大谷の結婚で吹き飛ぶ、戦後日本最大の危機
大谷の結婚で、日本が戦後最大の危機を迎えていることが忘れられそうだ。少なくとも1週間は。そうでなくてもオープン戦の開幕で、これからニュースの半分は大谷関連になるのだろうと、げんなりしていたところなのに。
政府は経済安保の強化を「セキュリティクリアランスという、わかりにくくてシャレた言葉を使えば、自分たちとは関係ない世界の話だと思って関心を持たないだろう」と考えているのではないかと、私はあくまで疑っている。適性確認とか評価とでも言えば、引っ掛かる人もいるだろに。
何しろ、もうずっと政府によって言葉を支配されている状況である。上から共通語を決められてしまうとは、こういうことなのかと痛感している。
実、は私は大江健三郎の初期の短編を読んでいなくて、最近『死者の奢り 飼育』(新潮文庫)を娘から借りて読んでいる。昭和30年代に書かれたもので、敗戦国の若者が全身で、その現実を受け止めていたことがわかる内容だ。
中でも興味深いのは、英語という支配言語を前に、言葉を失う日本人の姿が繰り返し描かれていることである。特に『人間の羊』『不意の啞』(原題のまま)という、同じ年に書かれた短編は強烈。どんな屈辱を受けても押し黙るしかない日本人の姿が、読むに耐えないほど率直に描かれているのだ。
象徴的なのは『不意の啞の』中で唯一、饒舌に喋り続ける日本人通訳の描写である。その男は村人同様に背が低く足も短く、黄色い肌をしているのにあっち側に立ち、占領軍の権威を借りて威張り散らす。
それに対して村人は何も言えない。ただただ押し黙っている。そして最後、村人たちは一言も発しないまま、肉体という、自分たちが自由に扱える手段を使って反撃に出る。
能面の中に渋い顔をしたものがある。あれは地方の人々の「漢語を使いこなす中央の役人からお触れを聞かされ、言葉がわからないために何も言えない」苦渋と葛藤の表情が出発点だそうだ。
でも最後は何も言えないまま、うなずくしかない。自分たちの言葉が公には認められないため、一方的に決まり事を聞くしかないのである。それが能面となって今日まで残っているというのが、何とも言えない。
安倍政権以降、日本における言語状況はこういうものだと私は考えている。言葉が、実感や肉体から分離していくばかりなのだ。国民は釈然としないまま、政府が勝手に作り上げた摺り替え言語を聞かされている。
ところで月曜日、『映像の世紀 CIA』を観て初めて知ったことがあった。アジェンデ政権を軍事クーデターで倒したあと、ピノチェト政権は世界で初めて、新自由主義的経済政策を導入したということだ。
そのため外資が積極的に投資し、経済的には潤ったというか、軍や富裕層は豊かさを謳歌したそうである。つまり、新自由主義経済は独裁と相性がいいということだ。
なるほど、90年代にグローバル経済が喧伝されて以来、日本で起きていることはそういうことか。市場原理至上主義は、独裁政権に富をもたらすわけだ。
経済安保の拡大強化も大企業は歓迎しているし、農業基本法の『改正』は国内の農業を瀕死状態に追い込む。どこも似たような状況らしく、ヨーロッパにおける農業従事者のデモは猛烈な勢いで、EUが緊急会議を開くほどだ。
ベルギーではフランダースからブリュッセルまで、トラクターが連なって道を占拠している。チェコから参加したという人が、BBCのインタビューにこう答えていました。
「規則が多くて何もできない」「官僚主義のおかげで書く書類が多く、農作業の時間が削られる」。こういう怒りがEUのエリート届かないことに、怒り心頭という感じでした。使っている言語が違うのである。
同じ英語を使っていても、構造が違うというか語彙が違うというか。彼らはそんな論理的な話し方はできまない。そこでトラクターや豚の排泄物で抗議する。大江健三郎が『不意の啞』で描いたテーマは、普遍的だったということだろう。
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