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「翡翠を填めし鬼の譚」第五話
「そして、ようやく都に茨木童子が現れました。かつて大江山で自分に太刀傷を負わせたこちらの殿に復讐するため一条戻橋で待ち伏せ、殿はその右腕を切り落としたと聞きました。わたしはその右腕の手を見たいのです」
美鳥が語った身の上話に、渡辺綱と北の方は胸を打たれた様子で嘆息を吐いた。
「そのような苦労があったとは、なんと不憫な子でしょう」
北の方はまなじりに浮かんだ涙を袖で拭った。
「あの爺は儂が鬼の腕を切り落としたと聞いた途端なにやら面白がっている様子だったが、こうなるとわかっていたわけか」
ちっと舌打ちをした渡辺綱だったが、すぐに気を取り直したように笑みを浮かべた。
「見たいというならいくらでも鬼の腕を見せてやる。儂もしっかりとは見ていないゆえ、手に翡翠が付いているかどうかまではわからぬのだ。しかし、腕は唐櫃に入れても暴れ回るので、そう気安く櫃から出すわけにもいかないのだが」
「すぐに出していただかなくてもかまいません。いずれ鬼は腕を取り戻そうとこちらに現れるはずです。どうにかして、殿に腕を唐櫃から出させようとするでしょう。そのとき、わたしも一緒に見せていただきます」
「鬼が来るのを待ち伏せるというのか? かなり危ないぞ」
「わかっています」
美鳥が頷くと、土塀の上に止まっていた烏がばさばさと羽根を羽ばたかせながら美鳥の横に飛んできた。漆黒の翼を畳んだ途端、烏の姿から十二、三歳の少年へと変化する。
「これはまた――陰陽博士の術を見ているようだ」
「妖術ではありません。この弥彦は神烏なので、人の姿に化けることができるのです」
「ほう、それは便利だな」
「――弥彦と申します」
膝に手を突き、弥彦は深々と頭を下げた。
「茨木童子はかつて頸城郡内を荒らし回った野盗の一味を率いていたとおぼしき男。これまでの犠牲者は数えきれず、このまま生かしておくわけにはまいりません。ぜひ、渡辺様にはご助力いただきたく存じます」
「もちろん、尽力いたそう。なんといっても、茨木童子は儂が大江山で獲り逃してしまった鬼なのだからな」
渡辺綱は力強く請け負った。
美鳥と弥彦が渡辺綱邸に滞在するようになって、六日が過ぎた。
渡辺綱が茨木童子の腕を切り落としてから七日が経っていた。
その日は昼過ぎまでは晴れていたが、日没頃になると雷鳴が轟き始め、間もなく大粒の雨が降り出した。
「薄気味悪い天気ですこと。鬼でも訪ねてきそうな気配がしますわ」
部屋の中から暮れ始めた空を走る稲光を眺めながら、北の方は眉をひそめる。
邸内は相変わらず調度品があちらこちらで跳ね回っている。
鬼の腕を収めた唐櫃は護符を貼っているせいか静かだが、櫃からは瘴気が漂い出ている。
美鳥は背筋が凍るような悪寒がずっと続いていた。
鬼の腕が近くにあるだけでこれほど身震いがするのだから、鬼が目の前に現れたら人事不省に陥るかもしれない。なんだか目眩がするし、頭も痛くなってきた。倒れるのではないかというほどに、身体も重い。
ちらりと横目で弥彦の様子を窺えば、こちらも顔面蒼白状態だ。
「そろそろ来るだろうな。悪名高い茨木童子が腕を奪われたまま尻尾を巻いて都から逃げ出すことはあるまい」
「え? まさか、ここに来るのですか?」
渡辺綱の返答に、北の方の目が吊り上がる。
黙って夫婦の会話を聞いていた美鳥と弥彦は、北の方の剣幕と夫婦の間に漂い始めた不穏な空気に首を竦めた。
どうやら本日何度目かの口論が始まりそうだ。
渡辺綱がどれほど腕の立つ武士でも、口では北の方にまったく歯が立たずにいる。
どうせまた北の方にやり込められるのだろう、と美鳥と弥彦は黙って見守ることにした。
老家令にも「いつものことやから放っておき」と言われていた。
「他にどこへ来るというのだ。鬼の腕はここにあるのだぞ。心配せずとも茨木童子のひとりやふたり、儂がこの太刀で……」
「――俺のひとりやふたり、なんだって?」
突然、胴間声が辺りに響いた。
「え?」
美鳥と弥彦はぎょっと辺りを見回す。
「やれるものなら、やってみろよ」
相手を挑発するような声と同時に、北の方の周囲に黒い靄が立ちのぼる。
邸内の扉や柱、天井の梁までもがびりびりと震えだした。
「渡辺様――」
懐にしまってあった護符を取り出して渡辺綱に渡そうとした美鳥は、ゆらゆらと近づいてくる靄にすくんだ。
弥彦は靄から美鳥をかばうように両手を広げる。
「腕は返して貰うぞ」
北の方が袿を脱ぎ捨てながら勢いよく立ち上がる。
それまでたおやかな北の方の姿だった人影が荒々しく変貌した。それは直垂を着崩した姿だが長い黒髪を背中に垂らしているので、男なのか女なのか一見するとよくわからない。身の丈は六尺ほどあるが、渡辺綱ほど大柄ではない。右袖は腕がないためひらひらと揺れている。
「まさか、お前は茨木童子か!?」
鞘に収めていた太刀を抜き、渡辺綱が誰何する。
「どうして茨木童子が北の方様と入れ替わっているの? 北の方様はどこ?」
美鳥は必死に辺りを見回した。
鬼の腕が持ち込まれたときから邸内には腐臭が漂っていたので、茨木童子が北の方に化けていたことに気付くことができなかったようだ。
「き、北の方様が――!」
老家令は驚きのあまり腰を抜かした。
「あぁ、あれは食った」
舌なめずりをして茨木童子が答えた途端、素早い身のこなしで渡辺綱が無言で太刀を突き出す。
ひらりと太刀をかわした茨木童子は、軽い足取りで腕が隠されている納戸へ走り出した。
すぐに渡辺綱も追い掛ける。
「なんてこと……」
真っ青な顔で美鳥は這うようにして納戸へ向かおうとするが、全身の震えが止まらない。
「我らも急がなければ! 鬼が腕を持っていく前に、翡翠を取り戻すぞ!」
弥彦が叱咤するが、美鳥はなかなかうまく立ち上がれない。
「わかってる」
ここへ来たのは、渡辺綱の手助けをするためではない。
茨木童子の手に填めこまれていると思われる翡翠を取り戻すためだ。
床を這っているうちに、なんとか手足に力が戻ってきた。しかし、足は鉛のように重い。まるで茨木童子に近づくことを恐れているようだ。
「急げ。唐櫃の蓋は外から護符を剥がされては、すぐに開けられてしまうぞ」
弥彦は急かすが、美鳥はなかなか歩けずにいた。
ようやく納戸の前まで辿り着くと、そこでは渡辺綱が茨木童子を殺そうと必死に戦っていた。ただ、彼も鬼が放つ瘴毒に全身を蝕まれ、うまく太刀を振るうことができない。
茨木童子は腰の脇差しを抜くと、渡辺綱へ投げつけた。
辺りが薄暗いこともあり、脇差しが飛んでくることに気付くのが遅れた渡辺綱の左胸に刃は深々と刺さった。
「渡辺様!」
美鳥が声を上げると同時に、渡辺綱は簀の子から庭へと転げ落ちる。
「さぁてと、じゃあ、俺の腕は返してもらおうか」
茨木童子は唐櫃に近づくと、左手で護符を乱雑に破り始める。
護符がすべて破かれ、唐櫃の蓋の蝶番が外された途端、弾かれたように中から腕が飛び出してきた。
鬼の腕はどす黒く、切り口からはまだ鮮血が滴っていた。
「美鳥、腕が出てきたぞ」
渡辺綱の様子を気にする美鳥に、弥彦は声を掛ける。
「翡翠は、どこ!?」
ただでさえ納戸の中は灯りがないというのに、外はいよいよ日没で暗くなってきている。
雨もぽつぽつと降り出してきた。
なぜか鬼の腕は納戸の中で仄かな光を放っている。
茨木童子の姿はよく見えないが、鬼の腕だけははっきりと確認することができた。
「あった! 手のひらの真ん中に……」
目を凝らして鬼の腕を睨んでいた美鳥は、曲がった指と指の間から見える手のひらに深緑色の翡翠が小さく星のように輝いているのを見つけた。
「あれをどうにかして取り戻さないと」
とはいえ、そのまま茨木童子に体当たりをしたところで腕は奪えそうにない。
渡辺綱はまだ庭の土の上に倒れたままで、ぴくりとも動かない。死んだわけではないが、意識は失っているようだ。
その横には太刀が落ちていた。刃には茨木童子の血らしきものがついている。
美鳥がそっと手を伸ばして柄を握ってみると、想像以上に太刀はずっしりと重かった。両手で柄を握ってみても、持ち上げるだけで一苦労だ。
「美鳥、なにをしてる――」
小さい身体で美鳥が太刀を持ち上げようとしているのに気付き、弥彦が止めようとしたときだった。
どんっと美鳥の胸に衝撃がきたかと思うと、そのまま吹っ飛び土塀にぶつかった。
「美鳥!」
弥彦の悲鳴が響く。
土塀で全身を強打した美鳥は、激しく咳き込んだ。のろのろと顔を上げると、簀の子に立つ茨木童子が弥彦を蹴り上げるのが見えた。どうやら自分も茨木童子に蹴られたらしいと認識する。手足がばらばらになるような衝撃があったものの、なんとか呼吸をすることはできた。
弥彦も同じように土塀にぶつかって地面に落ちた。
薄墨を流し込んだような暗がりの中、茨木童子はにやりと口元を歪める。取り戻した右手を口でくわえると、空いた左手で落ちていた渡辺綱の太刀を拾った。それを大きく振り上げる。
「わたな……さ、ま」
茨木童子は渡辺綱の首を切り落とす気だ、と美鳥は察した。
酒呑童子の仇討ちなのか、自分の腕を切り落とした男への仕返しなのかはわからないが、このままでは渡辺綱が殺され、茨木童子は自分の腕を取り戻して悠々と去って行くに違いない。
(どうすれば――)
歯噛みしながらも必死で美鳥が考えていたときだった。
ひゅんっと音をたてて漆黒の礫が茨木童子に向かって飛んだ。
(弥彦!?)
さきほどまで土塀の下でうずくまっていた弥彦の姿はない。
弥彦が人の姿を解き、別のものに化けて茨木童子に飛びかかったようだ。
茨木童子が加えていた腕に黒い礫がぶつかり、腕はその衝撃で床に落ちた。そのままころころと転がり、庭に倒れた渡辺綱の横で止まった。
さっと人の姿に戻った弥彦は腕を追い掛けて庭に下りると、ずっしりと重い腕を拾った。
「美鳥!」
腕を勢いよく弥彦は放り投げたが、あまりの重さにたいして飛ぶことなく庭石にぶつかって落ちた。
美鳥は慌ててまた這うようにして腕に近づく。途中、浅い池に落ちたり、躑躅の木の茂みにぶつかったりしたが、必死に進んだ。
「返せ!」
茨木童子は弥彦を太刀で切り捨てようとしたが、弥彦は素早く茨木童子の背後に回って逃げようとする。
その隙に美鳥は鬼の腕に辿り着いた。
黒くごつごつと固い鬼の腕の手のひらを覗き込むと、小指の爪ほどの大きさの翡翠が嵌まっている。
「――これだ」
すぐに指で翡翠を取り出そうとするが、焦っているためと、鬼の手のひらの肉にかなり食い込んでいるせいで、なかなか翡翠は剥がれない。
(早くしないと……)
弥彦が茨木童子の周囲を走り回っているおかげで、茨木童子は美鳥がなにをしているか見えていないらしい。童女では腕を抱えて逃げることもできないと考えているのだろう。
(奴奈川姫様、はやく鬼の手から逃げてください)
爪を立てて翡翠を剥ぎ取ろうとするが、やはり翡翠は手のひらに貼り付いたままだ。
(なにか道具があれば)
小刀かなにかで掻き出すしかなさそうだが、適当なものが見当たらない。
渡辺綱の胸に刺さっている脇差しを抜くしかないだろうか、と考えたときだった。
「きぃ――――」
空気を切り裂くような鳥の悲鳴が響いた。
美鳥が視線を上げると、烏の姿になった弥彦が濡色の羽根を散らしながら地面に落ちていくところだった。胸の辺りが真っ赤に染まっている。
「やひ、こ」
美鳥の視界が弥彦の血と羽根の色で染まる。
弥彦が地面に転がると同時に、茨木童子は美鳥の前に立った。
「それは俺の腕だ。返せ」
唸るような声で茨木童子は頭上から怒鳴る。
「俺の腕に触るな、小娘」
すぐさま美鳥は腕に覆い被さった。なんとかしてこの翡翠を取り戻すまでは、腕を茨木童子に奪われるわけにはいかない。
(奴奈川姫様、奴奈川姫様、この鬼の手からなんとかして出てきてください)
美鳥は必死に翡翠に向かって祈った。
「離れろ」
不機嫌そうに茨木童子は叫ぶと、美鳥の髪を鷲掴みにする。
「俺の腕を――」
痛みも恐怖もすっかり麻痺してしまった美鳥は、必死で茨木童子を睨み返す。ただひたすら、翡翠を取り戻したい一心だった。
そのとき突然、茨木童子の左腕がぼとんと落ちた。
(え?)
美鳥の髪を掴んでいた指もほどける。
茨木童子もなにが起きたのかわかっていない表情で、足元に新たに落ちた腕を凝視した。
「次は首だ」
勝ち誇ったような声が茨木童子の背後から響くと同時に、茨木童子の首がぽんと鞠のように飛んだ。
残った胴体の向こう側に、太刀を構えた渡辺綱が無表情で立っている。胸には脇差しが刺さったままの満身創痍だ。
「ようやく仕留められたか」
渡辺綱が大きく息を吐いた。
首を失った茨木童子の胴体は直立不動のままだ。
「おーのーれー」
庭石にぶつかった茨木童子の首が、口汚く罵り始めた。首だけになってもまだ生きていたが、それでも自力で胴体があるところまでは戻れないようだ。地面に落ちている左右それぞれの腕も、まだ勝手に動いている。
「斬ったくらいでは死なぬか」
舌打ちをして渡辺綱は太刀を構え直す。
「これで終わったと思うなよ」
茨木童子がなにやら呪文を唱えると、それまで動きを止めていた胴体の足が上がった。
「危ない!」
渡辺綱が手を伸ばしたが間に合わず、美鳥は蹴り上げられた。
一緒に鬼の右手も飛んだ。
美鳥は必死に腕にしがみつくが、蹴られたときの衝撃で力が抜けていく。
腕はそのまま茨木童子の顔の前に落ちた。
美鳥は池の中に派手な水音を立てて落ちる。
「これくらいでくたばる俺じゃねえからな」
鬼の右手は茨木童子の顔を掴んだ。まるで、茨木童子の意志が右手に伝わっているようだ。手は掴んだ顔を胴体に向かってひょいと投げる。
池から這い上がった美鳥は、鬼の右手に向かって走った。
(茨木童子が死なないのは――翡翠のせい?)
なんとか茨木童子の動きを止めなければ、渡辺綱がいくら茨木童子を切り刻んだところで死闘は終わりそうにない。
(翡翠さえ剥がせれば……)
茨木童子の意志に従うようにして、鬼の腕は指で蜘蛛のように地面を這いながら胴体の方へと向かう。さきほど斬り落とされた左腕も同じように這っていた。
(なんとか終わらさなければ)
懐になにか道具はないかと探ってみるが、護符しか出てこない。
(ひとまずこれで動きを封じられるかやってみよう!)
すでに雨は本降りになっている。
美鳥は護符を茨木童子の右腕に貼り付けたが、護符の文字はすぐさま雨に濡れてにじみ出した。大粒の雨は短冊も破るほどの勢いだ。
護符を貼られた右腕は、厭がるようにぶるぶると震える。
「なにをしやがる!」
元の場所に戻った茨木童子の首が、不快感をあらわにして怒声を発した。
「いますぐそれを剥がせ!」
ふたたび美鳥を蹴り上げようと茨木童子が近づいてくる。
止めようとした渡辺綱はふらつき、地面に膝をつく。
「早くしろ!」
怒り任せに美鳥を踏みつけようと、茨木童子は足を上げた。
それを避けようと、美鳥は目を瞑りながら身体をずらす。
ぐしゃっと音がして目を開けると、茨木童子は自分の手のひらを踏みつけていた。どうやら、首が切れているのを気にしてしっかりと足元を見ていなかったらしい。
「あ――――」
茨木童子が足を上げると、踏みつけられた手は指の骨が折れてばらばらな方向を向いている。そして、手のひらに填めこまれていた翡翠は、粉々に砕けていた。
雨に打たれて、翡翠の粉はそのまま地面へと流れて行く。
「翡翠が……!」
美鳥は慌てて掻き集めようとするが、夜陰の中で砕けた翡翠は溶けるように消えてしまった。
「なんてこと……奴奈川姫様が」
戦慄声を漏らす美鳥の前で、鬼の右腕が白い煙を上げ始めた。
「なんだ、これは!?」
慌てふためく茨木童子の声に視線を向ければ、茨木童子の全身からも白い煙が出ている。そして、炎はないのにまるで焼かれたように茨木童子の身体は黒く焼け始めた。
「翡翠が割れて力が失われたから……?」
茨木童子の身体は、みるみるうちに真っ黒に焼け焦げ、そして雨に打たれて白い煙を上げながらぼろぼろと崩れて行く。
「これが、悪名を馳せた鬼の末路――」
断末魔を上げる茨木童子を呆然と見つめながら、美鳥は呟いた。
【次話に続く…】