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『あんのこと』を観て、自分の環境を振り返った話

少し前に話題になっていた『あんのこと』がアマプラにあったので見てみました。

コロナ禍の中孤立してしまて、自殺した女性の話を、映画化したもの。

「どこにでもいる」というには、あまりにも過酷な生い立ちを持った女性……と私が書いてしまえるのは、きっと私自身が恵まれた環境にいるからだ。

大人になり、中年という年齢になって、いかに周りの家族や友人に恵まれていたかを痛感する。そうじゃなかったら、たぶん私は5,6回ほど死んでいたとは思う。

どうすれば、あんは助けられたのか?

それはただ同じ町に住んでいる、隣に住んでいるだけではダメで。

「助けて」と言われたら、手を差し伸べると思う。でもその「助けて」が言えない人だったら、どうやって助ければいいんだろう?

そんな人たちを、強引ともいえる手法で助けていた多々羅も、聖人君子じゃなかった。かといって「悪人」ではけっしてなかった。

多々羅のこと

たしかに、多々羅の距離感は最初からなんだかおかしかった。でもあれぐらい踏み込んだからあんも心を開いたんだと思う。大人の男性とのコミュニケーションがおそらく性的な関係しか知らなかっただろうあんちゃんにとっては、あれだけ近くても不快ではなかったのかもしれない。

あのまま行ったら、多々羅はあんちゃんにも手を出したのだろうか? そうじゃないと思いたい。思いたいけど……多々羅~……まじかよ多々羅~。なんでそんな事したんだよ~。

多々羅が桐野へ言った「俺がいなくなったら、コミュニティを拠り所にしていた人はどうなる?」というのは、保身のための脅しではなく、ほんとうに「どうしたらいいんだ?」という友人への問いかけに、私には聞こえた。

桐野が「俺が面倒みる!」って言ってくれれば最高に良いんだけど、そんなのは現実的ではない。それは桐野が薄情だからではなく、責任感のある大人だから。そういう気持ちがあったとしても、そんな安請け合いを安易に口にできない。

そして多々羅も、それを解っている。

そんな重いモノを背負って、上手くやっていたのに……多々羅……本当に、なんでそんな事を……。

ともだちがいるということ

そして、わたしは「どうしたらあんが助かったのか」をずっと考えている。

私自身が手を差し伸べて助ける……というのは理想だけど、現実的ではない。

もしも自分だったら……と考えるが、生まれ育った環境も、今現在の状況も全く違うということを、残酷なまでに痛感する。

その上で、「そうはならなかったんだ」ということが前提の上で……あえて言うならきっと。

「ともだち」が必要だったんだと思う。

私には、中学からの友達・高校からの友達・社会人となってからの友達が複数いる。だから乗り越えられてきたことが多々あった。

でも「あん」には「ともだち」がいたんだろうか。連絡手段としてのスマホは持っていても、SNSをしているようには見えなかった。

趣味はあったんだろうか。日記を書いていたけれど、それがもしネット上の日記だったら……。きっとあんに共感する人や、応援するひとと繋がれたはず。

でも「そうはならなかった」

友人に恵まれた私も、コロナで友達と直接会えなかった日々は少し応えた。ましてあんが感じた絶望は私の比ではないだろう。

ただ、あんは生きていた。あんの人生の中で、必死に「善くあろう」として生きて、その中で得た「つながり」を大事にしていた。

だから、私も、せめて私とつながってくれた人は大事にしたい。


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樽瀬川
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