庵野秀明『シン・仮面ライダー』/仮面を被り成熟すること
庵野秀明監督が池松壮亮を主演に迎えて「仮面ライダー」をリメイクした『シン・仮面ライダー』。幼少期に平成ライダーに親しんで以降、当たり前のようにそこにあった仮面ライダーの"仮面"の役割をあらゆる角度から捉え直し、庵野秀明の作家性と色濃く繋がったとても興味深い1作だった。
仮面の役割
本郷猛(池松壮亮)は出てきて早々と緑川ルリ子(浜辺美波)に"コミュ障"とラベルを貼られる。本郷は仮面を被って甚大な力を得ることになり、心を閉ざし対話を拒否しようが何事もどうにでも出来るというコミュ障にとっては願ってもない状況に置かれる。しかし彼はその力に怯え、戸惑い続ける。
そして仮面は小出祐介(Base Ball Bear)が評するところの”改造人間としての孤独と悲しみ“を隠す役割を持ち始める。元々社会に馴染めていなかった本郷が、更なる不幸を背負い姿を隠すために仮面を纏う苦しい描写だ。しかし彼は隣にいたルリ子を守るという理由を胸にヒーローになることを選ぶ。
そして仮面はヒーローとしての役割を示すものに変わる。本郷を常に襲う小刻みな震えを隠し、自らをヒーローに変えるための重要な存在になった。そして仮面は彼の優しさを守る役割も果たしているように見えた。だからこそ戦うだけでなく、彼は対話を試みようとする。どんな瞬間でも、である。
だからこそ彼が最後に、なんとしてでもチョウオーグ(森山未來)と対話を行うためにみっともないほどに取っ組み合いを続ける姿がこのうえなく胸を打つ。その仮面が担ってきた様々な役割が巡り巡って最後の最後に、人と人が対話する世界を守るためにチョウオーグの心を解きほぐすに至ったのだ。
仮面と共に人生を生きること
成熟を拒否するという作風を貫き通してきた庵野秀明の心象風景とも言える『エヴァンゲリオン』シリーズも、2021年の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で対話を通して成熟に至った。『シン・ウルトラマン』にもややその傾向はあったが、『シン・仮面ライダー』は最もその成熟を感じ取れる。
それはやはり、仮面を被るということとワンセットの対話・対人関係が描かれていたからかもしれない。人は誰しもがいつでもありのままで世界と渡り合えるわけではない。ありのままを分かってくれよ、と承認を求める仕草はそれこそとっくの昔に「エヴァンゲリオン」で繰り返し描ていきたことだ。
だからこそ『シン・仮面ライダー』では世界を生きる上で時に仮面も被るということを尊重しているように見える。等身大の、仮面を被ったヒーローだからこそ伝えられる、不器用ながらもできる限り"自分のままでいられるため"に自分の心を守っておくことの重要性が刻まれているように思うのだ。
最終盤、本郷の意思を受け継いだマスクを手に取り、2号ライダー一文字隼人(柄本佑)が「心スッキリだ」と呟く姿は印象深い。あの仮面に宿った本郷が守り抜いた優しさを彼は受け取ったのだろう。仮面を被ったままで成熟するという庵野秀明らしい眼差しで、人と人との対話を泥臭く描いていた。
庵野秀明の次作は白紙なのだという。人と人との対話を具体的なレベルで捉え始めた彼が次に描くとするならば、それは「シン・ラブ&ポップ」ではないだろうか。トー横、ぴえん、ブロン遊び…..自傷と退廃に満ちた今の10代を”対話”と"優しさ"を介して捉える、そんな映画を想像したりしてみる。
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