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#22 【書評】 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』。なんともキャッチーな題名である。SNSでも話題沸騰中で、今最もホットな本の一冊と言ってもいい。

私も読みたい読みたいと思いながらここまでダラダラ読まずにきてしまったので、先日新宿の紀伊国屋書店で見かけてすぐに買ってきた。

読み終わってどうしてこの本が人気なのかはすぐにわかる。本書は『本』を一つの論点として我々に対して『生き方の提案』をしてくれる本である。

そして、その提案に至るまでの筆者の考察はとても美しい。

私が好きな本は、その本で得られる結論までの構成が美しい本であるが、この本はそれを地でいく一冊になっている。ここからはその魅力を存分に語ろうと思う。



自己啓発と読書

『自己啓発』。最近はこの一種のキラーワードは当たり前に使われるようになっている。

現役の学生である自分の周りでも『メンズコーチジョージ』など自己啓発系インフルエンサーなるものが流行っている。また、インスタグラムなどにも自分の勉強の記録や、日々のストイックな暮らしをVlogとして投稿している一般人の方もたくさんみる。

しかし、どうして『自己啓発』はここまで人気なのだろうか?

そこには『自己実現』つまり、自分のやりたいことをして生きていく、自分が好きなことをするために生きていくという願望が色濃く現れている。

これだけ聞くと結構な話である。自分がやりたいこと、やりたい暮らしのために努力することは別に何も悪いことではない。

しかしながら「やりたいことをやる」というのは逆に言えば「やりたくないことはやらない」ということである。そこに危険性があると筆者は指摘する。

今「やりたいことをやる」という社会的思想が大きく広がったのはインターネットによる影響が多い。特にSNSなどではすでに自分の好きなことをして生きている人が大勢(大勢に見えるというほうが正しいかもしれない)いるため、それを見て「自分も!!」と思う人が増えている。また、ひろゆきや堀江貴文、前田裕二などが書いている自己啓発書にも「やりたいことをやる」というメッセージが随所に散りばめられている。

この「やりたいことをやる」というのは一種、自分の中での考え方を一気に収縮させることに他ならない。やりたいこと以外のことは何も考えない、やりたいことじゃないことは自分にとってノイズである、そんな考え方がこの思想には見え隠れしている。

これは正直なところ、陰謀論や差別、フェイクニュースと何にも変わりないことではないだろうか?自分が気持ちいい、好きなことだけを集め、それ以外は排除していく。この思想が過去の歴史の中でいかに悲惨な結果を残してきたか我々は知っている。

またこの思想を助長しているのは、昨今の「効率主義」的な側面もある。好きなことだけをやるのは最も効率的で最も楽である。一切の無駄を排除しているわけなので最も効率的に活動していることになるのだ。

しかし、読書というのはこの「好きなことだけをやる」とか「効率主義」的な側面を全く満たさない。インターネットのようにダイレクトに知りたい情報にありつけるわけではなく、自分が知りたい情報までにある前提を読んでいって初めて自分が知りたいことを知ることができる。

私としてはこれこそが読書の醍醐味なのであるが、それに耐えられない人がたくさんいて、それこそが先ほどまでに上げてきた自己啓発に勤しむ人たちなのである。

どうしてノイズに耐えられないのか?

筆者は本書の中でこの自分がいらないものたちのことを『ノイズ』と形容する。ではどうしてここまで我々はノイズを受け付けることができなくなってしまったのだろうか?

その理由こそが本書の題名につながってくる。

筆者によると結局我々はノイズを受け入れられるほど生活に余裕がないのである。ただでさえ長時間の仕事をこなしスケジュールはパンパン。読書をする時間などそもそもとらないか、ごく僅かである。この余裕のなさが働いていると読書ができない理由の一つである。

そして仮に少しでも読書の時間を確保したとしよう。しかしその時間は限られたもので決して余裕があるわけではない。その限られた時間の中で本を読むには「自分が知りたい情報だけを教えてくれる本」つまり、自己啓発書がピッタリなのだ。

自己啓発と読書の関係は前の章で述べたとおりであるが、自己啓発書というのはこのノイズを極限まで切り落としている。amazonで売れ筋の自己啓発書ランキングを調べると、「リーダーは話し方が9割」とか「嫌われる勇気」とか、無駄のない直接的な本がほとんどを占めている。(勘違いしないでほしいが、これらの本が悪いとかそんなことを言いたいわけではない)

まとめるなら、とにかく我々には無駄を受容するゆとりがないのだ。そんな無駄を受容する暇があるなら他のことをやりたい、そう思っているのである。しかし、これほどまでのゆとりのなさというのは果たして幸せなのだろうか?

私はそうは思わない。現代は物質的にはかなり充足された時代になっているであり、そうであるなら我々の生活にはもっとゆとりが出ていいはずだ。それなのに現実はそうなっていない。これは我々一人ひとりの問題というよりも社会の問題である。

ゆとりを持つために

ここまでの話を通して最後に考えるべきはどうすれば自分たちの中にゆとりを持たせることができるかどうか?ということである。

筆者はここで、「半身」で生きる。ということを提案している。今の我々はあまりに仕事に対して「全身全霊」で挑みすぎている。それを「半身」にすることで残りの半身は自分の中のゆとりにすることができるということだ。

これは一つの提案としてすごく面白いし、賛成できるものだ。我々の中でなんとなく仕事は全力でやらねばならないという固定観念があるが、それを今一度考え直さないか?ということである。

しかしながら、これは少し楽観的すぎる提案であるとも言える。現実にそれができるのであれば今の日本だってもっと変わっていてもいいはずである。

つまり、もうもはや我々の意思とかそんなもので仕事のウェイトを減らすことはできない段階まできてしまっているのではないだろうか?そうであるならば、できることは強制的に仕事にかける時間や労力を減らすことしかない。

私としては、「一度やってみる」というのは一つの選択肢だと思う。何事も実際にやってみないとわからないことがある。思い切って仕事時間を減らす(この場合、本当に減らすのである。ただ見かけ上の仕事時間を減らして休日に仕事をさせていたら実験の意味がない)ことで、実はいらない仕事や会議が出てくるかもしれない。

この時大切なのは『実験精神』なのではないだろうか?実験精神は心の余裕を要する。失敗してしまったらそれを受け入れなければいけないからだ。そしてこの余裕は、先ほどまで述べてきた『ノイズを受容する』ことに他ならない。

ノイズを受容できる社会にするためには、まずは個人や組織といった小さなセクターから余裕を作り出していく必要がある。そしてそれは誰もが日常からできることだ。

私自身、常に生活の余裕は意識している。基本的に予定は詰めないし、一人でこうしてゆっくり記事を執筆する余裕を持っている。

まずは自分から始めてみる。その背中を押してくれる一冊であった。

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