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遺影を撮ってみて、写真の破壊力に私の何かのタガが外れた件

私は46才で、義務教育の子供が三人います。

私は自己表現として、っずっと文章を書いてきていました。

家の中で発言することは許されず、ずっと寡黙。私はずっと頭の中の誰かと、本の中の誰かと話していました。

いまや早口すぎて圧が強いと言われることが多いが本当に話すことができないでいて。

本当に練習しました。
もう失敗するなら早い方がいいから。
どんな話題にどんな回答をするのが正解なのか、どう返すのが正解か。
どんな音量やテンションで話すのが仲間ということになるのだろうか。
本当に分からなくて、、、
本当に何度も何度もトライした。
今のように携帯もラインもない時代で本当に助かったなと思う。
誰もが目の前の人とコミニュケーションするしかない時代だったからこそ可能だったことだと思う。

今なら一瞬でLINEでEND

でもいまだに油断すると大声になってしまうし、説教みたいに一人で演説みたくしゃべっているときがあって、本当に気をつけたい。
三つ子の魂100までって本当かもしれないと思うトキがある。

当時から、
文章を書くことが、今の自分にピッタリな表現を見つけることが、
私の輪郭を強くし、
存在感を増している気になっていた。

わたしがわたしであるという。
内側の弱さやあいまいさ、みたいなものが全て守られたような気がしてた。

そして自分の気持ちを「自分で」表に出せたということが、
また私を強くしていた。

知識を蓄え、私が私であると踏みとどまれ、わたしに、自分の人生をコントロールできる力があるという当たり前のことを思い出させてくれるのは、文章を書くということだった。

紙と鉛筆があればできる。
誰にも見られなくてもいい。
どこでもできる。
唯一干渉されないことだった。

うっかりすると全てを麻痺させないと過ごせない日々で色を失いそうになるものを、
感じるという根本を失わないで済んだ。
心で、体で、麻痺して感じなくても、書けばそれは消化された。
心にずっと、その痛みや汚れを留めておかなくてもよかった。

書くことで人は前に進めることがある

書くことで目の前に光がさすことがある

そう思って生きてきていた。


なのに、、、なのに、、、、今回は違った。

「がん」

がんと告知されてから、
書いても書いても私の心は晴れず、
書いても書いても本当に心で感じているものとズレがあるように感じていて、くそっ!!!なんなんだこれは!!!!っと、ずっと思っていた。


瓶の蓋が全然開かない感じ。空かなすぎて、もう床に叩きつけたい感じ。

富士山に登ったら晴れるのだろうか
(主治医に止められた)
山のように新刊を読んでみたらいいのだろうか
(文喫でしこたま買ったけど、別にだった)
プールに行ってみたらいいのだろうか
(主治医に止められた)
バンジージャンプしてみたらいいのだろうか(夫に本気で止められた)
だれかに話を聞いてもらったらいいのだろうか(誰?占い??)

あーーーーーーーーっ!!
くそっ!!!!ってずっと思ってた。


抗がん剤が私の何かを本当に破壊したし
人生初めての手術が、、、
本当にショックで、、、、


幾ら夫に抱きしめてもらっても
子供達にはぐしてもらっても

私の何かが取り戻せない感じ

いや、そうね、それは取り戻さなくてもいいんだけど、
もやというか、、、

ああ、くすんでいる そう、くすんでいる感じがずっとあった


私の人生がぼやけてしまった感じ
ああ、そう、ぼやけてしまった。


今の私は抗がん剤のせいで視力が一時的に落ちていて
よく見えないし、
髪の毛も眉毛もまつ毛もなくなって、
おっぱいもなくなって、
見た目で女か男かもわからなくなって、
自分が何者なのか、
自分と世界の境界線が本当になくなってしまった気がして

気を抜くと世界に溶けていなくなってしまったような気分にもなってしまっていて

昔の無力な自分に戻ってしまったような気がして、、本当に気が滅入っていた

何をしても気が晴れない
何をしても私の色がどこにもない

家族や友達はそんなことないって言ってくれるんだけど
私はもう本当にあーーーーーっってなってた笑

そしてこれだけブログを書いているのに、
体感として境界線が浮かび上がってこないのはなんだろうとずっとずっと思っいながら数ヶ月を過ごしていた。


ふと、友達が、遺影を定期的に撮っているのを思い出した。

命には限りがあること、なら、いま何をするか、何を残していきたいと思って生きていくか、夫婦で伝えあえるきっかけになるから、また決意することができるから、言っていたのを思いだした。

ああ、そうだ遺影を撮ってみよう。

それが何になるかなんてわからないけど、
無意味で終わるかもしれないけど、
撮ってみようと思ったのです。

今日撮ってきました。


メイクのわかなちゃんと、安室さんをはじめとする芸能人をずっと撮られていて、今も雑誌の表紙や特集を撮られている彦坂栄治さん    個人はこちらから受け付けています。


まだ写真きてないから見せられないけど

瓶の蓋、キレイにさっぱりあきました。

なにか、ずっと小さい時に置いてきちゃたのを突然思い出せた感じ

「美しく撮ってもらって自己肯定感上がって満足」というだけの感じではなくて

私の何か、奥の、気づいていないというか、わすれちゃってて、ああっ私ってこれじゃんっていうものを「体感」した感じ


もうわたし大丈夫な気がする

そう思えました。

現在地の確認を美しくできたこと

それがこんなにも力になるなんて想像もしてなかった

ぜんぜんそれっぽい仕上がりじゃなかったんです。
ママっぽい
元気っぽい
46才っぽい
いい人っぽい
できるっぽい

じゃなくて、「あみ」だったんです。

写真の破壊力


バーーーーーーーーーーーーン!!!って感じ

タガが外れた気分

長年自分で自分が勝手に付けたタガがようやく外れた感じ。

特に自己認識と他者認識が違いすぎる私にはピッタリだった。

ああ、人からはこう見えているんだという

自分の頭の中で広がってしまった怪物がいなくなって、不安が無くなった感じ

頭で、言葉で言い聞かせていた大丈夫が
一瞬で大丈夫になったんです。

こないだ義母に、
「こんなこと言ったらあれだけど、あみさんががんなのに悲壮感ないのは元々の性格が明るいからなのかもしれないわね。いつも笑顔だから少しだけ安心できるわ」って言われたんですよ。

白目になりそうになった。。

元々の性格が明るい??。。。。。あみの自己認知はおもいっきり根暗で執念深い、、、12年間この義母は気づいとらんのか?それともわざとなんか??悲壮感ぜったい出てるよね??(疑り深いも加えたいw)


主治医にに痩せていると言われ、
HSPだったし、
義母の前で頑張っている感じでもないのだけど
パート先でも明るくて助かるって言われていて、、、こないだのご在所では、家族の仲がよくていいですね。こういう家族欲しいです。と爪が長い可愛い女子に唐突に言われて、

自分のことを、どうしようもない怪物だと思っていたのは自分だけで、わたしはこれっぽっちも自分を責めなくて良かったんだと、仕上がった写真をみて、やっと、ようやく気づけたんです。

写真ってすごい。

私はちょっと、自己認識と外の世界を合わせていくということをしていこうかなと思います。


そしていつも内側が正解ってことでもないんだなと。

ほんとの気持ちが大事みたいに言うじゃないですか

いや、それほんとかどうかなんてわかんないし、人の言葉を素直に受け取ってみたり
たまには写真で確認してみたりするといいかもなと思ったのでした。

そこにいた私は美しかったから。

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あーーーーーーっ!!てなってました




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