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峯澤典子×古屋朋 対談『てばなし』刊行記念 vol.3

手放し、もどってゆくこと。


峯:その詩には、「手をさしだしてもふれられない」とか「ひとさしの先/の/先」という行があって。届いたらいいなって手をさしだしていくんですけど、「さしだしてもふれられない」という……。

掴もうとしていても掴めない部分も、言葉と言葉の間に残されていて。その状態をコントロールしていない。触れられないものは触れられないまま漂っている状態で詩が終わる。そんな作品がいくつかありますよね。

手探ることは、自分の方に手繰り寄せたり、自分の思い通りにするんじゃなくて。触れられないんだってことを確認したままたゆたっていることだという。そんな感覚で書かれた詩がいくつかあると思うんですね。それって触れられないものに対する愛情というか、そのままでいいんだよっていう思いで書かれたのかなと。

古:ありがとうございます。
 今のままでそのままにしておくこと、といった感じに近いと思います。

峯:古屋さんの今回の詩集の「うすむらさき」という詩に、「手をひらくと なげだすと/すべてがちゃんと戻ってくる」っていう言葉があるんですよね。古屋さんの「てばなし」は、「元に戻る」「帰っていく」ということなんだなと。

手放すことによって元に戻っていく、帰っていくっていう動きも、この詩集の底に流れているのかなと感じました。

何かをなげだすということは、何かを諦めて、自分と関係のない場所にまで放り投げてしまうということではなくて。実はそれが自分の手元に戻ってくることを再確認することでもあって。遠く手放すことが、懐かしい場所へと戻すことだという。そんな円を描いているような形の言葉の着地点があるのが、とても印象に残りました。

古:確かに、仰っていただいたように手放すと書いていてもその本質はどこかに立ち帰っているのだと思います。

峯:投げ出したものは、あるべき場所に戻っていく。だから手放すことによって、私自身も、手放されたものたちもあるべき場所にやっと戻れるんだな、と感じるんです。

古屋さんはよく宇宙の詩を書かれていますよね。
 
語り手を超えた何か大きな流れを見せてくれている気がして。それもあるべき場所へ戻っていくという感覚なのかもしれませんが、自分の内側と外側で動き続けている、何か一つの円を描くような、どこかに戻っていく命の営みを、いったん手放すという行為によって露わにしているのかなって思ったんです。そんな大きな流れに沿って、自分自身もふさわしい場所に戻っていくっていう感覚が詩のなかにあるのかなと。

古:そうですね。生きているといろんなことがありますが、今自分に付属しているものとかをひとまず置いて手放したとしても、私は私であることは変わらないと思うんです。
持っていたものを失えば喪失感を味わうじゃないですか。
 
でもその喪失感は実は錯覚で、もともと私たちは完璧なものだから、そこに何か付属してもそれはプラスアルファのもの。だから、プラスアルファのものがなくなっても残るのは元のままの自分だよねという。
だから怖くないよという気持ちがあります。

峯:なるほど。いくら手放しても、どれだけ自分の外に送り返しても恐れることはないんだよ、ってことを詩のなかで辿っているんですね。

古:はい。それに辛い記憶というのも案外手放すのは難しかったりするじゃないですか。
 
辛いものも自分の一部なので、なかなか手放せなくて苦しむと思います。
 
でも一度傍らに置いてみる、ちょっとしんどくても手放してみる。意外とそんな風に苦しみを手放したとしても自分の価値は変わらないんだよっていう気持ちはあります。


vol.4 「水の色。」へつづく


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