立ち止まるランドマーク、地域を特徴づける目印であれ。
10月4日、火曜日。夜から雨が降るらしい。それを嫌がる人は多いが(特に街の商売は)僕はそうでもない。色々ゆったり過ぎるのがいい。
昔から「誰かが笑っている時には、他の誰かが泣いている」ものだと思っている。それは極端な物言いだが、例えば最後の一つを買えた、電車の席に座れた、仕事のコンペティションを獲れた、店に凄い数の来客があった…と聞けば、隣の芝生は青く見えるモノで、いちいち他所や他者を羨んだり妬んだりしている時間があれば、心身共に磨くことに尽力する方が性に合う。
優等生の発言のように思われそうだが、僕は目の前の事象を切り取って一喜一憂しないし(喜怒哀楽がないわけではないが)忙しいとか暇だとかも口にしない。ただ淡々と、同じことを当たり前にできる日々にありがたく、昼夜黙々と動いている。コロナ禍は、充分に自己を知ることになった。
要するに日常はその人を形成し、当たり前を退屈だとか厭うようになると、そこに戻る身体、精神を見失うことになる。「忙=心を亡くす」とはよく言ったもので、「暇」の捉え方も語源の一説には『「日」へんの隣にある「叚(カ)」は磨きをかける前の岩石を掘り起こす様で、それら延々と続ける日々』とあり、時間ができたと思えれば過ごし方も多様で楽しい。
だが、それらは自分だけが気をつけておけばいいという話でもなく、周囲がざわつく「貰い事故」のような事例、こればかりはどうしようもない。
誰かに便利なものは、他者にとっての不便を生む。加納町の歩道橋、その一部が撤去され、東西に横断歩道ができることになった。しかし信号は付いたが横断歩道はまだ。その関係でできた中央分離帯のせいで、南下する車の不動坂方面への交差点直前右折ができなくなっている。
いつもあったはずの風景、この加納町の地で28年目の店に渡り続けた橋が一部無くなった。立ち止まる愛着、そんな目線の景色が、渡るには時間の制約のある横断歩道へと変わるのだ。南東側のイスズベーカリー工場も兵庫に移転し「あの看板の近く」という説明ができなくなる。加納町は新神戸の1丁目から東遊園地南側国道の6丁目までの縦長なのに「加納町の交差点」と言えば神戸の人は皆、3丁目の歩道橋を言う。ココは、象徴だった。
いつもいたはずの友達が転校してしまった。今はそんな気持ちになっている。ただ、子供の頃は、失った物事を知らぬ間に成長が埋めてゆくものだ。大人も大人、成長はそれほど望めない僕にすれば、ぽっかり空いた今の心の中に、新しいランドマークを待つことに期待してばかりもいられない。
ランドマークとは、その地域を特徴づける目印となるモノである。
この酒場も、そんな架け橋になれるのか。
まだ、撤去の予定はない。