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「1歳の君とバナナへ」(岡田悠)
※本記事の前半は、本書の内容にあまり触れず、わたしが全体的に感じた感想を述べているので、まだ本書を読まれていない方もあまりネタバレ(ネタバレというのか?)を踏まずに読めるかと思います。
後半は、たびたび本文の引用を交えながら感想を書いているので、あまり内容を知りたくないよという方は前半までを読まれることをおすすめします。(後半が始まる前に改めて注意喚起を書いているので安心して読み進めてください)
◇
はじめに(感想の総括)
Q.子どもができると、人生の主役は交代するのか?
”Ex.”君が生まれて、人生の主役は交代するのかもしれない。だからといって、人生そのものは交代しない。
(文章は本文より)
子育てにおいては、というより、たいてい人生に関するクエスチョンにはこういう問いと答えになることが多いのかもしれない。
みんなが訊きたくなる共通の問いはある。
「Q.子育てで一番大変だったことは?」
「Q.育休を取るときに会社とどんな調整をした?」
「Q.子どもが寝つかないときどうしてた?」
しかし、これに”解答”はなく、自分の場合はこうだったよという例(Ex.)を”回答”するしかない。
回答の内容は人によって十人十色だと思う。
十人十色の回答が出力される背景には、単に「人には人の都合があります」というだけでなく、「親というものはあらゆる手段を講じて子どもに愛情を注いでいる」ということがあるように思う。
8月30日に発売された岡田悠さんの新著、「1歳の君とバナナへ」を読み終わったわたしの中にいちばん残っていたものは、岡田さん夫妻が、我が子に対して無限に湧き上がってくる愛情の濁流を、一体どうすれば我が子の口に合う真水に生成できるだろうかという、愛情の取り扱いに心をくだいて工夫を凝らす姿だ。
愛情を濁流に例えてしまっては失礼かもしれないが、世の中には、我が子への愛情ゆえに、それに応えきれない未熟な親としての自分にがっかりしてしまったり、我が子への愛情ゆえに、パートナーのちょっとした言動に不満を感じたり、我が子への愛情ゆえに、つい我が子にきつく怒りすぎてしまったり、という愛情に起因するエピソードをたくさん聞くし、きっと将来わたし自身も経験するのだと思う。
愛情は決して清流ではないと思う。
でも、どの子の親も、我が子には愛情の真水の部分だけをすくってあげられるように、今日も必死に愛情と我が子に向き合っていると思う。
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内容に関さない部分の感想
「1歳の君とバナナへ」は、岡田さんから、我が子である「君」への手紙として書かれている。
章構成(手紙なので大きくは前文・主文・末文という区切りである)は基本的に時系列順で、「君」が生まれる少し前の話から、誕生、2ヶ月、4ヶ月、6ヶ月、8ヶ月、10ヶ月、11ヶ月と、「君」が1歳になるまでの記録が、約200ページの製本された”手紙”に綴られている。
1人の書き手による世界一長い手紙の記録をネットで検索してみたけれど、わたしがちょっと調べた限りでは正確なところはわからなかった。
ただ、およそ10万文字で綴られたこの手紙は、1人の人が書いた、前文・主文・末文からなる一通の手紙としては、人類史上でもトップクラスの長さを誇るはずだ。
岡田さんは本書の前にも「0メートルの旅(ダイヤモンド社)」「10年間飲みかけの午後の紅茶に別れを告げたい(河出書房新社)」の2冊を、それぞれ2020年、2021年に出版されている。
わたしはその両方ともを読んだけれど、今回の「1歳の君とバナナへ」が1番読んでいる時間が短く感じた。
でも、岡田さんと、webメディアデイリーポータルZのライターとしても活躍されているSatoruさんがパーソナリティを務められているラジオ「Satoru と岡田悠の旅のラジオ」でのお話によると、文字数で言えば今作が一番多いとのこと。
短く感じた要因の一つには、岡田さん特有の小気味良いリズムの文章がある。
岡田さんの文章は、一文あたりの長さの長短のバランスが絶妙で、長すぎる一文が続いて読者の内容理解が困難になることも、短すぎる一文が続いて単調になることもない。
あとは、「0メートルの旅」では物語の舞台が16カ所に及び、「10年間飲みかけの午後の紅茶に別れを告げたい」では観察により生まれた別々の物語が7つあるのに比べて、本書では舞台もテーマも一貫している。
さらに基本的に時系列順で語られるので、わたしとしては没頭への滑走路が太く真っ直ぐに伸びているように感じられて、すぐに読み切ってしまった。
◇
具体的な感想
わたしが「1歳の君とバナナへ」を読んで一番大きく感じた感想は最初に書いた。
以下には、そのほかわたしが感じた本書への感想を書く。
(本文の描写に直接触れる部分もあるので、ネタバレ(ネタバレというのか?)前に自分で読んでみたいと思われた方は、ここで一旦区切られることをおすすめします)
ひとつの変化として、「あ、主役どうぞ」と思うようになった。これは驚きだった。(中略)僕は特別でなくていいのだと思うと、なんだか気が楽になった。
これは、わたしにとっては、(まだ配偶者も子どももいないとはいえ)救いになる文章だった。
「子どもが生まれると人生の主役は交代するのか」という問いは、わたし自身もこの本を読む前から度々耳にしていた問いだ。
“人生の主役が交代”したように感じるケースとしては、1日の大半を子どもと一緒に過ごしてなかなか自分1人だけの時間が取りづらくて悩んでしまうというケースだったり、それまでは「〇〇さん」と自分の名前で呼ばれていたのが、子どもが生まれると、こどもの行く先では「〇〇ちゃんのママ・パパ」、家庭でも「ママ・パパ」と、自分の名前を呼ばれなくなり、アイデンティティの消失を感じてしまうケースだったり、様々なケースがあると聞く。
「主役は交代するか」という問いに対してわたし自身の回答はまだ無いものの、回答の種類としては「いいえ、主役は私です(拒否)」か、「はい、子どもが主役になります(受容)」のどちらかだと思っていた。
でも、「あ、主役どうぞ」という“譲渡”が回答の選択肢の中にあるとは。
わたしは「主役が交代するかどうか」という問いとその答えは、親になる者が避けては通ることができない”試練”のように捉えていた。
今のわたしは1人暮らしをあまりにも謳歌している。他人のリズムが入った生活が想像できない。
結婚して子育てをすることは、その特別な生活を「諦めて子どもと過ごす」か、「拒んで子どもとの時間を少なくしてしまう」かという、自分が妥協するか、家族が妥協するかのどちらかだと思っていた。
でも、自然と「あ、主役どうぞ」と思える例もあると知って、わたしは子どもを育てる生活に感じていた敷居のようなものが、意外と今の自分の立ち位置と地続きになっていると感じられるようになった。
自分の可処分時間の大半を子どもに充てることは、もしかしたら自分のこれまでの活動を、自分を特別たらしめていた活動を縮小させることになるケースもあるかもしれない。
でも、何より、我が子にとってわたしは替えの効かない特別すぎる”肉親”であり、パートナーにとってわたしは替えの効かない特別すぎるパートナーである。
君と一緒に出かけるとそうやって見過ごしていた景色が目に留まる。そんな体験に、僕は熱狂しているのだ。
ベビーカーを押してみて、初めて気がつく街の設備の良し悪しがある。子どもと一緒に街なかや観光施設を歩いてみて、初めて気がつく魅力がある。たとえ自分が行き慣れた場所であっても。
本文中では、公園や水族館での岡田さん親子の体験を通じて、この驚きが語られていた。
わたしも似た経験がある。
わたしは都内の美術館でボランティアをしている。この美術館では定期的に、障がい者手帳をお持ちの方とその介助者の方だけが予約できて、ゆったり展覧会を観られる機会があり、わたしも何度かお手伝いした。
それから不定期ながら、ボランティア発案の自主的な活動として、ベビーカーや未就学児を連れた親子を対象に、1親子につきボランティアが1人2人付き添って、一緒に展覧会をめぐるという企画が行われることもあり、活動をお手伝いしたことがある。
例えば車椅子に乗って館内を移動してみると、5cmの段差が2mの壁と同じ存在感を持つ。この段差を車椅子で越えることはとても難しい。
立って見ていた時にはちょうどよく見えていたものも、車椅子の視点からだと見え方が異なる(場所によってはそもそも影になってしまって見えない、という場合もあるだろう)。
小さいお子さんを持つボランティアの方とZOOMで打ち合わせる時には、朝8時頃が好まれることが多い。
この時間は子ども向けテレビ番組が続き、子どもをそちらに任せて打ち合わせをしやすい、という意見が多いからだ。
子どもに、あるいは自分とは異なる生活スタイルの方に憑依して同じ場をめぐってみると、そこは一瞬で「常識が通用しない、見慣れた風景の、違う場所」に変わる。
そしてそこに潜む新たな魅力と危険に出会う。
君はまだ、自分の意見も、文句すらも言うことができない。感情を発露する方法を他に知らないのだ。だから皿をひっくり返すことで、僕らに気持ちを伝えようとしている。
「君」のこの行動に、わたしは自分が海外旅行に行った時のことを思い出す。
現地の言葉はろくに喋ることが出来ない。では、文字で書いて伝えようか?いやいや、スペルもわからなければ文法の理解もめちゃくちゃだ。
ではわたしはどうするかといえば、知ってる単語を並べて1割の情報を伝え、あとは身振り手振りのジェスチャーで言いたいことの9割を表現するしかない。
わたしはお皿を投げないマナーを理解しているだけで、言葉も文字も通用しない場所では、「君」と同じように全身でコミュニケーションを取るだろう。
わたしが海外で感じる感動やストレスの多くは、「日本」という物差しで比較したときに、そのギャップの大きさによって生じることが多い。
この世に生まれて数ヶ月、数年という子どもたちは、過去の自分の経験と比較することのできない未知との遭遇の連続の日々を過ごしている。
大人のわたしで例えれば、毎朝違う国で目が覚める感覚だろうか。この大変さは、ちょっと今のわたしには適切な例えや想像が思い浮かばない。
彼らは今日も未知と出会い、わたしが海外で感じるような感動とストレスを浴び続けているのかもしれない。
◇
おわりに
わたしは大学入学を機に上京したので、実家には18年間住んでいた。
だからわたしの母と父は、0歳〜18歳までのわたしのことは毎日目にしていた。
それにも関わらず、最近両親から送られてくるLINEには、わたしの幼少期の思い出が頻繁に書かれている。
先月、地元で数年ぶりとなる大きな花火大会が開催され、母からは花火の写真と共に、「数年ぶりの花火大会だよ。小さかった頃はおんぶして見たね」と文章が送られてきた。
わたしはこの花火大会には、高校生までほぼ毎年家族と一緒に行っていたはずだが、今両親が久しぶりに花火大会を見て思い出すのは、わたしの幼少期の姿のようだ。
わたしが久しぶりに実家に帰っても、わたしが小さかった頃の話を頻繁にされる。
当然これからもまだまだ子育ては続くし、イヤイヤ期に思春期、今より大変な時期が待ち構えているのは知っている。ずっと赤ちゃんでいてくれ!とまでは思わないが、それでも、赤ちゃんじゃなくなるのかあ、とは思う。
わたしは、乳幼児期や幼少期に両親にかけた苦労はもちろん、中高生時代になっても、部活の朝練のために母親に毎日朝5時に起きてお弁当を作ってもらい、そこまでしてもらった恩を反抗期のワガママで返し、反抗期が落ち着いたかと思いきや、学費の高い音楽大学に通わせてもらい、まったく頭が上がらないほどに苦労をかけ続けた二十数年を生きてきた。数えきれないほどの思い出がたくさんある。
それでも、少なくともわたしの両親にとっては、わたしがほとんど覚えていないような乳幼児期、幼少期の思い出は、格別にキラキラしたもののようだ。
一体、乳幼児期、幼少期にどんな魔力が秘められているというのか…。
Q.子どもができると、人生の主役は交代するのか?
”Ex.”君が生まれて、人生の主役は交代するのかもしれない。だからといって、人生そのものは交代しない。
わたしの両親が、わたしの記憶していない幼少期の思い出に浸るのは、両親が、両親それぞれの人生を生きたからに他ならない。
わたしの両親がそこまで浸る、子どもの魔力。
いつか、わたしもまだ見ぬ我が子とそんな魔法の時間を過ごせたらいい。
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