なぜ生きるのだろう?に対する答えへの近道
誰しも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?
「なぜ、生きるのか?」
こんな問いを。
この問いに対して、自分が納得できる答えを出せた人はきっと宝くじが当たるより幸運だと個人的には思います。
なぜなら、この手の問いは、容易に答えが出るようなものではなく、むしろ不安におとしいれるだけの問いであるから。
なんのために生まれてきたのか?
わたしとはなにか?
人間とはなにか?
わたしと他人とはどう違うのか?
人はなんのために生きるのか?
この世は生きるに値するのか?
生きるとはどういうことか?
ものごとはどのようにあるのか?
あるとはどういうことなのか?
もののはじまりはどこにあるのか?
はじまるとはどういうことか?
はじまる前はどうなっていたのか?
こんな問いに心をとらえられてしまった人は、いつも心のどこかに不安を抱えて生きるしかなくなる。
だから、分別ある人はこのような問いには近づかない。
答えの出ない問いを問うても仕方がないからと。
生きる知恵ですね。
ただ、この手の問いに心をつかまれてしまった人は、考えなく生きることはできないし、また、答えが容易に出ないからと言って、その人の中において、この問い自体の魅力が下がるわけではない。
むしろ、答えが見つかりそうにないからこそ、見つけたいと考える。
きっと哲学書という意味のわからない書物に立ち向かう人たちは、不安を抱えながらも、その不安から逃げるのではなく、思考の宿命に果敢に挑んでいる人たちなのでしょう。
だから頑張って読む。
そして、読み続ける。
で、考え続ける。
答えという結果ももちろん大事ですが、それよりも、どんなに無理ゲーだと思われることでも、そこに向かおうとする意思の方を大切にすることが、結果、答えへの近道なのかもしれません。
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