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伊藤詩織『Black Box Diaries』をめぐる問題整理 「新しいオリエンタリズム」

ジャーナリスト伊藤詩織さん監督のドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』が候補になっている、第97回アカデミー賞の授賞発表が目前(米国時間3月2日、日本時間3日)となりました。
日本での公開は未定のままで、伊藤さんの映画をめぐる映像や音声の無許可使用の問題は解決していません。

そうした中、伊藤詩織さんをめぐる複数の記事を読み返していたところ、伊藤さんの声明文やVOGUE JAPAN、BBCの記事に出てくる「日本へのラブレター」という言葉に強い違和感を持ちました。

最後に。私が願うのは、みなさんにこの映画を見ていただき、議論してほしいということ。この映画は、私にとって日本へのラブレターなのです。

伊藤さんが欠席した2/20の日本外国特派員協会(FCCJ)での声明文
太字筆者

本作は、「日本へのラブレター」のつもりで作りました。日本を貶める意図は全くありません。私は日本を、日本の人々を、自分が育ったところを愛しています。ただ、女性たちはもう痛みを我慢しなくてもいいと思うんです。

VOGUE JAPAN
太字筆者

「これは私の日本へのラブレターです。いつか映画を上映し、家族もそれを見ることができる日が来ることを本当に願っている」

「それが私の本当の願いです(中略)オスカーを取ることよりも」

BBC NEWS JAPAN
太字筆者

これらの記事は、すべて、2月20日に日本外国特派員協会(FCCJ)にて予定されていた、映画『Black Box Diaries』をめぐる記者会見の後に出されたものです。
当日は伊藤詩織さんの会見、及び再編集した映画上映も予定されていましたが、伊藤さんは体調不良により欠席。会見と映画上映は見送られ、代わりに声明文が提出されました。
映像と音声の無許可使用の問題が解決に至っていない状況にも関わらず、多くの人に甘くせつないイメージを喚起させるであろう「ラブレター」という文言が何度も出てくることに違和感を覚えます。
今回は、上記の違和感をきっかけに、伊藤詩織さんと彼女のドキュメンタリー映画をめぐる問題を、あらためて整理していきたいと思います。



大前提、公権力の検閲や性暴力被害者に冷淡な社会により公開が阻まれているわけではない

伊藤詩織さんは前述のVOGUEの記事において、

日本での公開目処は現在のところ立っていません。アカデミー賞にノミネートされたことについてのインタビューも、日本のメディアからはありませんでした。日本人監督として初めてこのカテゴリーでノミネートされたことは、私にとって誇りにしたい出来事なのに日本のメディアが沈黙を守り続け、取材自体がなかったことが一番悲しかったですね。

VOGUE JAPAN

と述べています。
他の海外メディアの記事や自身のInstagramにおいても、自身の映画における映像や音声の無許可使用に関してはほとんど触れず、メディア関係者からの嫌がらせや、安全が脅かされる状況にあること、保守的な日本社会や権力によって沈黙させられているかのような訴えを行っています。

また、ホームを失いました。
Black Box Diaries は57カ国以上で上映され、オスカーにノミネートされました。日本人監督としてこのカテゴリーで初めてノミネートされたことは大きな名誉です。また、BAFTAにもノミネートされ、このように世界的に認められることは本当に意味があります。
一方で、この映画はまだ日本で上映されていません。オンラインでの脅迫、メディア関係者からの嫌がらせがエスカレートし、映画だけでなく、私の安全が脅かされているレベルまできてしまいました。

伊藤詩織Instagram
太字筆者

大前提として、『Black Box Diaries』は、公権力の検閲や性暴力被害者に冷淡な社会により公開が阻まれているわけではありません
作品を上映できないとする判断は、伊藤詩織さんへの嫌がらせでも政治的にセンシティブな問題であるためでもありません。
日本で伊藤さんの映画が上映できないのは、「裁判資料の目的外使用」「映像や音声が許可なく使用されている」など、複数の法的・倫理的に問題であり、具体的には以下の5点があげられていました。

  1. 裁判での使用のため貸し出されたホテルの防犯カメラ映像が目的外使用されている(加工されているというが、どこのホテルかなどはっきりわかる状態)

  2. タクシー運転手が特定可能な状態(顔がはっきり映っているし、音声が変えられているかも不明)

  3. 公益通報者である警察官が特定可能な状態(音声が変えられているか不明で、警察組関係者なら特定できてしまう状態)

  4. 元担当弁護士との電話が無許可で録音され使用されている

  5. 性被害をめぐる勉強会の映像で一部の方の許諾が取れていない

2月20日に伊藤さんが出した声明文では、上記の問題を認め、1.に関しては「公益性」のため引き続き使用を継続したいこと。2.3.5に関しては「映像を使うことへの承諾が抜け落ちてしまった方々に、心よりお詫びします。最新バージョンでは、個人が特定できないようにすべて対処します。」と謝罪しています。
4.の元担当弁護士の音声の無許可使用に関しては、「ご本人への確認が抜け落ちたまま使用し、傷つけてしまったこと、心からお詫び申し上げます。」と謝罪が述べられているものの、一方で伊藤さんは西廣弁護士に守秘義務違反を指摘し、懲戒請求を視野に入れた「紛議調停」を申し立てています。
伊藤さんは西廣弁護士に、申立人である伊藤さんの名誉を毀損する発信を行わないことや、これまでの発信について謝罪広告を出すことを求めているのです。素人目にみると、謝罪しているのかいないのか、よくわからない状態です。

また、伊藤さんの映画に対して、「メディアが沈黙を守り続け」ている状況でもありません。
伊藤さんの映画の許諾関連の記事を執筆した東京新聞の望月衣塑子記者は「伊藤さんが利己的な人との印象を与え、社会的評価を著しく低下させた」として訴えられましたし、昨年10月の記者会見で映画が孕む人権上の問題を訴えた元代理人の西廣弁護士は、上記のとおり伊藤さんにより紛議調停が求められています。

日本で『Black Box Diaries』の上映目処がたっていないのは、なにより、制作・配給会社であるスターサンズが各種調整や説明責任を果たしていないからです。
『新聞記者』や『妖怪の孫』など、公権力を批判する映画を多く制作・配給しているスターサンズが舵取りできていない状態になっている背景には触れず、海外メディアで「日本社会」や「権力」のせいで上映できなような主張をすることには違和感があります。

その他、伊藤詩織さんが欧米圏と日本でまったく異なる言動や振る舞いを取っていることに関しては以前の記事でも書きましたが、蓮実里菜氏の記事が特に詳しいです。


被害にあった後、伊藤詩織さんは日本で孤立していたのか?

日本で映画の公開目処が立っていないことに関して、海外メディアでは、「保守的な日本社会や権力によって沈黙させられている」かのような訴えをしている伊藤詩織さんですが、そもそも、被害にあった後の伊藤さんは日本で孤立していたのでしょうか?

2015年の4月に被害にあい、伊藤さんが警察や検察に対して不信感を抱いたのは確かでしょうが、2017年に『週刊新潮』がこの問題を記事化して以降、伊藤さんの周りには多くのメディア関係者や政治家が集まっていたように思います。

検察審査会に不起訴不服とする申し立てをした5月29日、司法記者クラブで会見を開きました。性犯罪の被害にあった女性を助けられる社会に変えないといけないと訴え、メディアからは想像以上の反響がありました。

出典:「国家権力の「ブラックボックス」『月刊日本』2017年12月

日本では記者会見後にはあまり大きな反応はなかったのですが、『Black Box』を書いてから大きな反響を得たという感触があります。

今回、告発をしたことでメディアのなかで横のつながりがすごく増えた感じはします。

出典:伊藤詩織「「MeToo」が忘れ去られても、語ることができる未来に向けて」『現代思想』2018年7月号

と、伊藤さん自身が過去のインタビューで答えています。

最初は、国会に提出された性犯罪に関する刑法改正案を後押ししようと、三月に共同会見を開くことを考えていました。人権団体の方や、取材でお話をうかがった性暴力被害者の方たちと一緒に法案成立を訴えて、そこから自分の体験について何か聞かれることがあれば、隠さずに話をするつもりでした。

出典:伊藤詩織「性暴力と日本社会「話せる社会」に変えられる」『世界』2018年1月

2017年、強姦罪の厳罰化を柱とする刑法改正を視野に入れ、伊藤さんは「自分の顔と名前を出して、人権団体と被害者の方々と記者会見を開こう」「その場で質問されたら自分の経験を話そう」と決めたといいます。
結局団体での記者会見ではなく、『週刊新潮』による記事が掲載され、5月29日に検察審査会に申し立てを行った後、伊藤さんは個人で会見を開きました。

彼女は、性犯罪に関する刑法改正案を後押しするための活動の一環として、自らの性被害を訴えたのです。

2017年11月には、野党超党派議員によって、ジャーナリストの伊藤詩織さんが訴えているレイプ被害への対応について検証を行う「『準強姦事件 逮捕状執行停止問題』を検証する会」が発足されました。
この「超党派の会」には、社民党の福島みずほ党首や日本共産党の田村智子副委員長(当時)など、野党の有名政治家たちが名前を連ねていました(参考)。

また、清水潔、津田大介、荻上チキ、安田菜津紀など、著名なジャーナリストたちが彼女を擁護してきました。
特に、荻上チキ氏は伊藤詩織さんのオンラインでの誹謗中傷を取り締まる調査チームを発足するなど、継続的にバックアップしていました。

2019年4月にはフェミニストの北原みのりさんが呼びかけ人になり、伊藤詩織さんの民事裁判を支援する会「Open the BlackBox(オープン ザ ブラックボックス)」が発足されました。

伊藤詩織さんに「利己的な人との印象与えた」と訴えられた望月衣塑子さんは、当初は伊藤さんに、

いろいろなジャーナリストの方とお話ししました。傷物に触れるような接し方をする方が多かったなかで、何が今、司法や社会システムのなかで足りていないのかを一緒に考えてくれた人が、東京新聞の記者、望月衣塑子さんでした。

出典:『ニュースは真実なのか』

と称されていました。

映画をめぐる伊藤さんの行動に違和感を表明した北原みのりさん小川たまかさん小島慶子さんは、もともと伊藤さんを応援していたフェミニストです。

映画の再編集と東京新聞の望月衣塑子記者への訴訟取り下げを求める要望書を公開した「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」の田中優子さんも、伊藤さんの映画の公開自体は望んでいます。

映画ができあがったら事前に見せてほしい」という約束も反故にされ、「底知れぬ悪意」があると、謝罪広告まで要求されている西廣弁護士は、伊藤詩織さんに8年半伴奏し支援しました。

2015年に伊藤詩織さんが辛い経験をしたことは間違いないでしょう。

でもその後、本当に彼女は一人ぼっちだったのでしょうか?
メディアや政治家は、彼女を拒絶するばかりだったのでしょうか。伊藤詩織さん関連の記事を収集して確認する限り、そうは見えません。
なにより、多くの性暴力サバイバーの方たちが、彼女の勇気を称え応援し寄り添っていたように見えました。


伊藤詩織さんをめぐる沈黙の螺旋

伊藤詩織さんはメディアの中で孤立していたわけではないと先程書きましたが、近年の伊藤詩織さんは、扱いが難しい存在になっていたように思います。

2020年、伊藤詩織さんから「いいね」がどのようなリアクションにあたるのか、それについて社会通念上多くの人はどのように考えているのかを明らかにして欲しいと依頼を受けた荻上チキさんと、彼の持つ調査機関であるチキラボは、「いいねに関する調査」と「誹謗中傷への法的措置をめぐり伊藤詩織が起こした様々なアクションは社会的にどのようなインパクトを持つものだったのか」を調査しました。
その調査では、司法の介入によって、名誉毀損などに対して社会的メッセージが発せられ、それによって伊藤詩織さんへの誹謗中傷の出現頻度が減った。また、裁判の勝訴が続くことでさらなる抑止力が高まったと考えられると結論づけられています。

つまり、荻上チキさんは、伊藤詩織さんのリツイート・いいね訴訟において、司法の介入を手段として、伊藤詩織さんへの発話の抑止力を高めようとしていたということです。

こうした荻上さんらの「応援」は、ややうがった見方をすれば、「誹謗中傷」の基準を明らかにしないままオンラインでの発話を検閲し、訴訟を盾に「伊藤さんへの肯定以外は沈黙しろ」という社会的メッセージを発していたということです。
これは、表現の自由の問題や、ジャーナリストとしての言論の自由にも抵触します。

意見が対立するのであれば、言論で主張をし合えば良い。それは、ジャーナリストに限らず、ペンで身を立てる職業につく多くの人が持つ疑問です。
現在の伊藤さんが、望月衣塑子さんを訴えたり、元弁護団に紛議調停を申し立て弁護士懲戒請求をチラつかせたりする背景には、こうしたいきすぎた「応援」が影響しているのではないでしょうか。完全な憶測ですが、こうした複数の名誉毀損訴訟は、メディアにおいて伊藤詩織さんを扱いが難しい存在にする、「名前を呼んではいけないあの人」にするようなものだったのではないかと思います。


「同意」という言葉の薄っぺらさ、ラブレターという例えの薄ら寒さ

2025年2月20日、伊藤詩織さんは予定していた日本外国特派員協会(FCCJ)での記者会見に現れませんでした。予定されていた会見と映画上映は見送られ、代わりに声明文が提出されました。
記者会見が中止された理由は「体調不良によるドクターストップ」とのことですが、映画上映まで無くした理由はわかりません。
映画の編集は当日行うわけではないのですから、編集版の公開くらいはできたはずです。

伊藤詩織さんは、「性的同意」の大切さを啓蒙してきたジャーナリストでした。「No Means No(NoはNoを意味する)」「Yes Means Yes(YesはYesを意味する)」主張し、相手のことを都合よく解釈するような一方的なコミュニケーションを良しとしませんでした。

声明には、

ご本人への確認が抜け落ちたまま使用し、傷つけてしまったこと、心からお詫び申し上げます。

また、映像を使うことへの承諾が抜け落ちてしまった方々に、心よりお詫びします。最新バージョンでは、個人が特定できないようにすべて対処します。今後の海外での上映についても、差し替えなどできる限り対応します。

伊藤さんが欠席した2/20の日本外国特派員協会(FCCJ)での声明文

との記載がありますが、伊藤さんにとって、情報提供者から「承諾」を得ること、映画で音声や映像を使用する「同意」を得ることは、抜け落ちてしまうほど些末で、一方的なものなのでしょうか。

伊藤詩織さんが日本で批判されているのは、言っていることとやっていることのちぐはぐさ、行動に対しての不誠実さが複数重なっているからです。

性被害者であるからといって、他の人の権利をふみにじる権利を持つわけではないのです。

個人的には、本当に「同意」を大切に考えているのであれば、伊藤さんは這ってでも会見に来るべきであったと思います。
他者の権利と自らの体調不良、どちらをより重いものと考えるか。監督として、そこには責任があるはずです。

かつて伊藤さんは、

清水潔さんの本から学んだこと、それは私の指針になっていることでもありますが、ふだんは聞こえない、人々の小さな声を聞いてそれを伝える、小さな声と社会との橋渡しをするのがジャーナリストの仕事だということです。

出典:伊藤詩織「性暴力と日本社会「話せる社会」に変えられる」『世界』2018年1月

今までの取材もいろいろなご縁から成り立っています。すべて共通するのは、人権や人の尊厳をどう守るかということです。

出典:伊藤詩織「「MeToo」が忘れ去られても、語ることができる未来に向けて」『現代思想』2018年7月号

私は、いつも取材相手との関係性こそ一番大切なものだと思ってドキュメンタリーを制作しています。報道後も、その人の人生は続きます。報道したことでどんなことが起きるのか、そこまで一緒に考えた上で声を聞いていかないといけない。

出典:瀬川至朗編『ニュースは真実なのか』

など、繰り返し、人の尊厳の大切さや、小さな声を大事にすることの重要さを語っています
かつての自分のことばと現在に、どう整合性をつけるのでしょうか。

VOGUEの記事には、

アカデミー賞がこの映画のゴールではありませんが、多くの人が期待し、また応援してくださっていることを実感しています。フィルムメイカーとして、より多くの観客に作品が届くことを心からうれしく思います。

VOGUE JAPAN

というコメントが載っていますが、アカデミー賞がゴールではなく、「同意」や他者の権利を重んじるならば、各国の賞レースを自ら降り、権利関連の問題をクリアにするまで映画を非公開にするような対応を取ることもできたはずです。
応援する声が上がれば権利を踏みにじられた人たちの声は矮小化されても良いということでもないはずです。

同日、伊藤さんの代理人を務めた西広陽子弁護士は、日本外国特派員協会での記者会見において、伊藤さんに対し「ルール、モラルを守るべきだ」と訴えました。

声明文、VOGUE JAPAN、BBCの記事に出てくる「日本へのラブレター」という言葉が薄っぺらいのは、他者の権利を踏みにじったまま一方的に愛を伝えているように見えるからです。
相手の同意を得ぬまま一方的に愛を伝えるという行動は、自己中心的で暴力的ですらあります。

日本の女性たちが性被害を告発しにくいことを憂い、「日本のなかで声を上げることは、すごく難しいことだと思います。」というのであれば、どうして日本の女性たちの不利益につながりうる、ホテルの許可を得ずに監視カメラの映像を使用するようなことをするのか。

本作のキャンペーンでいろいろな場所へ旅し、そこで才能にあふれ、多言語を話す、たくさんの日本人女性たちに出会いました。彼女たちが、性加害でなくても何かしらの痛みを感じて、日本を去っていることを日本の社会は認識すべきです。社会の資産となる多くの女性を日本は失っています。

VOGUE JAPAN

と言う前に、日本で生きる、今現在弱い立場にいる女性たちを踏みつけるような真似をしないで欲しいです。


新しいオリエンタリズム

日本での議論や批判が顧みられないまま、この映画が著名な賞を受賞するのであれば、それは、「新しいオリエンタリズム」が評価されたことになります。

世界各地で今も上映されているこの映画は、現在進行系で複数の日本人たちの権利を侵害しています。それが無視されることは、あってはならないはずです。

海外メディアが伊藤さんの発言だけを参照し、日本でなぜ問題視されているのかを見ないのであれば、彼らが「美しい女性被害者と野蛮な東洋」というオリエンタリズム的な欲望を満たしていることに他なりません。

西洋が東洋をまなざす、異質で神秘的、非理性的、エキゾチックなもの、「異国情緒に満ちた未開の地」として描かれるオリエンタリズムの視点は、植民地支配の正当化にもつながるとして批判されましたが、グローバル資本主義の現代では当事者が「オリエンタリズム」を売り物にする。
性暴力をめぐる当事者の戦いが、そのような、虚しいものでないことを、ひっそりと願っています。

かつて伊藤詩織さんは、北原みのりさんとはあちゅうさんとの鼎談で、海外で性犯罪者の更生などを取材する中で再スタートをする機会の大切さに気づいたとして、

だから、彼にも真剣に自分と向き合い、どうしてこうなったのかをきちんと考えてほしい。社会的地位がそうさせるのか、彼が事件と向き合えていないことが残念でなりません。自分を見つめ直して、その経験を社会に生かしてほしい。 本音を言えば、もう彼の姿は見たくないけれど、本当のゴールはそこにあると思っています。

出典:伊藤詩織、北原みのり、はあちゅう「「被害者」のまま生きるのではなく」『Aera』2018年2月26日

と述べました。
かつて「加害者」に向けた言葉を、もう一度思い出して欲しいと思います。

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シバエリ
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