夜行バス添乗員の世界
約10年前。大学生のころ、私は色々なアルバイトをしていた。カフェ、ビアガーデン、ファミレス、スーパーの中にあるパン屋、テレビ局が運営するイベント、引越し、ライブの設営・解体など、長く続けたものもあれば、単発日雇いのようなものもあった。
中でも、特にコスパに優れていたのが、スキーやスノーボードの夜行バスツアーに同行する、添乗員のアルバイトだ。
天国のようなアルバイト
毎年12月から2月ごろまでは、東京の新宿や池袋を出発して、新潟、長野、群馬などのゲレンデに向かう夜行バスツアーがコンスタントに組まれていた。
ツアーの数が多いので、この時期は希望すれば大体の場合シフトインすることができた。給料はというと、現地でも1泊する2日間の場合は2万円、日帰りの場合は1万円。現地に着いた後の仕事はほとんどなく、お客さんと同じく1日中スノボやスキーを楽しめる。そしてなんと、リフト代が出る。太っ腹だ。
主な仕事は、出発時の点呼、サービスエリアでの休憩時の誘導、帰りに書いてもらうアンケートの回収の3つだ。
基本的に、行き帰りのバスの中で多少業務があるくらいで、スキー場についてしまえば自由。勢い余ってマイボードを買ってしまうほど、当時はスノーボードに熱中していた私にとって、天国のようなアルバイトだった。
深夜のサービスエリア
しかしながら仕事なので、やるべきことはやらなければならない。私がちょっと嫌だったのは、出発する時の挨拶だ。
本物のバス添乗員さんのごとく、マイクを持って喋る。
参加者の大多数は大学生で、誰も私の話なんか聞いていないと頭では分かっていても、多くの視線がこちらを向くと緊張する。人前で話すのが苦手だったので、この時間が終わると妙にやり切った感があった。
夜行バスツアーの場合、大体3回はサービスエリアで休憩をする。普通に行くと早く着きすぎてしまうので、時間調整の意味合いも大きい。お客さんが外に出る際、ホワイトボードに戻りの時間を記載して立っておく。これが2つ目の仕事だ。
このアルバイトをして初めて知ったのだが、場所によってはトラックや高速バスのドライバー専用エリアがある。添乗員である私もこのエリアに入れてもらい、夜食を食べる。なんと料金は会社持ちだ。
ジャンプ台ガチ勢
スキー場に到着するのは、大体朝7時ごろ。リフトがオープンするまで少し待って、ゲレンデに飛び出す。何かトラブルがあったら対応することにはなっていたが、私の勤務中にそれらしきことが起こったことはほとんどない。
黙々とリフトに乗り、頂上付近まで上がって一気に駆け降りる。独りであることが寂しいとか、つまらないとか思ったことはなかったが、回数を重ねるごとに雪山をただ滑り降りるだけでは物足りなくなってきた。
そこで、思いきって「キッカー(ジャンプ台)」にチャレンジすることにした。クルクル回転することはできなくても、普通に飛ぶことができるだけで気持ちいいだろう。大学の友人たちと遊びに行った時に自慢したい。
しかしながら、これがかなり難しい。普通にジャンプするだけなら1日でできるようになるだろうと思っていたが、甘かった。飛ぶ直前に躊躇して減速したり、飛ぶ際の姿勢が崩れたり、着地の際に転んだりと、上手くいかない。
何度も失敗しては、下のリフトに並ぶというのを繰り返していると、後ろから肩を叩かれる。
ゴーグルをかけていて顔は全く見えなかったが、イラつきが滲み出た声でそう言われた。全身黒ずくめの、おそらく20代後半くらいの男性だ。なんと返したかははっきり覚えていないが、多分小さい声で「すみません…」と言った気がする。恐らく、私のような初心者が転んで、キッカーの周りが荒れるのが嫌なのだろう。
完全に萎縮してしまったが、少し時間が経ってフツフツと憤りを感じ始めた。奴を含め、最初は誰だって初心者じゃないか。
リフトに乗りながら悶々としていると、ゲレンデの中でも一際大きなキッカーと、そこに向かって進んでいく人が見える。先ほどのスノーボーダーだ。
奴は、かなりのスピードでキッカーに突っ込んだと思うと空高く舞い上がり、横に縦に何回転もグルグル回っていた。なるほど、ガチ勢だ。しかもかなりの。
その日は自重し、普通に滑ることにした。
迷子の男子高校生たち
大体の場合、帰りは夕方17時ごろにゲレンデを出発する。朝に集合の時間を伝えていることもあるが、遅れる人はほとんどいない。
しかしある時、男子高校生5人のグループが、集合時間になっても一向に現れなかった。泊まっていたホテルに聞いても、戻っていないらしい。
これ以上待つとなると、他のお客さんに迷惑が掛かってしまう。そして何より、高校生たちの安否が心配だ。バックカントリー(管理区外の自然地形)に入って遭難でもしていたら、まずい。
ドライバーさんや会社と相談するものの、中々結論が出ない。段々と、「いつになったら出発するんだよ」という苛々とした空気がバスの中に漂い始める。実際口に出している人もいた。添乗員である私に対して、早く決断しろという冷たい視線が向けられ始めたとき、目の前のゲレンデからスノーボードを担いでドタドタと走ってくる集団が現れた。
ホッ、彼らだ。後で話を聞いたところ、単純に迷っていたらしい。怪我などもしていないようで、安心した。
これが、私がアルバイト中に遭遇した数少ないトラブルだ。後にも先にも、40人くらいの人からクレームめいた視線を一度に浴びたことはない。
台風や地震で電車が運休したり大幅遅延した時、乗客に詰め寄られる駅員さんは、こんな状況にしょっちゅう遭遇しているのだろうか。
ドレッドお兄さん
別のゲレンデで、懲りずにジャンプの練習をしていると、たまたまリフトが一緒になった若めの男性に話しかけられた。フードの隙間からドレッドヘアーが覗いている。ガチ勢の匂いだ。
私は身構えたが、なんだかフレンドリーだ。私の下手なジャンプに文句を言いに来た訳ではないらしい。
話によると、ドレッドヘアーのお兄さんは私と同い年で、ゲレンデ近くの旅館に住み込みで働いているという。そしてその旅館は、私が今日泊まるところだ。
向こうも長らく1人で退屈なのだろう。夜に部屋で飲もうと誘われた。同性だが、自然でさりげない誘い方が格好良い。近くにコンビニなどはないので、旅館のお酒を提供してくれるのかと思ったが、予想は外れた。
私が部屋に着くなり、外側に小さな柵が付いているタイプの窓をおもむろに開け、そこから何種類もの酒瓶を取り出した。
聞くと、旅館のお客さんたちが残していったものらしい。なるほど、いろいろ種類はあるが、すべて少ししか入っていない。「久保田」と書かれた一升瓶に入ったほんの少しの日本酒を、クリアカップに入れてちびちびと飲んだ。何を話したかはほとんど覚えていないが、とても楽しかった気がする。
夜行バスの添乗員。今は存在しているのか分からないが、もしサラリーマンを辞めることがあったら、またやってみたい。