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言葉が詩になるとき―笹井宏之歌集より

短歌というみじかい詩を書いています            笹井宏之

笹井宏之『えーえんとくちから』、筑摩書房、p.2


笹井さんの短歌に出会ったとき、心が現実から離れるような、ふわっと浮くような、不思議な感覚になりました。言葉が短歌の型のなかにおさまっているものの、すごくスケールの大きなものとしておかれているように感じました。辞書でその言葉の意味を調べてもそこには書かれていない、笹井さん自身の言葉として存在しているのではないか、詩のなかでつかわれる言葉には、理屈を超えた意味が含まれてゆくのではないか、そのようなことを考えながら読みました。

ゆうぐれのひとりっきりのうすずみの海の時計のおんぼろの窓

笹井宏之歌集『てんとろり』、書肆侃侃房、p.44


「海の時計」、そして「海の時計のおんぼろの窓」とは何か、とても気になってあれこれ考えてしまいますが、きっと頭で考えてもとらえきれないものだろうと思います。笹井さんの詩の言葉にふれるとき、おのずと心が静かに澄んでゆくように思うのと同時に、笹井さんの詩の言葉は心を研ぎ澄ませないと受けとめられないような気がしています。

海に時計があるとして、その針は何回まわったことでしょう。この歌は、海が抱える哀しみを読みとったものでしょうか。窓はこちらとあちらを隔てるものでですが、向こう側を見ることができます。笹井さんにはその窓が見えて、海の哀しみが見えてしまったということでしょうか…。でも、「ゆうぐれのひとりっきりのうすずみの」と平仮名で表記されているところから、海の哀しみを笹井さんが大切にたいせつに温めているようにも感じます。

風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける

同上、p.45

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

笹井宏之歌集『ひとさらい』、書肆侃侃房、p.82


なんてやさしい歌なのでしょう。

私は、笹井さんの視点は歌の外側にあるように感じました。詠みたいことの世界があるとしたら、その外側にいて、自由に何にでもなれて何者でもない「わたし」をつくりだして歌の中に入れている、そのような感じがしました。その「わたし」の浮遊感が歌に漂う透明感になっているのかもしれません。現実世界の人というより、そこから離れたところにいる自由自在な者として短歌の詩の世界を構築しているように思いました。

だからでしょうか、私は、これらの歌を現実世界から離れたもう一人の私から現実世界にいる私に対して贈りたくなってしまうのです。


最後に、『てんとろり』の帯の言葉を紹介しておわりにします。

  光のように。風のように。
愛する人からの手紙のように。
透明な哀しみがあなたを包む。


お読みくださりありがとうございました。


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