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いい教育とは~学問としての教育学を読んでの考察~

教育学探求の最初のとっかかりとして苫野一徳さんが書かれた「学問としての教育学」を読んだ。非常に興味深く、教育学を学び始める一番最初にこの本に出会えたことを心から嬉しく思った。

今回は、自分が持っている教育観と今回本を通じて学んだ内容を照らし合わせながら、「いい教育」について改めて考えていきたいと思う。

と、その前に、私の今持っている教育感は何も自分で一から築き上げたものではない。私が教育に携わり始めたきっかけである、今働いている教室及び代表の川村が当初持っていた教育思想が直接的に私の教育観の土台になっていることを、前提として記載しておく。

読む前の私の「いい教育」とは

私は本書を読む前、教育を「社会人を育てること」と定義し、いい教育を「他者に与え、かつ与えることを楽しめる社会人を育てること」と定義していた。社会人であるか否かは、与えられる人か与える人かという点に境界線を引いている。また、ただ与えるだけだとかつての奴隷にもなりかねない。自らの与えるという行為を心から楽しむことで初めてよき社会人になると考えている。そして、いい教育を通じて最終的には「よのなかの余計なストレスを少なくする」ことを掲げていた。余計なストレスとは、幸福を阻害するストレスを指す。

本書の「いい教育」とは(原理)


一方で本書では、いい教育とは、(実際の記載では公教育の本質として)各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化するものとし、かつ<自由の相互承認>の原理に基づく以上、公教育の正当性は<一般福祉>の原理として定位されるとしている。

本書では、まず「いい教育」とはそもそも存在するのかという部分から論証している。たしかに、教育には実に多様な教育観が存在し、それぞれ良し悪しを語っている印象がある。以下自分の理解の範囲で言葉にすると、本書では「客観的には存在しないが、現象学=欲望論的アプローチにより、いい教育が成立する条件はあり得る」としている。そもそもよのなかではあらゆること、例えば目の前のリンゴの存在でさえも客観的に証明し得ず、共通認識の中で存在が認知される。逆に言うと、「この教育はいい」「この教育はよくない」という認知を共通してすり合わせることで、いい教育というものが成立するというものだ。(第2章1節を参考・実際にはもっと厳密な言葉選びとMECEな論理で記載されている。以降も同様。)

では、なぜ「いい教育」=「各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」といえるのか。
まず、いい教育とは、いい社会を実質化するためのものとした。いい社会を実質化するものでいうと教育以外に法があげられている。
では、いい社会とはどんな社会か。それは「各人の自由及び社会における自由の相互承認」された社会としている。
ではなぜ「いい社会」=「各人の自由及び社会における自由の相互承認」された社会といえるのか。それは、人間的欲望の本質は自由(ここでは欲するとなしうるの一致の感度が訪れた時と定義されている)だからである。つまり、人間的欲望の本質である自由が満たせられる社会こそ、すべての人間が望む社会であるといえる。また、自由の相互承認としているのは、各人の自由を阻むのは他者であり、各人の自由を実現するためには、自由の相互承認に基づく社会が必要だからである。
ではなぜ人間的欲望の本質が自由であるといえるのか。それは、人間の精神は自己意識があり、これはつまり自分の欲望を意識している意識であることから、人間は欲望的存在であり、欲望存在である以上、無数の欲望に規定されているからこそ自由を求めるからとしている。(第2章2節を参考)

ここまでの本書の理解を踏まえたうえで、自らが当初持っていた教育観に立ち返ってみる。

いい教育とは~再考~

まず全体として、この論理に圧倒された。大学では多少の論文を書いた経験はあるものの、哲学をはじめとする学問の世界ではここまで論理的に、かつ漏れなく議論を組み立てるのかと感動した。自分の教育観もほぼ丸ごと上書きされ得る勢いである。一方で、当初持っていた言葉とうまくすり合わせて解釈することもでき得ると思った。元の意見を強化するための読み方は正しくないと思いつつ、自分の言葉で解釈できるようになりたいと思い、以下に記載してみる。むろんアップデートすべき箇所は丸ごとアップデートする。

まず、目指すべき世界像(社会)を、私は「よのなかの余計なストレスを少なくする」としていたが、自由を「欲するとなしうるの一致の感度が訪れた時」とするのであれば、「余計なストレスを少なくしたいという欲する状態から、余計なストレスが少なくなった(なくなった)という感度が得られる」と解釈できるので、「各人の自由及び社会における自由の相互承認」が目指すべき世界像(社会)の上位に存在すると理解できる。
ただ、一方で読みながら気になったのが、自由の相互承認だけで十分なのかということである。この点が気になった根本の原点は「自由を阻むのは他者」としている点である。むろん、自由を阻む要因として他者があることに異論はないが、もう1つあると私は考える。それは、自然だ。例え、それぞれの自由を相互に承認しあう社会になったとしても、自然が各人の自由を阻むことは多いに考えられる。そして社会を形成する必然性はこの自然から各人の自由を守るという部分である。(各人の自由と自由の相互承認だと、社会を形成する必要はなくなり、極論個人で生きた方が人間の本質である欲求を満たすことができると考えられる。)つまり、個人では守れない自然の驚異を、互いが支えあうことで自由を守りあうという社会もよい社会に必要不可欠なものではないかと考えた。
以上のことから、本を読み、自分の考えと言葉を足すと、目指すべき世界像(よい社会)とは、「各人の自由及び社会における自由の相互承認と相互補助」と定めたいと思う。相互補助という言葉を加えることで、各人の自由のために、自然という驚異から補助し合い、自由を確保することができる。
また、自由の相互補助は自由の相互承認の前提で成り立つと私は考えられる。自由の相互補助が自由の阻害となってはならない。相手の自由を補助するためには、相手の自由が何かをとらえ、承認して初めて補助し得るのである。

次に、教育の定義についてだが、私の当初の「社会人を育てること」というのは、本書であったよい社会を実質化するもののこととほぼ同意ととらえても差し支えないかと思う。

最後に、いい教育について。
本書と先述の議論を踏まえると、いい教育とは、各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認と相互補助>の<教養=力能>を通した実質化するものということができるだろう。
ここで、私の当初の考え方「他者に与え、かつ与えることを楽しめる社会人を育てること」を見てみる。こう見ると、「与える」という言葉の不透明さに気づく。何を与えるのか。楽しめるとは何か?
本書の理解を踏まえ捉えるのであれば、与えるというのは、自由の相互承認と相互補助の体現の一つであると考えられる。また、楽しめるというのはつまり自分の欲する部分が満たされた状態という自分のイメージであったので、各人の自由と解釈を一致させることができる。
以上のことから、学問として、それこそみなが共通確信として存在し得るいい教育とは、「各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認と相互補助>の<教養=力能>を通した実質化」である。
ただ、こちらはやはり表現として一般的には理解しにくい、かつ当初の定義も「各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認と相互補助>の<教養=力能>を通した実質化」の原理をベースにできていると捉えられることから、自分の中では、いい教育=「他者に与え、かつ与えることを楽しめる社会人を育てること」という説明をこれからもしていきたいと思う。

読書前と読書後で、いい教育の説明的な認識に変化はなかったが、いい教育の原理をとらえることができたこと・そして目指すべき世界像(社会)が自分のなかで言語化できたことには、今後も教育の仕事と学問に携わるうえで大きな収穫があった。

今回触れた内容は、本書の一部にしか過ぎない。そのほかの部分も非常に面白く、また私の課題観の答えとなるような内容もあった。次の機会には、本書を踏まえながら、よい教育を実質化するための素養について論じていきたいと思う。

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