形容詞的な「自分らしさ」である。

これだけ言っても?であると思うのでもう少し詳しく説明してみる。

副詞的な自分らしさというのは、その名の通り副詞、つまり我々の行動に対する自分らしさである。自分の行動が自分らしいかどうかということにフォーカスしており、それはつまり自分らしさによって行動を制限していることを意味する。これは言い換えれば「意図的にそうさせるための自分らしさ」である。

一方で形容詞的な自分らしさというのは、後からに自分の特性や性質を修飾する意味での自分らしさである。自分の性質というのはそれは当たり前のように自分らしいものであり、一種のトートロジーのようなものである。これを言い換えれば「結果的に自分の性質になっているものへの自分らしさ」と言える。

つまりどういうことかというと、自分らしさというのは「自分でこうしよう!」と意図して完成してくるものではないということだ。そうやって副詞的に制限したものは到底自分らしさとは言えない。そうではなくて、色々な評価軸や前提を自ら構築した結果生じたものが、後から見直すと「自分らしく」見えているのだ。

自分らしくなるには

先ほどまでの話から言えるのは、私たちは形容詞的な自分らしさを身につけるべきであるということだった。では実際どうすればいいのだろうか?

それはまさに今回の記事の中で書いてきたことそのものだ。

前提を知り、自分の勉強というものを確立し、自分の評価をもつ。

この三つを実行することで、強制的に自分らしくあろうと思わずとも、結果的に振り返れば自分らしさというものを獲得できていると私は思う。

そして、そのためのヒントがふんだんに散りばめられていた本書は私にとってとても意義深いものであった。

良い一冊に出会えたことに感謝しようと思う。

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