「翡翠を填めし鬼の譚」第六話(終)
いつの間にか美鳥は意識を失っていたらしい。目を覚ますと中天に太陽が昇っていた。
妻戸の向こうに広がる庭には、雨が降っていたことなど覚えていないような青空が広がっている。
美鳥の枕元には、陰陽博士が座っていた。
「そなたは三日も眠り続けていたのだよ」
老人は美鳥が目を開けたことに気付くと、皺だらけの顔に安堵の表情を浮かべて告げた。
「渡辺様は、いかがなさいましたか」
「大怪我をしたものだから、療養中だ。十日もすれば傷は癒えるだろう」
「北の方様が亡くなられて、さぞご落胆のことと存じます」
「あぁ、そのことだが、あれはどうも最初から茨木童子が化けていたらしい。本物の北の方は摂津でぴんぴんしとるそうだ」
「は?」
「あの男が鬼に出会う五日ほど前に、突然北の方がなんの知らせもなく都に現れたそうだが、実は茨木童子が北の方のふりをして邸内に入り込んでいたようだ。茨木童子はあの男の寝首を掻いてやろうと企んだのだろうが、綱はなかなか家に居着かない男だからうまくいかず、仕方がないので外で待ち伏せをしていたところ腕を切られてしまったというのがことの顛末らしい」
「では、北の方様は茨木童子に食われたりはしていないのですね?」
「そういうことだ。茨木童子が北の方に化けていることにまったく気付かなかった綱もどうかと思うが」
「何はともあれ、北の方が茨木童子に殺されていなかったのであればよろしゅうございました」
美鳥はほっと胸を撫で下ろした。
「弥彦は、どうなりましたか」
庭の向こうに見える土塀の上、弥彦が好んで止まっていた場所に烏の姿はない。
「どう、というか、こうなった」
陰陽博士は袖の中から懐紙を取りだして広げた。
中には黒い石がひとつだけあった。
「これ、は?」
「烏石だ。あの神烏の本性はこの石なのだ。罅が入っているが、割れてはいない。ただ、しばらくはこの姿のまま休息が必要なようだ」
「――そうですか。拾ってくださってありがとうございます。このまま越後に連れて帰ることにします」
しばらく漆黒の石を眺めた後、美鳥は石を指でつまんでみた。
弥彦の正体が実は烏ではなく石であることの驚きよりも、無事だったことに胸がいっぱいになった。どれくらいの年月を石のまま眠るのかはわからないが、いずれはまた神烏や人の姿になって話し相手になってくれることだろう。
「越後に帰るのか?」
「はい、帰ります。わたしのここでの役目は終わりましたので。翡翠を取り戻すことはできませんでしたが……」
茨木童子の手に填めこまれていた翡翠は、砕けて土に還ってしまった。
故郷の奴奈川神社の分社に祀られていたご神体は失われたが、大巫女に事の次第は報告しなければならない。
そのあとのことは、帰ってから考えるしかない。役目を果たせなかった以上、奴奈川神社にはいられなくなるかもしれないが、それはそれで仕方がない。ただ、もう糸魚川でいくら翡翠を探しても見つけられないかもしれないのが、残念でならなかった。せめて翡翠のひとつくらい弥彦に礼代わりに贈りたかった。
「このまま都にとどまってはどうかな。うちで働くというのも悪くはないと思うが」
「お気遣いありがとうございます。でも、やはり一度越後へ帰ります」
美鳥は越後に帰郷する意志を変えなかった。
翡翠を取り戻せなかった以上、美鳥は自分の魂が身体に戻ってこないことを覚悟した。この童女の姿のまま残りの人生を過ごすのか、それとも魂が抜けた身体ではそう長く生きられないのかもわからない。
それでも、いずれ死ぬときは故郷でと決めていた。
「どうしても越後にいられなくなったら、またお伺いするかもしれません。そのときは、こちらに置いていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
陰陽博士は大きく頷いた。
「ありがとうございます――」
深々と頭を下げたところで、まなじりからふいにぽろりと涙がこぼれた。
「あ……」
頬を伝う熱で、美鳥は自分が泣いていることに気付いた。
涙を流すのは何年ぶりだろうか。
家族や叔母を失ったときは泣いている暇などなかった。奴奈川神社での生活で姉巫女に苛められたり嫌味を言われたときも、涙が出ることはなかった。自分の涙はすっかり涸れたのだとばかり思っていた。
「そう泣くものではない。目が溶けるぞ。ほれ、あまりにも大粒の涙を流すものだから、溜まった涙が石になってしまったではないか」
陰陽博士は美鳥の頬を伝う涙をすくうと、茶化すように告げる。
その指先には、いつのまにか薄い緑色の翡翠があった。涙の粒のように勾玉の形をしている。
「……翡翠、が」
「そなたの涙で生まれた石だ。持って帰って、大巫女に見せてみると良い。もしかしたら新しいご神体になるやもしれぬぞ」
「これ、が?」
涙から翡翠が生まれるなど、聞いたことがない。美鳥にとって翡翠は、糸魚川の河原で拾うものだ。
受け取って手のひらに載せてみると、翡翠は陽光を浴びて鈍く輝いた。
乳白色の中に薄く新緑が混ざったような翡翠は、生まれたての卵のように見える。
「茨木童子の手に填まっていた翡翠は、役目を終えたから粉々に砕けたのではないだろうか」
「役目、でございますか」
「かつて越後でそなたを野盗から守り、そなたの仇である茨木童子を討つために一役買った。それがあの翡翠の役目だったとすれば、新たに社でそなたやそなたの郷を守るのがこの翡翠の役目であるかもしれぬぞ。翡翠は代々の帝が受け継いできている三種の神器のように唯一無二の物ではない。それぞれの人にそれぞれの役割があるように、それぞれの翡翠にもそれぞれの役割があると考えてみてはどうかな」
納得しかねるといった表情で美鳥が首を傾げると、陰陽博士は続けた。
「もちろん、砕けてしまった翡翠がそなたの郷にとって大切な物であることは儂もわかってはいるつもりだ。しかし、失ってしまったことを嘆いてばかりいてもどうにもならない。この翡翠がそなたの涙から生まれたということは、これはそなたにとって必要なものであるはずではなかろうか」
「そう、かも、しれませんね……」
言いくるめられている気分がしないでもなかったが、美鳥は頷いた。
「この翡翠が社でお祀りするに値する物かどうかはわかりませんが、持ち帰って大巫女様にお伺いしてみます」
この翡翠にどれほどの値打ちがあるかはわからないが、自分の魂の代わりにはなるかもしれないと感じた。
「これがあれば、また新たな翡翠を探せそうな気がします」
両手で翡翠を握り締め、それを抱きしめるように胸に押し当てる。この翡翠に社で祀るだけの価値がなければ、糸魚川の河原でまたご神体となる翡翠を探すだけだ。
頬から伝い落ちた涙は手を濡らし、指の隙間からこぼれて翡翠を濡らした。
すると、翡翠がほんのりと色づき、緑色が増したように美鳥には見えた。
晩夏になり、美鳥が越後へ帰る日がきた。
童女に一人旅はさせられないからと、昨年美鳥と弥彦を都まで連れてきてくれた商人が同行してくれることになった。
「あんた、ずいぶんと大きゅうならはりましたなぁ」
一年ぶりに会った商人の男は、旅装束の美鳥を見て感慨深げに言った。
「そう、ですか?」
「背も伸びはったし、髪も長うならはって、娘さんらしゅうなってきましたな」
実際、このひとつきばかりで美鳥はぐんと成長した。もう七つの童女の面影はない。
「大巫女はんも驚かはるやろうね」
「――はい」
首から提げた守り袋を美鳥はそっと手で押さえた。そこには翡翠の勾玉と一緒に烏石を収めている。
(さぁ弥彦、いっしょに越後に帰ろう)
大勢の人が行き来する大路の光景を目に焼き付けて、美鳥は汗ばむ陽気の都を後にした。
【了】