人生をゲーム化する100の方法(3):能力値を上げる
運動は最強だ……やることができれば
前回の記事が健康管理に関することだったので、必然的に運動についても触れていく必要がある。ゲームで言うならば、使用キャラクターのステータスに関する話だ。
社会人になると、意識的にやろうとするか、一緒にやる人間が周りにいないかぎり、どうしても運動不足になりがちだ。というか一般論はわからないが自分自身は間違いなく運動不足である。うっかり編集やらライターやらを生業とすることになったおかげで、デスクワークが生活の大半を占めるようになり、気づけばスーパーへの買い出しと保育園への送り迎えぐらいしかやっていない。そこに加齢による新陳代謝の低下と、暴飲暴食(および栄養失調)が重なるので、そりゃ太るし健康上の数字も下がる。
ということで運動である。運動は実のところそこまでダイエット効果はないと世間では言われているっぽいが、それでも運動することによる効果は絶大であると、最近読んだ『脳を鍛えるには運動しかない!』に書いてあった。
この本によると、運動するとホルモンバランスが整うし、いろいろ自分を活発にしてくれるもの(ドーパミンとノルアドレナリンのはず)が放出されるので、人生に対して前向きになれるうえに頭も良くなる。
実際、自分が見聞しているかぎりでそれは正しい。大体自分の頭が回っていないというときは、運動不足と栄養失調と睡眠不足が原因である。そして運動をすることにより、睡眠の質も上がるし、栄養についての意識も高くなるので、栄養失調も改善する(?)。いい事づくめである。
また、自分はADHDの傾向が強いと自己分析しているし、多分病院に行けばそういう診断がつくと思われるが、そういう傾向を持つ人にとっても運動は効果的に働くようだ。ADHDだけでなく、うつやパニック障害についても、ある程度のところまでなら運動で改善が見られると書かれており、もはやこりゃ運動する他ないという気持ちにさせてくれる本なのでおすすめである。
で、問題はどうやって運動をするのか、そして継続するのかということになる。この問題に、私たちの多くは(というか私も含めて)、常に悩まされている。
継続するかしないか、それが問題である
いざランニングをはじめた、いざジムに行きはじめたと言っても、それが続く人はどれぐらいいるのだろう?
ちゃんと調べていないので定かではないものの、せっかく高いお金を払ってジムの会員権をゲットしても、何かと言い訳をつけて行こうとしない人というのは割と観測されるので、想像以上に多いのではないか。
ましてや、自分の意志だけでなんとかやろうとするジョギングに関しては、お金を払っていない分、よりやめることへのコストが軽いと言える。自分自身、思い立ってジョギングを習慣化しようとして失敗したのは、一度や二度ではない。ほぼ気づいたらやめているといっても過言ではない。ジムに関しては、妻と一緒に一時期やっていたのでまだ継続できていたものの、結婚式という当面のゴールを達成した時点でやめてしまった。あれからジムに行く気配は微塵も見せていない……。
このように、運動を継続するというのはかなり負担がかかるものである。こういうとき、人類が取るべきルートは主に3つだ。(1)諦めるか、(2)強制力をもたせるか、(3)遊び化するかである。
「意志力を使う」は「諦める」と同義である
諦めるは最も簡単であり、それゆえ最も選ばれるルートである。ただ、運動を始めるというのはそれなりの認知・心理的コストを支払っているので、ここを安易に選択してしまうのは収支に見合っていない気がするし、なによりもう一度運動を始めようとするときに大きな負担がかかってしまう。ちょうど一度止まった自転車を漕ぎ始めるのが大変なように。ということで、私たちに課せられたミッションは、全力でこのルートを選ばないようにすることである。
ここでやってしまいがちなのが、「意志力」だけでこのルートを回避しようとすることだ。人間の意志なんて相当ちっぽけなものなので、基本的に当てにならないと考えたほうがいい。
意志の力でなんとかできるのは、それを続けることがその人のアイデンティティに深く関わっているときぐらいなのではないか?その行動をやめたとき、その人のアイデンティティが失われるのだとしたら、相当な認知コストを支払うことになるので、おそらく継続するだろう。逆にその行動がアイデンティティのレベルにまで組み込まれていない場合、遅かれ早かれその行動は途切れる。
ではどういうふうにアイデンティティ化するのか?となると、なかなか難しい話になる。卵か鶏かみたいな話だが、人は費やした時間の多いものを自らのアイデンティティとみなす傾向があるので、そもそもあまりやっていない運動が自分のアイデンティティになることはほとんどないはずだ。
よほど憧れの人がその運動をやっているとか、好きな漫画のキャラクターと同じ行動を取り続けたいとか、そういうレベルの奇人であればアイデンティティレベルに運動を組み込むことができるかもしれない。が、そうでなければ難しいだろう。
ということで、一般的な人は(2)か(3)のルートを取ることになる。
強制力という「環境」を構築する
(2)のルートは簡単で、要するにジムでパーソナルトレーナーをつけるとかそういう話である。ライザップのようなサービスに需要があるのも(最近はあまり経営的にうまくいっていないようだが)、こういう強制効果に対するニーズがあるからだ。
わざわざお金を支払わなくても、友人や親にお願いするよう頼んだっていい。いずれにせよ自分の意志力に頼らず、他者やシステムに頼るというのは王道だ。学習というのは、誰かとやったほうが捗ったり、効果が高かったりする。それは運動にも当てはまる。
ある意味で、自分がやろうと思える環境を構築する、と言い換えてもいいのかもしれない。多分、これが一番効果的に働くと思うし、最初はいやいやだったとしても、ある程度強制されていくうちに習慣化され、やがてはその人のアイデンティティに組み込まれることも期待できる。
もちろん、他者という環境を「利用」するときは、その対人関係が良好でなければうまく機能しないどころか悪影響になるおそれもある。ただ、うまく使える状況下であれば、自分に行動を強制できる環境を生み出すというのは王道といえる。
ゲームが染み出して現実がゲームになる
では(3)の「遊びにする」は?
チームスポーツであれば(2)の要素も入ると思うが、基本的には意志力はあまり用いず、個人の力だけで突破できるようにするミラクルがあるとしたらこれしかない。ただ一般的なテレビゲームや遊びと異なり、エクササイズというのは身体的な負荷がかかる。ボールを投げるなどの球技であれば、まだ単独で「遊び化」しやすいように思うが、単なる筋トレやジョギングを遊びに変えるのはなかなか難しい。
だが『リングフィットアドベンチャー』はそれを達成した。少なくとも強制力を伴わない1人でやる筋トレやジョギングという文脈で、これほど鮮やかに人を熱中させたシステムは他にないのではないか。
めちゃくちゃ有名なゲームなので特に解説はいらないと思うが、アメリカに留学していたときにこのゲームを紹介したら、意外と知らない人が多かったのでちょっと驚いた。アジア系の学生は知っている割合が多くて、アメリカ人は少なめだった印象がある。
いわゆるゲーミフィケーション、ゲームフルデザインという観点では、自分のなかでこのゲームがまっさきに優れたデザインとして思いつく。そして何が優れているかを考えたとき、「本当にさまざまな仕掛けがある」という多層性が肝なのではないかと思い至る。
一昔前はゲーミフィケーションというと、バッジやポイント、順位表を活用しているだけで、全然ゲームっぽい体験になっていないよねという批判があった。
『リングフィットアドベンチャー』はどうか。『リングフィットアドベンチャー』も、じつはバッジやポイント、順位表というものを活用している(順位表要素は本筋ではないので、ちょっと隠れコマンド的な感じはあるが)。だがそれ以上に、この体験を「ゲームらしく」感じさせる仕掛けに満ちあふれている。
もっともそれが体現されているのが、センサーの存在だ。自分のアクションをそのままゲーム内で反映させ、数値化できるテクノロジー。これこそ運動を、ひいては人生をゲーム化させるうえでのキーパーツにほかならないなと、このゲームをプレーしていて強く感じる。結局、これまでも書いてきたように、自分の行動が可視化されるかされないかで、それがゲーム化するかどうかが決まるのだ。
自分の運動がそのままゲーム内での移動や攻撃につながり、そしてその移動や行動にはゴール達成や敵の殲滅という確固たる「目的」がある。これが、なかなか目的にたどり着かない(見えにくい)エクササイズやジョギングのモチベーションとなってくれる。
あと「ゲーム内での目的」と「現実世界の目標」がズレて表現されているのも地味によい。ちょっとこれは表現しにくいが、なんか現実の目標ばかり追いかけているとたどり着かないのに、別の目的にデコレーションされていると、いつの間にか達成できているという、そういう瞬間が人生にはある。
学習科学的に見ても、いろいろと優れているところは多い。たとえばレベリングのデザイン。運動はなんだかんだ結構きついので、途中で行き詰まってしまったら、そのままゲームとおさらばということが高確率でありうる。そのことを事前に見越していた任天堂は、ほぼ途中で失敗しないような設計にしている(変な縛りプレーをプレイヤー側がしかけていた場合は別として)。学習科学っぽい用語を使うのであれば、scaffolding (足場かけ)がしっかり施されている。
と語りだすときりがないぐらい、よくできている『リングフィットアドベンチャー』。僕が特に好きなのは、匿名掲示板の初期の『リングフィットアドベンチャー』スレッドが、ほぼ筋トレとプロテインのスレッドになっていたことだ。あれこそ「人生のゲーム化」にほかならないのではないか。
「自分が世界に影響をもたらしている」という感覚が没入感を生み出す
あと、VRゲームについても身体を動かすものが多いので、今後に期待がもてそう。有名所でいうなら『Beat Saber』のような音ゲーも、やっていると結構汗をかく。汗をかくということは有酸素運動になっているということ……のはず。
このあたりはまだ未開拓だけども、『リングフィットアドベンチャー』にも『Beat Saber』のような音ゲーにも通じているのは、自分の行動が画面上で別の形で(『リングフィットアドベンチャー』なら戦闘として、『Beat Saber』ならビートセーバー状のものとして)表現されており、それらが連動してフィードバックが返ってくるという点である。
現実がゲーム内空間と連動して動いているという意味で、『リングフィットアドベンチャー』が時としてVR以上の没入感をもたらすのもそれだし、逆にいうとVRを使っていてもフィジカルフィードバックがないもの、「自分が世界に介入できている」感覚がないものは、そこまで没入感を感じることができない。
「人生のゲーム化」という観点でいうと、没入感は極めて重要なことだ。そもそもゲームというのは、「それが仮想であるということがわかっていながらも、なお没入して楽しむことができ、終わったらふたたび別の世界(つまり現実)に変えることができる」というものである。
没入できないものはゲームにならない。そして没入できるということは、「自分が世界に影響力をもたらすことができる」感覚と置き換えてしまってもいい。逆に言えば、影響力をもたらすことができない世界に、人は没入することができない。たとえそれが現実であったとしても。
「自分は世界に影響をもたらすことができる」という感覚は、そのまま自己肯定感にも直結する。逆に言えば、現実から目を背けてゲームの世界に閉じこもっているときは、あまりにも現実世界に対して自分が影響力を発揮できないから、影響力を発揮できる別の環境で活動しているということなのかもしれない。