スポーツ紙だからこそ明らかにできた、東京五輪開閉会式統括・日置貴之の傲慢さ
東京五輪をめぐる迷走と辞任ドミノのトドメとなった小山田圭吾の辞任騒動と、それに付随した絵本作家の辞任。どうしたら、こんな人間ばかり集められるのかと思ったら、そもそも統括責任者がひどい人間だった。
「United by Emotion(感動でつなぐ力)」というコンセプトが和製英語で、世界に発信などできないことは既に書いたが。それを考えたのが統括責任者の日置貴之である。
このコンセプトが発表された直後に、日刊スポーツが行ったインタビュー記事が話題になっている。私も読んだが驚くべき内容だ。小馬鹿にしたような上から目線で、復興五輪については「たまたま触れなかっただけ」、コンセプトが英語ばかりであることに対しては、「日本は意識していない」そうだ。その暴慢さが批判されている。
要は世界市民と根無草とを勘違いている、ただの軽い英語かぶれだった。それにしても興味深いのは、これがスポーツ紙のインタビューだったということである。それが、この人間の軽薄さと傲慢さを浮き彫りにすることになったのだ。
これがもし、朝日新聞のインタビューだったらどうだったろうか。朝日の記者だったらダイバーシティーで通じるし、「国籍なんか関係ない時代」という点でも共鳴しあえただろう。
それ以前に、日置はもっと気を遣って話したかもしれないし、記事ももっときれいにまとめたのではないか。その結果、この人間の問題性は薄まった可能性がある。
この記事を書いた日刊スポーツの記者は、あえて雑なまま記事にしたか、戸惑いがそのまま記事に出てしまったのか、あるいはうまくまとめられなかったのかもしれないが。
とにかく、そのお陰で問題がはっきりと浮き出たのである。これは大金星というべきだ。なまじカタカナ英語に強い、むしろ率先して使うエリート「的」記者には伝えられないものがある。権威に弱く、知的優位性を気にするからだ。
これを機に、無意味なカタカナ英語の濫用や、横文字表記が見直されることを望みたい。カタカナ英語の濫用や横文字表記は、別に知性の証明でも何でもない。単に、日本語で言って訴えかけるだけの力量がないだけだ。