「翡翠を填めし鬼の譚」第二話
越後の南西部、姫川の下流域に美鳥が生まれ育った郷はあった。
ほど近い場所に奴奈川姫を祀る奴奈川神社があり、美鳥の郷にはその分社が建てられていた。
母方の叔母が分社の巫女を務めていた縁で、美鳥は八つになったら奴奈川神社で巫女見習いとして修行に上がることが決まっていた。父親は頸城郡司の屋敷で下男として働いており、母親も同じ屋敷で下女として働いていた。きょうだいは多く、美鳥には合わせて八人の兄と姉がいた。
兄姉が幼い美鳥の世話を焼いてくれることはあっても、遊び相手にはなってくれなかった。兄や姉たちも生活のために両親に代わって畑仕事や家事をせねばならなかったからだ。
物心ついた頃から美鳥は自然と、叔母がいる奴奈川神社の分社で過ごすようになっていた。
叔母は務めの合間を見ては、よく美鳥の相手をしてくれた。神社でお祀りしている奴奈川姫やその息子の建御名方神、大国主神など神世の話をしてくれた。
郷は貧しかったが、国司や郡司でもない限りはどの家も貧しいのが当たり前だったので、特にそれを辛いだの惨めだのと思うことはなかった。
姉のひとりが容姿の美しさを認められて国司の屋敷で下女として働くようになり、郷帰りのたびに都からやってきた国司一家の華やかな生活を語って聞かせてくれたが、別世界である貴族の生活は物語を聞くのと変わらず、羨ましいとはまったく思わなかった。
冬になり雪が降り出すと、郷は白銀に染まる。
美鳥の棲む郷は越後の中ではそれほど雪は多くない地域だが、それでも仲冬の頃には美鳥の腰まで埋もれるほどの雪が積もるようになり、兄たちは毎日朝から雪かきに追われるようになった。
夜は月明かりを浴びた雪がきらきら光り、星々の輝きが地上にこぼれてきたように見える。白い息を吐きながらそんな夜の雪原を兄や姉とともに歩いていると、身体は芯から凍えているのになんだか楽しい気分になった。
美鳥は幼いなりに分社の雪かきを日々手伝ったが、それは叔母がご褒美にくれる粟飴が楽しみだったからだ。いくら着込んでも冬の寒さは美鳥の骨の髄まで冷やしたが、しもやけで真っ赤になった手足や頬に叔母が膏薬を塗ってくれる炉端でのひとときもまた、楽しかった。
春も半ばになり雪が解けると、美鳥は田畑の仕事を手伝った。
雪解け水で潤う田圃は広いが、穫れる米のほとんどは年貢として郡司に収めなければならなかった。神社に供える米はほんの少ししか残らない。庶民の口に入る米はまったくなく、美鳥は米の味を知らなかった。
麦や稗、粟に豆が郷の庶民の主食だったが、毎日ふたくちみくちでも食べるものがあるだけ恵まれていた。
郷が貧しいのは幸いだ、と郷長はよく言っていた。
それは、国司や郡司たちに搾取されるばかりの自分たちを慰める言い訳に聞こえたが、郷長は幼い美鳥にもわかるように説明してくれた。
曰く、豊かな郷は国司や郡司の直轄領となっているが、そういった郷は野盗に狙われるのだという。野盗は郷の倉を壊して中身をすべて奪い、女子供を攫って人買いに売り払い、抵抗する男たちは容赦なく殺し、国司や郡司の兵が到着するやいなや疾風のごとく姿を消すのだそうだ。
野盗たちは生まれた郷をなんらかの理由で追い出された破落戸たちの集まりで、腕っ節は強く、粗野な荒くれ者だ。中には鬼神のごとき荒々しさで郷を襲い、百を数える間もなく郷を壊滅させる者もいるほどだという。
彼らの狼藉には国司も郡司も頭を痛めていたが、野盗に対抗できるような武士は越後にはほとんどいない。国司や郡司が雇っている兵士は皆が地元の庶民で、槍や刀、弓矢を持たせればそれなりに格好はついたが、到底野盗に敵うものではなかった。
美鳥の長兄は郡司の屋敷で兵士をしていたが、「重い具足を身に付けただけで身体が動かなくなる。これでは野盗とやり合うことなどできぬ」とよく不満を垂れていたものだ。
幼い美鳥にとって、野盗も貴族と同じく別世界の存在だった。
美鳥は、物心ついた頃から叔母に連れられて糸魚川の岸辺でよく翡翠探しをした。
翡翠は勾玉の材料のひとつだ。
原石を探して勾玉職人のところへ持って行くと、かなりの高値で買い取ってもらえた。ただ、子供ひとりで売りに行くと安く買い叩かれてしまうので、常に叔母に付き添ってもらうようにしていた。叔母が奴奈川神社の分社の巫女であることは、勾玉工房の誰もが知るところだったので、子供の美鳥が売りに行ってもそれなりの値をつけてくれた。
岸辺で砂利に混じって見つかる翡翠は小さい物がほとんどだったが、稀に大きな物もあった。翡翠は多少なりとも美鳥の家の家計の足しになっていた。
美鳥が七つになった頃には、美鳥の下に三人の弟妹がいた。
両親の祖父母もともに健在で、日々大家族が食べて行くのがようやくの生活ではあったけれど、美鳥は暮らしぶりに不満はなかった。
ただ、その年の夏から秋にかけて、越後では天候不順による長雨が続いた。田畑は荒れ、稲は凶作とはいかないまでも不作となった。
春に穫れた麦のおかげでなんとか郷は食いつなぐことができたが、近隣の郷の中には川の氾濫、地滑りによる田畑の作物の全滅、飢えによる死者で人がいなくなった村もあるという噂が美鳥の耳にも入ってきた。
その年、庭の柿の木のたわわに生った青い実が枝をしならせる頃、ある日突然野盗が郷を襲ってきた。
獣の毛皮を羽織った男たちは、刀や槍を手にし怒声を上げながら集落に攻め入ってきた。
「悪鬼だ! 悪鬼がいるぞ!」
「女子供はさっさと逃げろ! あいつらは一番質が悪い連中だ!」
男たちが叫び、女子供は悲鳴を上げて走り出した。
美鳥も叔母に手を掴まれ、腕が抜けるかと思うほど強く引っ張られながら走った。
あちらこちらで火矢が放たれ、家々から炎が立ちのぼる。煙で視界が悪くなると同時に、炎の熱と煙の臭いで気が動転した。
郷にいた男たちは鍬や鋤を手に野盗と応戦するが、兵士ではないのですぐに倒されていく。辺りには血の臭いも漂い始めていた。
「鳥居の中に逃げ込むのよ! 神域なら鬼たちも入れないわ!」
叔母に励まされ、息ができないほど苦しくなりながらも美鳥はひたすら小さな足を動かした。
郷を襲ってきた野盗は悪鬼と呼ばれる特に荒くれ者がいる集団だった。
とはいえ、女子供のか弱い足でいくら必死に走っても、逃げ切れるものではない。
子鹿を狙う猟師のように、野盗のひとりが美鳥と叔母を獲物として狙い定めて追い掛けてきた。
「捕まえたっ」
下卑た声を上げて野盗が美鳥の腰に腕を回したときだった。
「奴奈川姫様! この子をお助けくださいっ!」
叔母が目の前の鳥居に向かって金切り声を上げた。
その瞬間、鳥居の奥にある小さな木の社の扉が内側から風に煽られたようにぱかっと開いた。
びゅんっと風を切る音が耳を過ぎったかと思うと「ぐあっ」と美鳥を捕まえていた野盗が声を上げて手を放した。そのまま、右手を左手で抱え込むようにして倒れ込み、のたうち回る。
地面に放り出された美鳥が振り返ってみると、男の右手は鮮血で染まっていた。
「さぁ、逃げるのよ!」
叔母は恐怖で竦んでいる美鳥をなんとか立たせようとするが、身体が硬直した美鳥はもう一歩も歩けなかった。
「なんだこれはっ!」
怒り狂った野盗は、自分の手のひらに突き刺さった物を睨み付けた後、また美鳥たちに目を向けた。眼球は血走り、浅黒く日焼けした顔も紅潮している。いまにも美鳥の首を片手で鷲掴みにして折りそうな勢いだった。
「殺してやるっ!」
野盗は血で濡れた手を美鳥に伸ばした。
その右手のひらには、深緑色の石がめり込んでいる。
勾玉だった。
野盗の赤い血は勾玉を避けるように流れていた。
「早く奴奈川姫様のところへ逃げなさい!」
先に美鳥を抱え上げたのは叔母だった。
彼女の細腕のどこにそんな力があったのか、叔母は美鳥を社に向かって放り投げた。
次の瞬間、物凄い力に引き込まれるようにして、美鳥は狭い社の中に吸い込まれた。
社は子供ひとりが入れるか入れないかという狭さだというのに、美鳥が目を瞑って手足を丸めた途端、すっぽりと収まることができた。
ばたん、と音がして社の扉は勝手に閉じられた。叔母が駆け寄って閉じたわけではないようだった。
ぎゅっと閉じた瞼を、美鳥は開けることができなかった。
社の扉が閉じられたときから、外の音はいっさい聞こえなくなっていた。
気付くと、美鳥は土の上で寝かされていた。
空を見ると、西日が眩しい。
美鳥がまばたきをしながら首を動かすと、すぐそばで膝を抱えるようにして座り込む五つ、六つほど年嵩の少年の姿があった。薄墨色の水干を着ていたので、最初はただの影のように見えた。
美鳥が身じろぎする気配に気付いたのか、仏頂面で睨むような視線を向けてきた。
「ようやく目を覚ましたか。お前、三日間ずっと眠り込んでいたんだぞ。もう起きないんじゃないかと思ってひやひやしたよ」
少年はぶっきらぼうに文句を垂れつつ、水を入れた竹筒を差し出した。
「これでも飲め」
ゆっくりと美鳥が身体を起こすと、固まっていた全身がばきばきと音を立てるような感覚に襲われた。
「だ……れ?」
なんとか声を絞り出したが、老婆のような嗄れた声がかすかに響いただけだった。
「我は弥彦。お前を迎えにきた。さぁ、飲め。あと、握り飯もあるぞ。麦飯だけどな」
弥彦と名乗った少年は、尊大な態度は崩さず、美鳥の唇に竹筒を押し付けた。
ぬるい水を舌の上に流し込み喉の奥へ通すと、美鳥は自分の臓腑が動き出すのがわかった。
「こ……こ、ど……こ?」
まだ舌がうまく動かせずにいたが、美鳥は辺りを見回してから尋ねた。
深緑の木々や野草が生い茂る見慣れない景色が広がっていた。
「奴奈川神社の分社のひとつ、五の宮だ。奴奈川姫様がお前をここまで運ばれた」
「――さと、は? おばさまは? やとうはあにさまたちがやっつけてくれたの?」
「さぁ……知らね」
そっぽを向いた弥彦は、答えを知らないというよりは答えたくない様子だった。
「我はお前を奴奈川神社まで連れて行くよう頼まれただけだ」
「だれに?」
「奴奈川姫様に。ほら、飯を食え。ここからは自分で歩くんだぞ。我はお前をおぶったりしないからな。じゅうぶん寝たから、いまから朝までぶっ通しで歩けるだろ。嫌だと言っても歩いてもらうからな。獣道も歩かなきゃなんねえんだぞ」
編んだ竹籠に入った麦の握り飯を弥彦は無理矢理美鳥の手の上に載せた。
「ととさまやかかさまは?」
「知らねって」
「やひこはなにもしらないのに、なんでみどりがおきるのまってたの?」
「頼まれた。それだけだ」
「――かえりたい」
「お前は奴奈川神社に巫女修行に行くんだ。そういう約束だっただろ」
「でも、まだみんなにいってきますっていってないもの」
冷えた麦飯をじっと見つめながら、美鳥は唇を噛み締めた。
着物から煙で燻されたような異臭がする。肩に垂れる髪や手足には土や草や煤が付いている。膝には擦り傷があり、どこかで打ったような痣もある。
なぜ自分ひとりだけ、こんなところにいるのかがわからなかった。
「やとうは、どうなったの? ぐんじさまは、たすけにきてくれた?」
「だーかーら、我はなにも知らねーんだって」
いらついた様子で弥彦は答える。
「うちのさとはまずしいからやとうにねらわれないって、さとおさはいってたのに……」
西の山際に沈みかけた太陽を見つめながら美鳥は呟いたが、弥彦はなにも答えてくれなかった。
東の空はすでに藍色に染まっている。
日が沈み始めた途端に、冷え込んできた。
美鳥は自分の身体に洗いざらしの着物がかけられていたことに気付いた。
襟を掴んで着物を身体に巻き付けながら、麦の握り飯にかぶりつく。
(かたい……)
冷えて固まった麦飯は、砂利を噛むような味がした。
(うちにかえりたい)
弥彦は「知らん」としか言わないが、美鳥には薄々郷の惨状は想像できた。とはいっても、かつて郷長が教えてくれた「野盗に襲われた郷は死体以外は残らない」ということくらいだ。それがどういう光景なのかはよくわからない。
(ぐんじさまのおやしきのととさまとかかさまはぶじなのかな。さとがぐちゃぐちゃになったから、わたしはしゅぎょうにいかなくちゃいけないのかな)
両親との別れはそれほど悲しくはなかった。ふたりとも郡司の屋敷に住み込んでいたので、滅多に家に帰ってくることはなかったし、美鳥はほとんど両親に構って貰ったことは無かった。
美鳥にとっての親は、叔母だった。
(おばさま……つかまっちゃったのかな)
叔母の最後の「逃げなさい」という叫び声は、まだ耳の奥に残っている。
野盗は女子供を捕まえて人買いに売るという話だから、叔母が逃げ切れずに捕まったのであればいまごろは人買いに引き渡されているのかもしれない。
それがどういうことか、七つの美鳥にはよくわからなかった。叔母や姉妹、弟たちがどこかで生きていることだけを願った。
(みこしゅぎょうがおわったら、おばさまをさがしにいこう)
越後中を探せばきっと叔母を見つけ出せるはずだ、と美鳥は幼いなりに考えた。
(おばさま、まってて)
砂利のような麦飯を頬張りながら、美鳥は心の中で叔母に呼び掛けた。
【次話に続く…】