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ワイルドな田舎で晴耕雨読📗

テキスト入力するときに
『読んだ本の感想をnoteに書いてみませんか?』と提案されているので
やっとnoteの正しい使い方な気がする。

晴耕雨読な生活をしてみようと思って
本を読み漁ってみた。

3週間の滞在で、できるだけたくさんの作品に出会いたくて、覚えていたくて。
心に残った言葉をメモしていた記録、
と自分が感じたこと。

すんごく長くなると思います。
お付き合いいただけたら幸いです。


タラブックス

善きことはカタツムリのようにゆっくり進む」
本の境界線を考える
ストーリーを木版に起こし、プリントしたテキスタイルを本に。
特別な工芸品のよう

締め切りというのは、ときに原動力になるし、
全員がそこに向かって作業するゴールでもあるので悪いことではない。
でも、あまりにも締め切りにこだわると、中身は二の次で、間に合わせることそのものが目的という事態に陥りがちだ。
締め切りを守るためにいい加減な仕事をした経験は、誰しもあるだろう。
でも、タラブックスはそれはをしない。
納得できるまで時間を置き、再考し、何度でも話し合う。
時間はすべての人に平等に流れているのだけれど、タラブックスの働き方を見ていると、向かう人によって時間というのはずいぶん違った性質のものになるのだと、当たり前のことに思い至る。

なにもかもが手軽に、すぐに手に入る現代は便利だ。当然のようになってしまっている。
すぐに忘れていく。
でも、時間を重ねることでしかわからない愛着や、言葉にしがたい感情や出来事があることを、実は多くの人が知っている。
どれだけすべてが素早く、便利になっても、そこで節約された時間は、果たして豊かなひとときにはまわされない。
そんな現実にため息をつきながら巻き込まれる。
だからこそ、ゆったりとした時間をまとったタラブックスのハンドメイド本や世界に、私たちは心惹かれるのではないだろうか。

ちいさくあることの意味
飽きるのが早い消費者に、日々あの手この手でさまざまな〝新しい〟商品やサービスが提供される。
どれももう、本当に必要なのかさえわからない。
それでも、大量生産と大量消費と大量廃棄は繰り返される。
新しいものに飛びつく一方で、私たちは成長を強いられる資本主義経済にうんざりし始めている。
いつまで大きくなりつづけなければいけないの、と。

彼らはちいさくあることをわざわざ選び取っているのだ。
予定の本が遅れても、出版されなくても誰も死にはしない(がっかりはするが)。
本というのは物理的なかたちとして、あるいは誰かの心に忘れられない記憶として残る。
彼らに特別なことがあるとすれば、それが誰かの手に渡り、もしかして人生を変える一冊になるかもしれないという本の力を、日々、誠実に信じて仕事をしていることだ。
タラブックスの本づくりは、決して魔法ではない。
実にまっとうな、当たり前のことの積み重ねなのだ。
でも私たちは時間に追われるし、繰り返しの日常はいとも簡単に惰性にすくい取られる。
だから、その当たり前は奇跡のように難しい。

しあわせのために本をつくる
「誰もが内面に美しい宝物を持っている。それを引き出し、本のかたちにするのが、私たちの仕事」
自分のやっていることを愛するということ

タラブックス
インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる


私の独り言を書き連ねていたら、
このnoteを読んでくれた友人から連絡が来た!
『言葉遣い好き』『沁みる』って言ってもらえて、とってもとっても嬉しかった。

なんで嬉しいかって、
「ただただ自分を愛でてあげて、
向き合ってあげて、
それで溢れた言葉を書いてみよう。
その言葉で癒される人がいればいいなぁ」
っていう。
あまりにも慈善的な?自己満足な?
なんの経済的価値のない取り組みだったから。

書くことで、自分と会話する
悲しみを癒す。
っていうのが目的だったから。
まさか利己的な行為が、利他的になるなんて(?)

一見無価値に見える、わたしのやってた行動を
評価してくれて、認めてくれて。
「これからも読む」って言ってくれて!
すんごく報われた。

こういう時間が、「豊かなひととき」なんじゃないかと感じた。
意味がある、ように見える
ことばっかりが大事じゃないんだと思う。

「本当に必要かさえわからない」大きなものを必死で追いかけるよりも
「自分がただやりたい」小さいものを掬ってあげることのほうが
私には大切なことだった。

愛のあるモノを人に伝えたい、
という本心に出会った。


ひとりみんぱく

品々をあらためて見返してみたが、本当に役に立たないものばかりだ。
これらの文物を手のひらにのせ愛でてみる。
重みや質感、細工、その歪みや温みを確かめる。
太陽の光の下で影が際立つものもあれば、暗闇の中でこそ光り輝くものもある。
それは自分の手で触れてこそわかることで、自分の足で旅をしてこそ出会える風景と一緒だ。
僕はこれらを手に入れたときに出会った人たちの顔や祈りの景色を思い出すだろう。
そこで吹いていた風や夜空を満たす星空を思い出すだろう。
旅の記憶こそ僕にとっていちばんの財産なのだから。

愛嬌
いく先々で知らない人にも気軽に声をかけてすぐ仲良くなる
それが決して厚かましいわけではなく、どこか品のよさが漂う気持ちのよい男
人間を尊くも卑しくもするのは、仕事の貴賎でも、お金のあるなしでもない。
彼のまわりをパッと照らすような明るさを、僕は今でもときどき思い出す。

夜の木 マファの木
三月中頃、二週間だけ黄色い果実のような花をつける。その花は夜に開き、日の出とともに地に花を落とすという。
それを村人みんなで拾い集める。この花を集めて蒸留酒を作るためだ。
落ちている果実のような鼻をひとつ拾って口の中に放り込んでみる。こってりと甘い味がする。これは大地からのギフト(贈り物)なのだ。

猫可愛がりしている
なにをやっても腹が立たない。
猫を飼っている人というのは不思議なもので、どんな不細工な猫であれ、性格の悪い猫であれ、自分の猫が一番可愛いのである。
さらに猫への愛はほかの猫にまで広がり、この世のすべての猫が可愛く見えてしまうのである。博愛主義と言い換えてもいいだろう。

ぬいぐるみに限ったことではないが、目指していたものとなんか違う…
そういう愛おしさってあると思う。
だってそうだ。
予定調和の旅ほどつまらないものはない。
自分が思い描いていたものとは違ったほうが、上に行こうが下に行こうが、右に行こうが左に行こうが、絶対におもしろい。
その歪みやズレこそが、自分が旅した証なのだから。

なにより「わからない」ことがポイントだったのではないか。
わからないことは恐ろしいことであるけれど、一方で人間の想像力を刺激する。
自分たちの常識とかけ離れた造形に、好奇心を煽られたのではないか。

「物の本」ではなく「旅の本」
物が好きであることは否定しないが、僕は物を求めて旅をしたことはない。
僕なりに世界を旅してわかったことは、人間がみなほぼ同じ肉体と頭脳を持ち、
生と死-すなわち時間から逃れられないという宿命を背負っている以上、気候や地形、時代、それに伴う文化の違いはあっても、その手によって作り出される造形の水底には同じものが流れているということだ。
そして、それは今ここに生きている自分のなかにも確かに流れている。

物理学者のカルロ・ロヴェッリ
「この世界は、物ではなく出来事でできている」
物とは今ここでしか見ることのできない風景なのだ。それは写真とよく似ている。

ひとりみんぱく

友達とワイワイ映えるスポットで写真を撮ったり、美味しいものを共有してきゃっきゃっしてる時間が好き。
でも、それと同じくらい1人でフラーっと、思いつきで放浪してみて、そこで見つけたその土地ならではの文化や人の生活に触れるのが好き。

前者が、「人と楽しいを共有」して喜びを感じる時間だとしたら
後者は、「冒険」を通して「人を想像」して癒されている時間

私にとっては
どっちがじゃなくて、どっちも大事。


旅を通して出会ったモノたちには
どっちの思い出も内包されてる。

友達と偶然カフェで見つけて「可愛いね」って共感し合った思い出も
美術館で1人、作者の気持ちを想像しながら感傷に浸って、共鳴し合った思い出も。

煌めいた瞬間が宿っている、お気に入りのモノたちを机に並べて
当時の思い出に浸ってみると
(感受性が強すぎな私は)またその時の感覚のおもかげを感じる。

全部全部、そのモノたちに出会ったときの物語が残っていて、その場所の香りを感じたり、あったかい人の笑顔が浮かんだりする。

こういうぼーっとした時間をとれると、
「充実って無理に追い求めるものなのかな?」と疑問が浮かんでしまう。

こんなに「ひとつのもの」
(人によってはガラクタと評価するようなもの)
から、充実感を得られるのになぁ〜❕

ギフトってすぐ側に落ちてたりする、みたい。


自由からの逃走

もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。
もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。
もしいまを尊ばないならば-いつというときがあろうか

自由からの逃走

『自由』が、きっと私の人生のテーマ!
幼少期から、なんとなく閉塞感を覚えていて。
ありのままで居れない、やりたいことをできない不自由さを感じていた。

そこから脱出するために
一生懸命、自由に向かって猛ダッシュしていたはずなのに
進んでいた先が、より「不自由」を加速させる場所であったような…?

自分と向き合うことから逃げてたら
自分が求める自由もわかるはずないよね、
ってことを学んだ23歳でした。


そもそも交換日記

自由と言葉は孤独?
自分で選んで決められる自由の中にある
でも、人を縛り不自由にするのもまた言葉。
だとすると、自由と不自由の間にあるものが
「言葉」なのかもしれない。
言葉にした途端に、自分対しても他者に対しても、思い込みや縛りによる不自由さが生まれるから、なるべく素直に正直に言葉を出したほうがいい

「自分ひとりの言葉」
ある種の優しさがどうしても必要
そのまま差し出して誰かを傷つけていいわけではもちろんない。
自分の領域から差し出すときに、きちんと加工してできるだけ善いものにしたい。
善いものに、善いものは返ってくると信じているから。


鬱病
自分が自分にストライキを起こしていると感じた
自分から目をそらして、他者の目線ばかり気にしていることに、ものすごく怒っているのだと。

正直な人とは、自分の感情、欲望、知と無知を過不足なく捉え自覚していて、他人にどう思われるかで自分の考えや振る舞いが変わらない人

考えすぎ
→難しく考えているんじゃなくて、簡単にするために考えているんだ
→シンプルなものにたどり着くために、絡んだものを解いて捨てないといけないのにな


「唯ぼんやりした不安
日々不安でしかたなく、でもその理由がわからないのが、不安
「わからない」のがこわい

「唯いつもそこにある不安」と共存
なくならないけど、あることを諦めて
「いつもあるもの」だとしている

「デフォルトで不安」の不安対応に慣れっこの
わたしたちは、ちょっとだけ強いのではないか


小児科医の熊谷晋一郎さん
自立は、依存先を増やすこと
依存先を増やして、ひとつひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できる

「自分のため」に、自分をよろこばせることができないと、「誰かのため」は「誰かのせい」になりかねない

自信
ただ自分の感覚に耳を澄ませ、ただ信じること。
自信のなさは、自分を知ることでカバーできる。

わかり合うことを喜ぶことが恋ならば、
わからなさごと慈しむのが愛ではないか。


ニーバーの祈り
神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものを変えていく勇気を
そして、二つのものを見分ける賢さを

他人に対して許せないことは、自分にも許せない。
他人に求めることを、自分にも求める。
他人への対応は、自分への対応に出る。


怒りは、大事なものが傷付けられたときに起こる感情
怒るのは、大事なものがある証拠。
自分を傷付けられたときに怒らないのは自分を大事にしていないということ

ないものねだり、あるものよろこび
ないものを数えるのではなく、あるものを数えてみる

嫉妬は「自分だったかもしれないこと」に対して起こる
まったく手に入らないものや自分から遠いものに対しては起こらず、自分がほしいものやそれに近いものを手にした人に対して起こる。
だとしたら、わたしに嫉妬心がないのは、感情が穏やかだからでも満たされているからでもなく、自分のほしいものがわかっていないからなのだと納得する。
自分には手に入らないとはじめから諦めて、遠くに置いているから、嫉妬しないのかな


「好かれたい」「認められたい」「褒められたい」…そういう目的がない言葉
いい匂いがする言葉」が好き
それがそのままであるゆえに発せられる自然な匂いのこと
書くのは泣くのと似ている

感情にフタはしないほうがいい。
でも、そこで感情にフタをしなければならない理由もあったのだ
過去のことを振り返ると、感情にフタをして出さないようにするのは、何か他に大事にしなければいけないものがあって、そちらを優先するときだった。

「自分の感覚の喜び」こそが、「文化」を生み出す
そういうものを周りに置いておく
自分が培ってきた「文化」が、いつか自分を癒すことになる。

そもそも交換日記

言葉にすることで通じるものもあれば
言葉にしちゃうことで誤って捉えられちゃうこともある。
「言葉」も一つの伝える手段なんだから
当たり前っちゃあたりまえだけど…なんと難しい。
あくまで、わかった気にならない。
言葉に集約して、想像をやめちゃわないのが大事なのかと、思いました。

自覚、不安、自立、自信、感情
ぜんぶわかった気にならないで欲しい〜!
(誰宛)


そして
「でも、そこで感情にフタをしなければならない理由もあったのだ」というフレーズに救われた。
自己否定してたって、いつまで経っても進まない。
受け止めてあげて
許してあげて
少しずつ、自分のことを認めてあげて
それでやっとちょっとずつ前に進める気がした。

ものすごく有難い対話集です。


生きるって、なに?

生きるって「自分をまるごと愛する」こと
「自分を大事にする」「幸せになる」
自分をいじめない
人と比べて 自分をダメな人間だと思わず
毎日 自分を抱きしめる

好きなことをして 楽しむ
自分自身の身体と命をプレゼントしてくれてた
生き物や野菜
生き物や野菜を育てた
太陽 水 空気 土や海の栄養分、、
自然のすべてに「ありがとう!」の気持ちで
おいしく食べること

生態系の中で〝自分が一番偉い〟のではなく
〝人間も自然の一部〟であることに気づくこと
(自然の力を借りずには生きていけない存在である人間も、自然の一部にすぎない)
私たちはみんなすべてのものとつながっている
私たちの先祖みんなに感謝すること
宇宙目線で見れば すべてのモノは
粒子が濃いか薄いかだけで
私たちは みんなで宇宙全体で
すべてはひとつだと気づくこと
粒子レベルで見ると
「私はあなたで あなたは私」であり
「私もなければ あなたもない」ということ

愛するものを増やしてあらゆる愛を深めていく」こと
自分への愛、家族愛、友だち愛、パートナー愛、師弟愛、故郷愛、自然愛、動物愛、地球愛…
愛が増えれば増えるほど、愛が深まれば深まるほど、人生は豊かになる。
いろんな人と いろんな場所で
いろんな時間をシェアして 思い出を作り合う

豊かな気持ちを味わう
それは人に迷惑をかけることも
迷惑をかけられることも恐れないということ
「おまえも人に迷惑をかけて生きているのだから、人の迷惑も許してあげなさい」

どんな人も生きるうえで必要な全てを自分だけでは用意できないから
みんなで力を合わせていて
自分もその一員であることを理解する

私たちは恩恵を毎日ギフトとして受け取っている
「生きている」ということは
人と「つながっている」ということ
世界と「つながっている」ということ
すべての人類の歩みと「つながっている」ということ
すべての自然と「つながっている」ということ
すべての源である宇宙と「つながっている」ということ
ゆるされていて祝福されているということ
生きるとはすべてが愛で
愛がすべてだと知ること

生きるとは変わっていくこと
寿命がやってくる日まで
あなたがあなたらしく ありのままでいること
今この瞬間 瞬間を感じること
「今」を楽しむこと!

生きるって、なに?

この本
軽い冊子で、絵本みたいな見た目なのに…
書いてある内容が深すぎる。
人もそうだけど、本も見た目によらないね(?)


粒子レベルでみると
「私はあなたで あなたは私」
「私もなければ あなたもない」
量子力学的な話だから、ちょっと🤷🏻‍♀️って
なっちゃう方も多いのかなぁ
(私も全然わかんない)

なんとなく分かるのは
「私がわたしであること」はものすごく偶然で
「貴方があなたであること」も
ものすごい奇跡だってこと。

「そうである」と同じくらい
「そうでない」可能性があって、
だからこそ、今こうして「私がわたしであること」がものすごく尊いんだなって。

いろんな可能性を乗り越えて
「今」が創られていることを想像してみたら
『ありがとう!』って気持ちが溢れてくる。
当たり前に思ってしまっている、
感謝を忘れてしまっていることを
見つけ出して、ひとつづつお礼をしていたら
ものすごく自分が満たされていることに気づく。

「ありがとう」の気持ちでいっぱいになっている状態が、人が幸せであれる瞬間なんじゃないか、と思う。


私の生活改善運動

日常のなかでとても些細に見える、気にかかっていることを変えることで、大きな変化、満足感につながったりする。
流れを堰き止めていた小さな石をひとつ外すだけで、勢いよく水が流れ、やがて水路全体が澄んで、田に水が満ちるように。
生活の中の小石を外す。

食べることは生きること
深い山のよう
「料理をすると自分が地に根ざしていく感じがする」

私の場合は、自分でつくることが解放の道だった。それは自分でつくるなんて考えられないほど、時間の奴隷だったから。
手をかけてつくる料理をつくる時間は、私にとって自由の象徴だった。
生きているという実感があった。
自分の手でつくったものを口に運んだときのほっとした感覚。自分でしか癒せない部分があるかのように。そういうときは幸せだ。

食は時間を食うと思っていたが、その考え方こそが、私から時間を奪っていた。
食は、与えることなのだ。
自分に、生きた時間を。

何かを食べるとき、私たちは食べものではないものも食べている。
食卓にある空気、目で見る色彩、匂い、笑い合うこと。
そういうものと一緒にむしゃむしゃと食べている。だから、好きなひとと一緒に食べるとおいしい。

私の生活改善運動

「時間の奴隷」
「食は時間を食うと思っていたが、その考え方こそが、私から時間を奪っていた。」
なんだか、ものすごく胸に突き刺さってくる。
そして、申し訳ない気持ちがこぼれる。
この申し訳なさは
食べものになのか、自分になのか。

これからは、もっともっと美味しい時間を、
大事にしてあげたいな。


暇と退屈の倫理学

我々は妥協を重ねながら生きている。

妥協に抗う
楽ではない、けれども大きな慰め
「まぁ、いいか」を遠ざける

「好きなこと」とは
願いつつもかなわなかったことではない
それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。
願いをかなえる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから
暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。
何が楽しいのか分からない。

「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」という問い

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。
私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。
生きることはバラで飾られねばならない。

問題
追求される「個性」がいったい何なのかがだれにも分からないということ
したがって「個性」は完成しない
つまり、消費によって「個性」を追いもとめるとき、人が満足に到達することがない。
その意味で消費は常に「失敗」するように仕向けられている。
失敗するというより、成功しない。
到達点がない

人間と自由についてのハイデッガーの考え
1.人間は退屈し、人間だけが退屈する。
それは自由でいるのが人間だからだ。
2.人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる

消費行動においては人は物を受け取らない。
だから消費が延々と続く。
ならば、物を受け取れるようになるしかない。
物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。

いくつかの課題
〈物を受け取ること〉
その物を楽しむこと
衣食住、芸術や芸能や娯楽

楽しむことは容易ではない
ラッセル「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」
より深い享受の可能性がある

人間である
退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合ったものを生きること
人間であることを楽しむこと

楽しむことは思考することにつながる。
どちらも受け取ることであるから。
人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。
人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていく。

暇と退屈の倫理学

人って
「15個以上のことを同時に考えたら病む」し、
「暇になっても病む」らしい。
(どっかで聞いた話だから、確証はないです。)
ようは、
忙しすぎても暇すぎても病むってこと?
考えすぎて、脳がキャパシティーを超えちゃったら、病むってことか。
何事もバランスが大事なんですね。

「暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。」っていうのが興味深かった。
私はわりかし小さい時から
《あーあれやりたい、これもやりたい
 それより先にあれやらなきゃ、これやらなきゃ
 あれもしときたいなぁ、あーできない
 んんんん時間ない〜》
が、デフォルトになっていて。

あんまり暇って感覚がわかんない。
たぶん知的好奇心が強すぎて、一生暇にならない性分。
何もない田舎に居たって
「あーあの雲かわいい」「あの植物なんだろう」
ってなってるし。
喧騒に駆られた都会に居たって
「あのカフェかわいい」「あの人なに考えてるんだろう」って人間観察してる。
たぶん、白い箱に閉じ込めても、その壁の素材感とか、床の冷たさとか(?)
何かしら気になるものを探しては、興味津々にそれを見つめてるんだと思う…
(生まれたての子どもなのか、?😅)

我ながら変なやつだなぁ、とは思っていたけど
どこでもなんでも「楽しめる」っていうのは
一種の才能なのかもしれないと思った。

楽しむことは、才能と努力の合成物だと思う。
受け取る技術
思考する技術
愛する技術
が必要なのかな。


いのちの居場所

人間は「弱い」からこそ生き残るために集い、
共同体をつくる必要が生まれてきた

いのちといのち
お互い離れることで適切な距離を理解し合う
得ることよりも捨てること、
つかむことよりも離すこと、
取り入れることよりも放出すること

人と人
「生きることにおいて何が大切なのだろうか」
「生きている」だけで存在している理由がある
全員に存在理由がある
むしろ、そう思えない社会の方が病んでいる
一面的な価値だけを押し付けるのではなく、
役割や居場所をともに見つけるような社会へ
「弱さ」と「いのち」を大切に

岩崎航
「貧しい発想」
管をつけてまで
寝たきりになってまで
そこまでして生きていても
しかたないだろ?
という貧しい発想を押し付けるのは
やめてくれないか
管をつけると
寝たきりになると
生きているのがすまないような
世の中こそが
重い病にわずらっている

さようなら
ありのままを受け入れ、未来へつなげる
「そうならなければならないなら」
受け止めた過去を未来へとつなげていく言葉
他者への別れの言葉であると同時に、自分自身への別れの言葉

心と体
「あたま」と「からだ」「こころ」との関係性
「あたま」は外部の情報に汚染されている場合も多く、ほどよい距離感を持つように注意する
「あたま」から意識的に離れるくらいがちょうどいい、異物

「あたま」と「こころ」の声を明確に区別しながら、「こころ」の声に合わせるほうが生きやすくなる

生と死
生命の視点から見ると「眠り」こそが人生のメイン活動

「いのち」のエネルギーは生と死という二つの力が働くことによって生まれる力なのではないだろうか
「いのち」ある人は、誰もが生と死という相矛盾する力が内包されている。
そうした異なる性質の力が互いに引き合っていることが、「いのち」の本質的な営みではないだろうか
死者への敬意や礼節があってこそ、生きている者たちは「いのち」の裂け目をつなぐことができるのではないか

生と死 心と体 人と人 をつなぐ
東洋と西洋 二つの高峰
区別する、切断する
融合する、つながる
→一人ひとりの個人の中では何らかの形で両者は同居している
文化を深く理解する

人間は〝自分〟こそが盲点や死角になりやすい
自分を支える哲学をしっかりと持っている人は、そこにある種の調和が感じられる
大切にすること、肯定すること

あたらしいせかいを生きる
対話
理解することと、同意すること
「弱さの共有」こそが助け合いの基盤

人が動くきっかけには、深い無意識レベルでの「感じる力」が大きく寄与している

しっかりと「いのち」を受け取りながら生きていくこと。対等に課せられた役割。

いのちの居場所 

先日、恩師と再会することができて。
嬉しくてうれしくて
私の思ってることをひたすらに発表会してた(笑)
その時に「弱さって、強さにもなると思うんですよねって話をしてた。」

「〝かわいい〟って守りたくなっちゃうじゃないですか。
それは男女問わず、かわいいって思う時って。
かよわい、どじっこ、天然、愛おしい、、、
自分が守ってあげたくなる感情だと思ってて。
すごく純粋な利他行動だと思うんです。


だから、例えば来世で木になるとしたら❔
私は、か細くもしっかり根を張った木になって
長生きしたいです。
図太くて強そうな木の方が、一見たくましそうに見えるけど。
その分、維持するための栄養分が多く必要だったり、それを支える根の発達が足りなかったりして、いざ災害が起きた時にポキッと折れちゃいそうじゃないですか。
でも、たくましそうに見える、って理由で折れるまで助けてもらえない気がするんです。
この木はまだいける、って人間に放置されちゃうんじゃないかと。
対照的に、か細くてひょろってしてる木なら、必要な栄養分だけ光合成したり、栄養を貯めていって。ものすごく頑丈な根を張れる気がするんです。
強風が来たって、しなやかにその風にのって、耐えられる気がする。
それに、見た目はか細くて弱そうだから、人間が必要な手当をしてくれるかもしれない。
一見弱そうに見える、しなやかな強さってあるじないですか。
そういうの憧れてて。
だから来世は、しなやかな木になります🌳」
って意味わからん宣言してた…

言葉に起こしてみるとさらに変な人すぎる😂
それを「うん、なるほどねぇ」って聞いてくださる、先生もやっぱり変な人で。
変な人は、変な人を呼び寄せるよなぁ、笑

たぶん今客観的に自分の発言を分析するなら
弱いなら弱いなりに
強がってないで、ちゃんと弱さをみして
必要な手当はちゃんとしてもらおうよ、って
伝えたかったんだと思う。
頑張って自分を強く見して、「君は大丈夫」って過信されるのって、ただただプレッシャーでしかないし。
自分の首を絞めることになると思う。

てゆうか、そうだった気がする。自分が。
「頼る」「助けを求める」ことの大切さを痛感したというところでしょうか。


まとめ?


まぁまぁ、しっかり病んでて。
「幸せ」についていろんな角度から勉強してみたんだけど。

今のところ
ふとドラマで言ってたセリフが、1番腑に落ちた。
(ここまで色んな本の話をしてきたのに、最後はドラマなんです笑)

🌷

まだ若いうちは、大事なものが遠くにあると思う
もうちょっと年齢いくと、大事なものは近くにあるって気づく
そして、もっと年を重ねると、大事なものは自分の中にあるって気づく

幸せ
わたしはわたしのままでいい
そう思えることじゃない?

テレビドラマ「9ボーダー」


ついつい文章が長くなっちゃうのは、
わたしの良くない癖。
ごめんなさい。
でも、そんな自分がすきだったりもする。
ありがとうございました!

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