【ハーブ天然ものがたり】弟切草/セントジョンズワート
鷹の傷薬
日本の山野にふるくから自生し、民間療法に欠かせない薬草のひとつとして使用されてきた弟切草、学名 Hypericum erectumは、血止め草の愛称で親しまれつつ傷や炎症、腫れものやかぶれなどに活用されてきました。
花や葉っぱを摘んで手でこすると赤くにじむのが特徴で、血のような赤い色素はヒペリシンという弟切草の特有成分です。
血止め草のほかに鷹の傷薬とも呼ばれ、江戸時代に編慕された百科事典、和漢三才図会にその物語が収載されています。
平安時代、花山天皇のころに鷹匠のとある名家では、鷹の傷を治す秘薬を門外不出のものとして家伝していました。
人々はその秘薬となる草の名を聞きだそうと手を尽くしましたが、兄は一家相伝のしきたりを守って口外することはありませんでした。
しかし弟は、名薬であるならば逆に秘めておく必要はないと秘薬のレシピを口外してしまいます。
兄は激怒して弟を切り殺し、それから秘薬の原料となった薬草は、弟切草という名で呼ばれるようになったというおはなしです。
鷹匠の兄弟ものがたりで、弟のいのちと引き換えに世間にひろまった弟切草は、現代医学が発展し普及するまで、一般家庭の常備薬として人々の健康を支えてきた薬草といえます。
弟切草の薬効成分はたいへんすぐれたものではありますが、日光過敏症になる光毒性をもつことや、現代社会において一般的に処方されるようになったクスリ(強心薬、避妊薬、気管支拡張薬、抗てんかん薬、 抗不整脈薬、血液凝固防止薬、鎮痛薬、抗うつ薬など)の血中濃度を変化させ、クスリの効力を弱めることがあるとして、だんだんとポピュラー路線からはずれていきました。
逆にヨーロッパでは同属の西洋弟切草・セントジョンズワート(学名 Hypericum perforatum)が現代病ともいえるうつ病に効果があるとして研究がすすみ、人気のあるハーブとなっています。
セントジョンズワートはハーブティとしての飲用はもちろん、サプリなども市場にたくさん出まわっており、乾燥ハーブを煮だした浸剤をバスタブに入れて沐浴することで神経痛や筋肉痛が緩和されたり、チンキ剤を塗布することで切り傷はもちろん、打撲や皮膚疾患などにもよいと考えられています。
医学的なクスリが十分に流通していなかった日本のふるい時代に、家庭薬として常備されていた弟切草が、現代ではハーブ先進国ともいえるドイツを中心に、西洋社会でたいへんポピュラーなハーブとなって、セントジョンズワートの名で日本に輸入されていると思うと微妙な気分になりますが、オトギリソウ属の研究をつづけてくれた人々のおかげで、いまもなお身近なハーブとして活用できているのはありがたいことだなぁ、と感じています。
セントジョンズワートは英語表記にすると、St. John's wort。
St. John は洗礼者ヨハネのことで、wort は草の意です。
「聖ヨハネの草」って・・・Σ(・□・;)、あまたある植物のなかで聖人の名を掲げる直球どまんなかハーブ。
キリスト教では6月24日を聖ヨハネの日と定め、西洋社会ではちょうどおなじころに開催される夏至祭前夜から、満開に咲きほこるセントジョンズワートの花を摘む風習があるといいます。
「洗礼」なんて聞くと、特定の宗教にかぎった特定の儀式のように感じてしまいますが、2000年以上もむかしの洗礼者ヨハネやイエス・キリストが生きていた時代にはキリスト教もなかったわけですから、今風の解釈とはちがった意味がこめられていたのではないかと想像しています。
回心はキリスト教の生活にはいることを意味するのではなく、地上生活に没入して個に閉じこもるスタンスから、180度反転して天にひらかれることを意味していたのではないのかな、と。
ウィキには「ヨハネは、ファリサイ派など当時のユダヤ教の主流派が、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを、穢らわしいものとして差別し、蔑む心のありようを罪と考えた」とあります。
分類・区別・ラベリングが大好きな大脳新皮質による解釈(たとえば清く正しく美しくとか)が暴走すると、清くないもの正しくないもの美しくないものを自分基準でふるいにかけて、基準値からはずれたものは嫌悪しつつ排斥するという、二極化コントラストの極みを生きる姿勢が定着しやすくなると感じています。
秘密情報をまもる兄と漏らす弟。
律法を厳格にまもる人とまもらない人。
相対するコントラストがうねりつづける世界で、わたしたちは光と影の舞台をいったりきたりしながら二極化世界を創造し、自分サイドではない人を誹謗中傷したり断罪したり、はては切り殺すほどの怒りを暴発させることもあります。
「空にふれた少女」
鳥は空を飛ぶ生命種で、わたしたちの地球世界ではたましいを象徴するものという考え方があります。
ハヤカワ文庫からでている「キリンヤガ(マイク・レズニック著)」は、絶滅に瀕したアフリカのキクユ族が、地球外の小惑星にユートピアをつくり、楽園の純潔をまもりつつ生きてゆく、未来人のSFファンタジーです。
「空にふれた少女」は、羽の折れた幼いハヤブサをみつけた聡明な少女カマリが、村の祈祷師であるコリバに助けを求めにくるところから物語がはじまります。
キクユ族のための小惑星ユートピア創設に尽力した祈祷師コリバは、西洋社会の名門大学を卒業した教養のある人物で、唯一コンピュータを起動させて母星の保全局と通信できる立場にあります。
保全局との交信で天候の操作や、いざというときの医療バックアップ要請などはコリバに一任されており、楽園にくらす人々はコンピューターの存在さえ知りません。
祈祷師が雨乞いの儀式をすれば恵みの雨がふり、祈祷師に呪われれば死や苦痛がやってくると信じています。
祈祷師コリバが、ハヤブサの折れた翼を治療するかわりに、少女カマリは毎日コリバの小屋にかよって家事全般をすることになります。
そこで生まれてはじめて本を手にとったカマリは、祈祷師コリバが雨乞いの儀式で骨を投げるとき、地面に描くしるしをあつめたものだと類推して、好奇心をかきたてられます。
カマリの情熱に気おされたコリバが、本のなかのしるしを一遍だけ読んできかせると、カマリの「未知なることを知りたい」欲求におおきな炎が点火されます。
祈祷師コリバが男尊女卑とか差別主義者じゃないことは、本のはしはしからしっかりと感じられますが、大儀ある理想のもとに、キクユ族の伝統を根幹にした楽園のいとなみをまもることに専心した姿勢が、カマリの好奇心を制止することになってゆきます。
母星のアフリカで「都市は人間が増えすぎて不潔になり、大地には作物ができなくなり、動物たちは死に、水には毒がまじり、ついにわれわれは、ユートピア議会の承認を受けてこのキリンヤガへやってきた。
ずっとむかしには、キクユ族は書きことばをもたず、読みかたも知らなかった。
読むことでべつの考えや生活を知ると、キリンヤガでの生活に不満をいだくようになる」と、コリバは少女カマリに言いきかせます。
そうしてハヤブサを保護してから8日目に、一日中空を見あげて食べることをしなかった鳥は死んでしまいます。
悲しみにくれるカマリに「彼には食べるよりもたいせつなことがあるんだ」「鳥はいったん風に乗ってしまったら、もう地面では暮らせないんだ」といって、祈祷師コリバはなぐさめのことばをかけます。
空を飛ぶ鳥たちは、地上の楽園という境界線をとびこえて、またべつの桃源郷、べつの村、べつの都市へと、自由に出入りするつばさをもっています。
ひとつの楽園を維持するための物語は、たくさんある物語のひとつにすぎず、いろんなバージョンの物語を知るほどに、ヒトの「脳」は刺激をうけてあたらしい神経回路をひらきながら、送受信機としての可能性をひろげてゆくことができます。
楽園内で口承されてきたキクユ族の物語以外にも、世界にはたくさんの物語があると知った刹那、少女カマリのこころはあたたかい風にのって大空を舞うハヤブサのように、高揚していったのだろうな、と。
もっと知性を羽ばたかせたい、知見をひろげて飛翔したいと渇望するカマリと、理想の楽園を維持するために信念をつらぬく祈祷師コリバとのあいだで、冷たく静かな二極化ドラマが展開されてゆきます。
ヨロコビをともなう興味関心・好奇心、希望をたっぷりふくんだ情熱をみつけるのは、現代社会でもレアな体験といえるかもしれません。
あるいは高揚感あふれる熱意をようやくみつけたとしても、社会の枠におさまるように矮小させてしまったり、手をつけることなくあきらめてしまうこともめずらしくはありません。
純粋なヨロコビは、生活とか社会にあわせて折りあいをつけられるものじゃなく、それでいて苦労も努力も自己防衛も必要のない、シンプルに自分らしいと感じる創造と表現の発露なのだろうな、と。
ヒトのこころを飛翔させるみえない翼は、地面限定で展開される二極化世界を鷹の目発動によって俯瞰して、光と影のコントラストを美しい絵画のように愛でる場所につれていってくれる、目星いものだと感じています。
飛翔することでいのちをつなぐ鳥とちがって、上昇と下降をくりかえす能力をもっているヒトは、光の側面も影の側面も、こころのそこから飽き飽きして、もう十分にわかった、知りつくしたと感じるまで、堪能することができる稀有な存在なんだなぁ、と考えています。
22階だての感情百貨店
うつ状態を改善するというセントジョンズワートには、感情エネルギーを高速でうごかしてしまうナニモノカがあるのかもしれないと、ハーブティをいただくたびに気分の変遷を見まもっています。(変化を見のがすまいと監視するような心もちにはならないよう気をつけます)
こころの飛翔、天地のはしご、感情のコントラストについて考えておりましたら、ついさいきんYouTubeでエイブラハムとエスター・ヒックスさんの動画に出あいました。
未読ですが「エイブラハム感情の22段階」という本も人気があるそうです。
ネットで感情のスケール(22段階)の記事をみつけたので、下記図をダイヤモンドオンラインさんからお借りしました。
22階だての感情百貨店みたいで、じょうずに整理されているなぁと、まいにちいろんな発見やひらめきをもらいつつ、たのしくながめています。
22の段階ではうつ状態は最下層にあり、医学的には脳内物質・神経伝達物質の減少によるものと(いまのところ)解釈されています。
22の感情は目まえにぶらさがるメニュー表みたいなもので、たえず選択をくりかえしながら人生という物語はすすんでいく(すすんできたなぁ)と、つたない人生経験をもとに実感しています。
地上生活に没入して、どちらかのコントラストに肩入れするほど、22にむかってもぐりこんでゆく感情を物色することになるんだろうと、これまた自己の経験則から考えていますが、22段階の感情を堪能できるのは肉体をもつヒトの特権でもあり、人類はみんな地球のコントラスト劇場を創造しながら、出演もして鑑賞もできるという、ひとりひとりが自分の人生の総監督でもあるんだと感じています。
ただ、こころのつばさが折れて1階層に帰還する道を見失ってしまうと、出入口のない迷路に閉じこめられたような気分になり、やがて道を探すことに疲れ、道があったことさえ忘れて、脳内が不活発になり、神経伝達物質がすくなくなってしまうのかもしれないな、と。
孤独や不安、恐れや悲しみにあっとうされて無気力、うつ状態におちいってしまうとき、コントラスト没入催眠から解放するナニカを、セントジョンズワートは洗礼者ヨハネの聖水とともにふりまいているのかもしれないと想像しています。
それをむかしの日本人はエネルギーの流れとして察知し、こころのつばさをひろげて羽ばたかせる植物のちからに、「鷹の傷薬」と名づけたのではあるまいか、と。
洗礼者ヨハネの一生も、鷹匠の兄弟ものがたりも、憎悪・殺傷から開放・昇天まで、天地をつなぐエレベーターを各階どまりで探求する、あらゆる要素がつまっていると感じています。
弟切草につたわる物語の「鷹」は、ほんらい天高く飛翔できるヒトのこころを象徴したものとして、「鷹の傷薬=こころの傷薬」をあらわしたものだったのかもしれません。
☆☆☆
お読みくださりありがとうございました。
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