与えることを楽しむ社会人を育てるための素養は何か
前回、いい教育とは「他者に与え、かつ与えることを楽しめる社会人を育てること」(以下説明定義の「いい教育」とする)であることを示した。苫野一徳さんの書かれた「学問としての教育学」を踏まえ、より学問的に正しく記載すると「各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認と相互補助>の<教養=力能>を通した実質化」(以下学問定義の「いい教育」とする)である。
今回は、この<教養=力能>、つまり与えることを楽しむ社会人を育てるためにはどのような素養が必要かということについて、前回同様「学問としての教養学」を踏まえながら思考していきたい。また、今回は科学性を踏まえて立証するのではなく、あくまで仮説として現段階で持っているものである。無論、これから検証していきたいと思っている。
私は、「学問としての教養学」を読む前、いい教育を通じて人を育てるためには3つの素養が必要であると考えていた。主体性・社会性・創造性だ。(それぞれの定義となぜこのように考えているかは、以下の議論を踏まえて、後述する)
一方で、「学問としての教育学」では、自由に生きるための教養=力能として、「共通基礎教養」と「自らの教養」を上げていた。(p204) この「共通基礎教養」は「諸基礎知識」「探求する力」「相互承認の感度」として類型している。
上記の記載を踏まえ、自らの考えと照らし合わせてみる。「自らの教養」というのは私の考える「主体性」と類似する部分がある。「相互承認の感度」は「社会性」、「探求する力」は創造性と通ずる部分があると考えた。となると、私の考えに抜けていたところは「諸基礎知識」だ。これは、確かに主体性・創造性・社会性の基礎になる部分である。私が民間教育に携わっているが故抜けていたが、民間教育でPBLを行うその土台には、公教育で培われた「諸知識」が土台にあることを忘れてはならない。
以上を踏まえ、与えることを楽しむ社会人になるための素養を、自分の中で「諸基礎知識」「主体性」「社会性」「創造性」と整理し直した。また、本書を読んで自ら考察する中で、これらの素養は並立ではないことに気づいた。まずはそれぞれの定義について述べていく。
4素養の定義
第一に、「諸基礎知識」について。これは読み・書き・計算・及び国語、算数・理科・社会・情報の基礎知識とする。一般的な4教科に情報を加えたのは、現代社会において、<自由>及び社会における<自由の相互承認と相互補助>のために、すでに切っても切れない位置づけになっていると判断したからである。
第二に「主体性」について。主体性とは"やりたい"を楽しくアウトプットすること及びその性質と定義する。主体性には1.やりたいことを見つける 2.やってみる 3.やりきるの3つのカテゴリが存在すると考えている。
第三に「社会性」について。社会性とは、他者に価値を与えること及びその性質と定義する。社会性には、1.他者を承認する 2.他者に伝える 3.他者に貢献するの3つのカテゴリが存在すると考えている。
第四に「創造性」について。創造性とは新しい価値を生み出すこと及びその性質と定義する。創造性には、1.問いを立てる 2.解決策を発想する 3.実装手段を持つという3つのカテゴリが存在すると考えている。
次に、4素養とよい教育の学問定義・説明定義にどう関係するのかを述べていく。
4素養とよい教育との関係
4素養とよい教育との関係を論じる前に、前提となる「与える」について今一度整理しておきたい。与えるとは、①与えられる側が自由を目指す上で自らだけでは達せられない②与える側が与えられる側の目指す自由に達するための価値を持ち得ているという2つの条件が成り立つときに発生する。言い換えると、①と②に差があるとき②ー①分を与えることができる。このことを前提とし、以下について記していく。
よい教育は以下の条件のいずれかを満たしたときに実質化すると考えられる。
・主体性+社会性のうち「他者を承認する」+創造性が身に付いた時
・主体性+社会性が身に付いた時
ただし、現代社会(ここではこれからの教育を考えるという立場にたって2024年以降とする)においては、基礎諸知識・主体性・創造性・社会性をそれぞれ身に着けるほど、各人の自由及び社会における自由の相互承認がより実質化していく。
以下で、各素養とよい教育とのそれぞれの関係性について詳しく論ずる。
まず基礎諸知識について。この基礎諸知識は、時代の普遍性の立場に立つと、よい教育の実質化・楽しく与える人になるための必須条件ではない。ただし、現代社会においては、各人の自由及び社会における自由の相互承認のためにあった方がよい素養であるといえる。なぜなら、現代社会はすでに、基礎諸知識が身についている前提で、一定の各人の自由を承認する社会になっているからである。例えば、各人の自由を相互承認するための法律(平たく言うとルール)を理解するためには、読み・書きが必要となる、自由を達成するために通貨を用いて購入するためには計算が必要になる、といった具合だ。
また、基礎諸知識は基本的すべての人が同尺度であることから、身に着けた後に提供できる価値は一定となるという性質を持つ。つまり与える価値の土台にはなるが、各人が持ちうる価値の「差」はない、もしくは少ない状態になる。(ただし、他者、つまり与えられる人に諸基礎知識が足りていない場合・もしくは2者の習得状況に差がある場合は、諸基礎知識によって「与える」が成り立つ。)
第二に「主体性」について。主体性は4つの素養の中でも唯一必須条件である。なぜなら、学問定義のいう各人の<自由>、説明定義の「楽しめる」に直接寄与し、かつ説明定義の「与える」の土台にもなるからである。
「学問としての教育学」にて、自由とはハンナ・アーレントの言葉を借りて「我欲する」と「我なしうる」との一致の感度が訪れる時、あるいはその可能性の感度が訪れる時に確信するものである、と記している。この「我欲する」というのは言い換えると"やりたい"であり、楽しむための根本の欲情である。ただ、この欲情だけでは自由を得ることはできない。自らがアウトプットすることで初めて「我欲する」と「我なしうる」の一致の感度、すなわち自由を獲得し得るのである。つまりこの主体性、""やりたい"を楽しくアウトプットすることで自由になれると考える。
また、主体性は与えるための土台でもある。弊社代表の川村は現代社会において「モチベーション」こそが差を生むと説く。モチベーションとは、エネルギーの流出量を指す。現代社会はテクノロジーの発展によって、すべての能力が高い水準で一定化されるとし、この社会において、個人の能力の差が生まれるポイントの1つがモチベーションであるとしている。言い換えると、モチベーションによって生まれるによって、圧倒的に時間をかけることが可能になり、与える価値の創出ができるようになるといえる。
第三に社会性について。この社会性は、学問定義の「自由の相互承認と相互補助」、説明定義の「与える」にあたると考えている。この社会性の3つのカテゴリー(1.他者を承認する 2.他者に伝える 3.他者に貢献する)のうち、「1.他者を承認する」は、いい教育を実質化するための必須条件である。なぜなら、学問定義の「自由の相互承認」に直接意味する部分だからである。一方で、他者に伝える・他者に貢献するは必須条件ではない。ただし、他者に伝える・他者に貢献するという性質が身についていない場合は、この後記す創造性が他者より圧倒的に突き抜けておく必要がある。代表的な社会人の例がアーティスト。彼らは、他者に伝えようとしたり、他者への貢献を考えて作品を作っていないケースも少なくない。だが、実際多くの人は作品から「与えられている」し、本人も作品作りを楽しみ得る。
第四に創造性について。この創造性は、学問定義の「各人の自由の相互補助」、説明定義の「与える」にあたると考えている。
創造性については、学習者によっては、よい教育を実質化する上で必須条件ではない。では、どのような学習者にとっては必須ではないのか。
学習者の中には、制限された自由を積極的に選ぶ者もいる。言われたことをやっていた方が自分で考えて行動するより楽しいと感じるタイプだ。このタイプの場合、創造性を突き詰めることは、本人の自由・楽しむに反してしまう。したがって、この制限された自由を積極的に選ぶ学習者は創造性を身に着けずとも、主体性と社会性を身に着けていれば、他者に与え、かつ与えることを楽しめる社会人になることは可能である。
ただし、それでも創造性という素養を入れているのは、基礎諸知識同様、現代社会を踏まえると、各人の自由及び社会における自由の相互承認のためにあった方がよい素養であるからである。
弊社代表の川村は、時代の変化によって優秀の定義がシフトしているという。これまでの社会は質の高い製品やサービスを大量に生産することが求められていたため、要領と精密性とスピードが必要とされていた。一方で現代ではロボットやAIの発達により、要領・精密性・スピードの優れた製品やサービスを生産することは人の役割ではなくなってきている。加えて、生活の充足やニーズの多様化という面でも社会が変化している。そして、この社会変化によって、優秀さの定義が、要領・精密性・スピードが優れた人材から、様々な才能を持った人材が、それぞれの問いを持ち、解決する人物が社会で必要とされるようになっているという。
与えるための前提にはニーズがある。つまり、自らが持っている価値と社会や他者から求められている価値が一致すればするほど、他者に与えるのをより楽しみ、自由になることができる。このことから、現代の社会変化を鑑みると、創造性は各人の自由及び社会における自由の相互承認のためにあった方がよい素養であるといえる。
ここまでの内容を整理し、以下の通り図示してみた。
基礎書知識の土台の元、主体性と創造性の素養によって生み出した価値を、その価値を求めている他者に社会性を通じて与える。この行為が主体性の下支えの元楽しむことで、現代において「他者に与え、かつ与えることを楽しめる社会人」になると考える。
4素養の課題
ここまで、いい教育を実現のための素養について記載してきたが、いくつか論点が残っていると考える。
1点目は基礎諸知識・主体性・創造性・創造性によって、本当にいい教育が実現するのかという科学的な証明だ。自分が考えている筋道の妥当性を論じてきたが、詰めが甘すぎることは重々承知している。これは、今後私が教育学に取り組む中で一つの大事な研究テーマにしたいと思っている。
2点目は基礎諸知識の範囲だ。これは私がまだ不勉強な点であるため、深く論じることができないが、現義務教育の範囲より削ることは可能であると考えている。むしろ、主体性・創造性・社会性の育成に適したプログラムのために、削る必要があると考える。が、どこを削ることができるのかは今後私自身が学ぶ必要がある。
そのほかで言うと、時代の変化を、いい教育実現に考慮すべきか否かという点が論点として残っている。上記では、例えば基礎諸知識の中に情報を入れたり、主体性や創造性の必要性に時代性を考慮してきたが、いい社会を実質化するものとしての教育という観点を考慮すると、社会と教育との関係性に矛盾が発生している。こちらについても、今後研究する中で整理していきたいと思う。