「今日の芸術」岡本太郎【読書ノート】
<要旨>
①現代は高度に発達した経済社会の中で、分業制が進んでいる。
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②分業制が成熟すると、人々は限定的、部分的な仕事にのみ従事するようになる。平たく言えば、「決められた仕事を決められた通りにやる」という状況。いわゆる社会の歯車の一部となってしまう。
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③決められた仕事だけを決められた通りにやればいいという状況下では、新しい仕事を創りだすことや、新しい仕事の進め方を創造する必要がない。そうすると、生きる喜び、創造する喜びを失い、自己の全体性を失うことになる。太郎はそのことを自己疎外と表現しています。
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④そして、そういう状態を脱却する為にこそ芸術が必要である。芸術は、人間本来の喜び、創造する喜びを取り戻すことができるからだ。
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⑤「いままでの芸術」では芸術は一部の人に限られていたが、「今日の芸術」とは民主的なものであり、芸術家だけではなくて、誰しもが芸術に取り組むことを提案している。
「いままでの」芸術とは
かつて、芸術は特権階級や専門家たちの独占物だったようです。
一方で庶民は庶民で、「そんなものみたって分からない」という感情がありました。
更に、芸術の判断基準は「うまいかどうか」でした。
以上が、「いままでの芸術」でした。
「今日の芸術」とはなにか
ところが、芸術はだんだんと特権階級のためだけのものではなくなってきました。庶民にもアクセスできるようになりました。
また、庶民が持っていた「芸術なんて俺たちが見たって分からないさ」という感情に対しても、岡本太郎はこんなことを言っていました。
なるほど・・・芸術はわかる、わからないという類のものではなく、率直に見て、自分がそれを「いい」と感じるかどうか。純粋な感動があるかどうか。そういう姿勢で向き合えばいいのかもしれないと思いました。
私は、なんとかその芸術を「わかろう」としていました。
わらかないことがショックなのです。
「ああ、自分には芸術なんて理解できないんだ…。」というように。
しかし、太郎の言葉に励まされて、率直に見ることを大事にしたいなと思いました。つまり、分からないものは分からないでいい、と・・・。
そして、自分がなんとなく魅かれるもの、惹きつけられるものを大事にしたいなと。
最後に、「うまいかどうかが重要」だった芸術も変わり始めていると太郎は言います。
それまでは写実的な、デッサンの技量みたいなものが重要でした。
例えば、美人をまるで写真のように、うまく描く技術。
しかし新しい芸術、例えば抽象画やシュルレアリスムなどには、「うまい」という概念がなくなってきています。
純粋な美しさ、純粋な感動といったものが価値になってきているとのことです。
まとめると、今日の芸術とは下記のような特徴を有しています。
①誰でもアクセスができる
②わかる、わからないは重要ではない。
③うまいかどうかも重要ではない
これはつまり、「芸術は民主化されてきている」のだと私は理解しました。
「きれい」≠「美しい」
太郎がとても興味深いことを言っていました。
「きれい」と「美しい」は違うということです。
つまり、
「きれい」=
「『きれいとはこういうものだ』という既成概念や常識に沿っている」
という形式美である。ということだと思います。
一方で美しさとは、
なるほど・・・!
美しさとは「きれいとはこういうものだ」という既成概念に沿っているかどうかは関係のない、もっと普遍的で本質的な何かなのかもしれません。
だからこそ、縄文時代に作られた土器が、「きれい」ではなくても「美し」かったりするのかもしれません。
芸術は、うまくあってはいけない
同様に、太郎は、芸術はうまくあってはいけないといいます。
うまいかどうか、これもやはり、技術面、職人的技巧性から見た基準です。
ここでなんとなく太郎の言いたいことを私はこう解釈しました。
「きれい」も「うまい」も、なんらかの常識などの基準、
つまり既成概念に照らし合わせることで判定しているにすぎないということです。
「でたらめをやってごらん。」の真意
太郎の有名なパンチラインで「でたらめをやってごらん。」というものがありますよね。
この真意がいままでよくわかりませんでした。
しかしここまで読んできて、だんだんとわかってきました。
「でたらめをやる」ということは、既成概念を破壊するということなんじゃないでしょうか。
でたらめの逆はなんでしょうか?
仮に、「きっちり」だとします。
「きっちり」とは何かの既成概念に沿うことを意味すると思います。
たとえば、絵で考えてみます。
デッサンのように、ある対象を写実的に描こうとすると、遠近法だとか、「こういう絵は、こう描くものだ」という知識、セオリー、あるいはアカデミックな方法論にのっとった絵が、「きっちりした絵」です。
「きっちり」の逆が「でたらめ」だとすれば、「でたらめをやる」というのはそうした知識、セオリー、アカデミックな方法論に沿わないことになるはずです。
その意味で、でたらめをやることは実は難しいのではないか。
自由に描くって、実は難しいのではないでしょうか。
なぜなら必ず、習った描き方をしたり、山を描く時に「山ってこういう形をしている」という知識をもとに描いてしまうからです。
だからこそ、でたらめをやることで、既成概念を破壊して、新しい価値を創りだせるのかもしれません。
鑑賞することは創ることでもある
太郎は、自分で絵を描いたり、彫刻を彫ったりすることだけが芸術なのではないと言います。
鑑賞することも創造行為でもあるというのです。
目からうろこでした。
鑑賞とは受動的な行為だとイメージしていたからです。
それに、作品は既にとうの昔、何百年も前に出来上がっていて、鑑賞行為と創造行為は別のものだと認識していたからです。
鑑賞する時、鑑賞者の心象のなかに、新しいイメージや感動や、時に音楽など、新たななにかを創造します。その意味で、鑑賞そのものが創造行為であると言っているのだと解釈しました。
また、鑑賞者がいない時、絵は単なる絵具の跡にすぎないかもしれません。
鑑賞者がいてはじめて、価値が生まれ、その作品が完成するのかも・・しれません。ちょっと咀嚼できているか怪しいですが、、
あとたぶんなんですけど、サルトルが著書の「文学とは何か」で似たようなことを言っている気が・・・この辺はちゃんと理解できていないので、今後も考えてみたいと思っています。
noteを書くこと、それは私にとっての「今日の芸術」
noteを書くことは、私にとっての「今日の芸術」じゃないかと思いました。もちろん、芸術などという領域のものでは到底ないですが、、、。
失った自分の一部を、書くことによって取り戻し、創造する喜びを味わえると言う意味においてです。
いままで、友人との会話の中にだけ閉じこもっていた自分の考えや、感情。
自分の頭の中でくすぶっていた情熱、アイディア、日々の発見。
例えば、こんなことです。
「井上陽水のこの曲がすごくいいんだよな~、でもこんな話を熱を込めて語ったところで相手の時間を奪うだけだ・・・。」
そんなふうに、行き場のない自分の一部が、失われていたとは言えないでしょうか?
太郎の言う自己疎外です。
私に限った話ではなく、誰しもが社会で生きる中で、「こんなことを考えても、こんなことを言っても、相手にとって価値はない。だから自分の内的世界に留めておくしかない。」という事態に遭遇しているはずです。
それはまるで、自分の内側でのみ咲いて、誰の目にも触れることがないまま枯れていく花のようです。
しかし、noteという外側の世界で花を植えれば、数人であっても通行人の目にふれます。
その花はまったく気にとまらないことがほとんどであるかもしれないけれど、たまに、通行人の目を楽しませることができるかもしれません。
そういう具合に、自分の内側にだけ鬱積し、消えていっていたものを、
noteに書きつけることで、文章という花へと昇華させることができるのではないでしょうか!
かくいう訳で、大げさに言うと、
書くという行為は、そういう私の、、いや書く人すべてにとっての「今日の芸術」たり得ると思います。
なので今後もたくさん書いて、創造する喜びを味わいたいと思います。