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「太陽の季節」(石原慎太郎)【読書ノート】
まず、タイトルがいいなー。
石原慎太郎さんの他の著書、「灰色の教室」、「処刑の部屋」、「完全な遊戯」など、タイトルからしてとても惹かれる。
「太陽の季節」というのは、エネルギーの満ち溢れる若い時代のことだと思う。あるいは、戦後日本(1956年出版)という戦後の灰から立ち上がっていこうとするエネルギーに溢れた時代のことも含まれるかもしれない。
竜哉とその悪友たちは、身体的・精神的なエネルギーを爆発させる。
そのエネルギーを自分たちでもコントロールできず‥‥つまり無軌道に暴走させていく。
ボクシングで人間やサンドバッグを殴り倒し、それでは飽き足らずに街では喧嘩を吹っかける。
女性をナンパし、仲間内で金銭で売買する。
ナンパできなければキャバレーで女給と戯れ酒を飲む。
更には豪勢に海でヨットを乗り回す。
ただ・・・これらを読んでもそれほど強い衝撃を受けなかったのがとっても正直な感想だ。もちろん、倫理的にアウトなことばかりであるのは間違いないのだが、太陽族という言葉が生まれて社会現象になるほどの衝撃さは感じなかった。(作品への批判では決してない。)
なんでだろう?
それは時代性によるものだと思う。
というのも、こういう無軌道な若者は、この時代(1956年)以降に何回か登場してきている。
1970年くらいには、学生運動があった。(無軌道という言葉が合わないかもしれない。むしろ一定の秩序があったと思うので。)そこでは暴力もあった。
1980年くらいには、ツッパリや暴走族がいた。
1990年くらいには、ヤンキーがいた。
2000年以降もヤンキーや不良、または犯罪に手を染める若者たちはいたし、今もいる。
何を言いたいかと言うと、戦後から今までの間に随分いろんな形態に形を変えつつも、無秩序だったり無軌道だったりあるいはイリーガルだったり暴力的な若者たちというのは今までもずっと居たのだ。
それらを現代の我々は既に見てきているから、いま太陽族を見ても、それが「超やばい」って感じでもないのだろう。
過剰だったり異常だったりする度合が、「相対的に」そこまでヤバくないと思えてしまうんじゃないか。
これが当時の世の中の感覚で読むと、かなり「ヤバい」小説だったのだろう。
鑑賞する側にとっては、時代性が切っても切り離せないのだと思うのだ。
(無軌道な若者に慣れてしまっている現代日本人の感覚も、それはそれで’’ヤバい’’のだろうが・・・。)
* * *
ところで、石原慎太郎さんは考えてみたらすごすぎる。
大学生でこの小説を書き、当時最年少で芥川賞を受賞。
しかもなんと!!「太陽の季節」は2晩で書き上げたという。
(「死という最後の未来」[著 石原慎太郎・曾野綾子] <幻冬舎>p127より)
そして太陽の季節を映画化して弟・石原裕次郎さんを出演させておまけに自身も出演。
弟は大スターとなり自身は政治家となる。
そして東京都知事まで務める。
しかも長身でスポーツマンでハンサム。
作家でありながら、実社会を直接動かしていく政治家を務めるなんて、あまりにも超人的だ。
もっと話が聴いてみたいという感情が湧いてきた。
小説だけでなく、実社会を動かしてきたご経験も踏まえたエッセイなどあると思うので、今後も石原慎太郎さんの著書を読んでいきたいと思う。