アンティークコインの世界 | 古代ローマの伝説の暗殺者
「古代ローマの伝説の暗殺者」というタイトルの通り、今回はガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺を企てた首謀者が発行したコインを紹介する。カエサルの暗殺を計画した人物は、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスという名だった。彼は古代ローマを代表する有力貴族の家系で、ローマ政界を牛耳る政治家でありながら優秀な軍人でもあった。第一回三頭政治の委員の一人だったマルクス・リキニウス・クラッススの下で兵士として戦った。
カッシウスの上司だったクラッススは既に大富豪だったが、自身のキャリアに欠けていた戦争での勝利という功績を得るため、長らく制圧に難航していたパルティア遠征を計画した。だが、彼はカルラエの戦いでパルティア軍に捕まり、その後殺害された。クラッススは口の中に溶かした黄金を流されるという残酷な処刑によって葬られたと記録されている。ローマの軍団は大将の戦死により機能を失い欠けたが、カッシウスが兵をまとめ上げ、何とかパルティアの進行を食い止めることに成功した。カッシウスは、この武勲によってローマの英雄とされた。
ほどなくしてカエサルがガリア遠征の成功で莫大な富と支持を得ると、ローマにいた貴族たちは彼を敵対視する様になった。地位と名声を確立したカエサルにローマを乗っ取られるのではないか。ローマの貴族たちは共和政の崩壊を危惧し、ローマの名将グナエウス・ポンペイウスを担ぎ上げ、彼をリーダーとした反カエサル組織を結成した。これがいわゆる、共和・元老院派と呼ばれる派閥で、カエサルに反感を抱く者の集団だった。カッシウスもこの派閥を支持していた。
ポンペイウスは兵士及び物資調達のため、ローマを離れてかつてからのツテがあるギリシア方面で挙兵する算段を企てた。カエサルは武装を解除せずにローマに帰還し、都市を占拠した。当時、武装を解除しない状態でローマに入城することは違法とされた。これもまた権力が一人の人間に集中することを嫌ったローマの性格から生まれた法だった。
ローマの制圧が完了すると、カエサルはポンペイウスの後を追い、両者は幾度も激しい戦いを繰り広げた。だが、ファルサルスの戦いが決定的なものとなった。この戦いでカエサルが勝利し、ポンペイウスは敗走を余儀なくされた。ポンペイウスは最後の望みをかけて同盟国のエジプトに向かい、救援を求めた。彼はかつてプトレマイオス12世の復権運動を支援したため、エジプトなら力を貸してくれると踏んでいた。だが、時のエジプト王プトレマイオス13世はカエサル側についた方が優位だと考え、ポンペイウスを殺害し、ローマの内戦は強制的に終焉するに至った。
ポンペイウス側についていた有力貴族たちは、カエサルの軍に追い詰められたが、恩赦を受けて許され、お咎めなしで解放された。この中にカッシウスも含まれており、彼もまた罰を受けることなく、かつてのキャリアを保障された。カエサルは内戦によって、これ以上同じローマ人の血が流れることを望んでいなかったのである。カエサルが採ったこの対応はクレメンティア(寛容)の精神と呼ばれ、彼の慈悲深さを思わせる。それにも拘らず、カッシウスらは最終的にカエサルを裏切り、暗殺に至った。
今回は、そんなカッシウスがカエサルを暗殺した後に発行した一枚の銀貨を紹介する。
ガイウス・カッシウス・ロンギヌスが前42年にフィリッピの戦いに向けて発行したデナリウス銀貨。共和・元老院派を支持する自軍の兵士に支払う給与としてスミュルナの駐留基地内で造幣した。カエサルの独裁政治からローマ市民を解放することを象徴し、自由の女神リベルタスの肖像を意匠に採用している。
下記、本貨の基本情報と歴史背景を述べる。
図柄表:リベリタス
図柄裏:水差し、リトゥウス
発行地:ローマ共和国アシア属州スミュルナ(現トルコ共和国イズミール)
発行年:前42年
発行者:ガイウス・カッシウス・ロンギヌス、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル
銘文表:C CASSI IMP(ガイウス・カッシウス ・ロンギヌス 最高軍司令官)LEIBERTAS(リベルタス)
銘文裏:LENTVLVS SPINT(レントゥルス・スピンテル
額面:デナリウス
材質:銀
直径:19mm
重量:3.7g
状態:VF +
分類:Crawford 500/5, CRI 223, Sydenham 1305, RSC 6
前42年にローマ共和国アシア属州スミュルナで発行されたデナリウス銀貨。本貨は共和政末期のローマ内戦の際、ガイウス・カッシウス ・ロンギヌスとプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルが連名で発行した軍用貨である。
本貨が発行された時、ローマではカエサル派と共和・元老院派の二つの派閥が政権を巡って大規模な内戦を行っていた。終身独裁官に就任したカエサルは権力を独占した状態にあり、事実上の帝王に君臨していた。ローマには、かつてから独裁官と呼ばれる全軍の指揮権及び政治的決定権を有する役職があったが、これは緊急性のある有事の際に限ったもので、任期も半年と限られていた。だが、カエサルはこの役職を終身制にする法案を通し、自らが就任した。これは一人の人間が決定権を握るもので、僭主を意味した。それゆえ、400年近く共和政の伝統を守って来たローマにとって、カエサルの存在は許しがたいものだった。共和政といっても有力貴族たちが市民の代表となって政治を行う貴族制が採られていたため、権力を奪われた彼らが特にカエサルに対して反感を抱いた。
発行者のガイウス・カッシウス ・ロンギヌヌスは、カエサルの暗殺を企てた首謀だった。彼は共和政の験担ぎとして、マルクス・ユニウス・ブルートゥスを暗殺計画に誘った。ブルートゥスが共和政の創始者ルキウス・ユニウス・ブルートゥスと同じ氏族・家族名を持ち、その末裔と伝承されていたからである。共和政の創始者ブルートゥスはローマ神話の登場人物であり、モデルはいたにしても、その存在が確かだったかは危うい。当然、ブルートゥスがその血を継いでいるはずもなく、両者の関係性は名前が一緒ということだけで はあるが、当時の貴族は神話上の神や英雄の末裔を自称することで、自らの出自の良さや正当性をアピールする傾向にあった。
カッシウスがブルートゥスを暗殺計画に誘った理由は、決して裏切らない信用できる関係性にあった。カッシウスとブルートゥスはローマ政界の同僚であり、義兄弟の関係にあった。ブルートゥスの異父妹ユニア・テルティアは、カッシウスの妻であり、親戚関係にあった。カッシウスの方がブルートゥスよりも二つ年上ではあるが、彼らは年も近く、同じ志しを持った親友と言える関係性だった。
本貨のもう一人の発行者であるスピンテルはエトルリア系の有力貴族であり、カッシウスの部下だった。スピンテルという名は、同名の舞台役者に容姿が似ていたことから付けられた。共和・元老院派を指示していた彼は、ローマから亡命して来たカッシウスと合流し、スミュルナで連名により本貨を発行した。
本貨の図像に注目すると、表裏共にメッセージ性の強い意匠が採用されている。
表側にはリベリタスの肖像が描かれている。彼女は古代ローマの自由の女神だった。自由の女神の図案は、カエサルの独裁政治からの解放、すなわち市民の自由を象徴したもので、カッシウスらは敢えてこの図柄を採用している。リベルタスはフードを被った姿で、髪飾りと首飾りを身に付けている。この姿はローマ人の宗教儀礼の正装だった。ローマの神祇官は皆このような格好をしており、前44年にカエサルが発行したデナリウス銀貨でも、彼はこの神祇官の装いで自身の肖像を刻ませている。
また、女神の周囲には「C CASSI IMP(ガイウス・カッシウス ・ロンギヌス 最高軍司令官)」と「LEIBERTAS(リベルタス)」のラテン銘文が刻印されている。「IMP」とは「IMPERATOR(インペラトル」の略称で、コインは面積が限られているため、このような省略表記が行われる。当初は将軍が戦勝を挙げた際に部下がその功績を称えて叫ぶ掛け声だったが、時代が下ると将軍の称号及び役職名となり、軍の最高司令官の意味合いとなった。この称号は帝政時代に入ってからも引き継がれ、ローマ皇帝は即位した時点で、この称号が自動的に付与された。
前述したラテン銘文による刻印は、本貨が最高軍司令官を務めたカッシウスによって発行されたものであり、ローマの自由を求めた戦いのために発行されたものであることもアピールしている。
裏側には発行者スピンテルの名を示す「LENTVLVS SPINT(レントゥルス・スピンテル」のラテン銘文が刻印されている。その上部には、水差しと儀具リトゥウスが描かれている。これらは鳥占官が使用する道具であり、スピンテルがラテン語で「アウグル」と呼ばれた鳥占官の役職及び称号を有していたことを象徴している。鳥占官は、鳥の動きによって戦争の勝敗を占う役職で、古代ローマでは重要な役職とされていた。この役職に就いていた同時代の著名人は、カエサルの副官だったマルクス・アントニウスが挙げられる。
カッシウスは、ブルートゥスと共に歴史に名を残すローマの英雄として知られている。共和政末期の有力者たちが発行したコインはどれも人気があり、高く評価される傾向にある。カッシウスが発行したコインもそのひとつである。デナリウス銀貨は直径20mmにも満たず、重量は4gにも達しない。そんな小さな銀貨ではあるが、奥深い発行背景や発行者の意図を有している点が極めて興味深い。古代ローマコインは日本ではまだ知名度が低く、取引もさほど盛んではないジャンルだが、2000年近い歴史を持つ点ではどんなコインにも引けを取らない存在と言える。
Shelk 詩瑠久🦋