記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

鏡を覗く、誰かと繋がる/森井勇佑『ルート29』【映画感想】

森井勇佑監督による長編映画第2作『ルート29』が桁外れに素晴らしかった。綾瀬はるかを主演に迎え、そのバディとして前作『こちらあみ子』で主人公を演じた大沢一菜を引き続き抜擢。その意外性のある組み合わせで紡がれるのは、およそ明快さとは無縁のストレンジな幻想譚だった。

《あらすじ》
鳥取の町で清掃員として働く中井のり子(綾瀬はるか)は人と交流せず、思ったことや感じたことを日記に書きつける日々を送っていた。ある日、のり子は清掃の仕事で訪れた精神科病棟で、患者の理映子(市川実日子)に話しかけられ、姫路にいる娘・ハル(大沢一菜)を探し出して連れてきてほしいと頼まれる。そして出会った2人は姫路から鳥取まで続く、国道29号線を旅する中で様々な出会いを果たしていく。

このあらすじで確かに間違いはないのだが、このプロットだけでは到底語り切ることのできないイリュージョンに満ちたシーンだらけの怪作でもある。最初の印象は“劇場版ランジャタイ”。これ以上展開しないでくれ!と思うほど難解な内容だったが、じっくりと反芻する内にその凄みに圧倒された。その思考の記録をここに書き残したい。



死と様々な象徴

理映子「とうとうもうじき、わたしは死にます」

理映子「生まれてからずっと、この気分にくるまれてきました。でもいつも裏切られてきました。今度こそは、信用していい気がしています。今度こそ本当にとうとう死ぬのです。」


「ルート29」公式パンフレット内の決定稿より

ハルの母親・理映子はぼんやりとした希死念慮(=死にたい気持ち)に囚われて生きてきたようだ。そんな気分が結果的にハルとのり子を引き合わせてこの物語は動き出す。とすればこの映画のシナリオは理映子が抱える希死念慮を見つめ、それといかに向き合うかという点が核になる。

映画冒頭で示されることだが、トンボは綺麗な円形をした脳腫瘍を抱えており、彼女もそもそも死の際に面している人物だ。一方、もう1人の主人公であるハルは生も死も一緒くたに捉えるような自由で豊かなイマジナリーを抱えている。のり子はハルにトンボという特異な名をつけられ、2人はバディとなる。特別な名前で通じ合うこの2人の瞬間的な調和が、映画全体を包む希死念慮を時に乗り越え、時に飲み込み、時に抱きしめる。


2人の旅路には死、および様々な苦難の象徴が満ちていく。例えば赤い服の女(伊佐山ひろ子)。飼っている3匹の犬のうち、逃げた1匹を捕まえたいという目的でトンボから車を奪い去る。犬は本来、従順や忠義の象徴だがその行動次第では逆説的に“裏切り”のイメージが浮かぶ。この一連は現実世界の絶望たる裏切りを象徴しているように思う。

しかしこうした負の攻撃も2人は軽々躱していく。トンボのつけていた日記を失うことで俗世からさらに遠のき、徒歩で進まざるを得ない道のりの中で2人は次第に強く心を通わせるようになる。死の際へと誘い込むという理映子の思惑通りにはなかなか進まない。むしろ、その無垢なエネルギーを保ちながら生死の境界を跳ね歩くのだ。

その後に出会う、逆さまの車に乗っていた物言わぬじいじ(大西力)はまさしく死にきることなく現世に留まった死の象徴である。彼はなぜか2人をついていく。彼を連れて歩くことは擬似的に死と接近することに等しいが、それをも気ままに手懐けるハルの飄々とした空気とトンボの何事もなく受容する姿勢が死をも徐々に生の側へ取り込む。

思い返すとじいじと歩き始めてすぐ、ハルはトンネルを通りたがらない。穴を通るということは生まれ直しのメタファーであり、つまり一度死ぬことを意味する。やはり2人は無意識に死に拮抗し続けるのだ。ゆえにじいじは途中で旅から外れる。居るべきあの世へと向かっていき、そしてトンボとハルはこの世を再び闊歩し始めるのだ。


社会の傍道にて

会話が成立する人物が少ない本作の中で現れる森の親子は数少ない対話可能な存在だ。しかし森の父(高良健吾)は「人間の社会は牢獄」という常套句を述べ、「彼らの未来は悲惨です。」という一方的な理由で子供を連れ回し旅をするやや加害性の高い人物にも見える。俗世を拒否しながら旅に出て今が何日間かを細かに記憶している点からも、社会から外れきれなかった存在の象徴と言える。

亜矢子:あんたはぞっとするほど冷たい人間だね。ほんとなんの興味もないんだね。でもわたしはのり子が好き。大好き。

「ルート29」公式パンフレット内の決定稿より

トンボの姉・亜矢子(河井青葉)は2人を優しく迎え入れつつ、トンボに対して両価的な感情をぶつける。彼女は社会義務に励もうとするあまり強く疲弊しており、混乱に至っているのだろう。彼女はトンボとハルの関係に事件性を察し、常識人の発想として通報しようと試みるが失敗に終わる。本作の軌道は社会規範では修正できないのだ。

森の父とトンボの姉は、ハルやトンボの対置にある存在であり、彼や彼女の抱える苦しさもまた現実に対する負の印象を焼き付けていく。しかし、旅を経て夢を共有するまでに呼応し合った2人の前には無力だ。終盤、巨大な赤い月までも登場して死へと誘われるがそれに応えはしない。むしろ喪失の予感が2人の関係性を強固にするのだ。

遂に理映子と2人が対峙する時。開口一番、理映子は「わたしはもう死んでいます」と言い放ち、応答を拒否する。希死念慮に押し潰されたのか、ないしは妄想に囚われいるのかは判断できない。医学的には生を保っている彼女だが、精神世界においてはそのバランスは保てず、現実が呼び寄せる声を遮断して“死”に自らを固着させたのだ。

ハルはそこでおもむろに取り出した笛を吹く。すると理映子も同じ形の笛を取り出して同じように吹く。言葉や声は途絶されたが、伝わる音は僅かにあったのだ。それだけでも1つの希望だが、重ねてハルは「死んでてもええからまた会おうな」と軽やかに呼び掛ける。精神世界の死をも飲み込んでしまう、彼女の隔たりなきエネルギーが溢れる。

ハルは「恐竜の化石で作られた針を持つ時計」を直前に手に入れていた。時間を止めた物体が、再び時間を刻んでいるというこの皮肉な循環も彼女の手にかかれば祈りとなる。ハルが語った壊れてしまった母親の姿。彼女の止まった時間を少しでも動かすための笛の音。希死念慮は消えずとも、共生はできるのではないかという意志表示だ。


あみ子 will look into the mirror

映画は最後にハルとトンボの別れを描き終わっていく。ハルは抵抗していたトンネルを車でくぐる。姫路から鳥取方面へ、序盤とは逆向きである。死ぬこともなく、生まれ直すこともない。来た道を逆にハルは帰っていく。母に会うことを無意識に抵抗するように遠回りし続けた道程の先、トンボとの出会いを胸に元の場所に戻るのだ。

旅の終わり、ハルは山道を泳ぐ巨大な魚と出会う。ハルとトンボが見たものも夢も"砂漠で魚が泳ぐ"というもので、母親と通じ合った笛は魚の形をしていた。魚はメルヘンの世界で無意識からのメッセージを司る存在だ。同じイメージを共有し繋がり合う個々の関係性を抱きしめるように最後に魚が現れるのはとても象徴的である。ラストシーン、トンボが振り向きざまに観たものは明示されないが2人ならどんなものでも共に幻視し得るはずだ。


ここで思い返すのは森井監督の前作『こちらあみ子』のことだ。継母とうまくいかず、学校でもトラブルを起こし、奔放なエネルギーで周囲を振り回す、ハルと同じ大沢一菜演じる主人公・あみ子。ハルの人物造形にもあみ子は重ねられているように思う。またあみ子も生死の境目なく世界に触れることができ、様々な"霊"を感知する。

しかしあみ子はずっと1人だ。成長に伴って学校という社会からも疎外され、そして家族すらも扱いきれなくなる。誰からも応答されなくなり、訪れるタフで寂しい結末。あのラストシーンを知っているからこそ、魚を通じて繋がる血縁の絆と、血縁でない絆の両方の肯定に胸が震える。あみ子までも救い出す、時空を超えた温かさだ。


見えない新しい 思いに
Everytime I look into the mirror,mirror,mirror

Bialytstocks「Mirror」より

エンディングテーマとして書き下ろされたBialystocks「Mirror」。"鏡を覗き込む"ということが繰り返し歌われる曲だ。まさにハルとトンボは、鏡合わせのような関係性だった。よく似ているが、正反対でもある。互いを見つめ続けることで1人じゃないと知る。拠り所となるものは家族だけじゃないと知ることができたのだ。

他者を知ることで自分を知ることができるということ。関わり合いの中でこそ育まれる優しく成熟した心があるのだと本作は讃える。はぐれものを孤独の中に置いて大きな問いを残した『こちらあみ子』から2年経ち、その世界にもう1つの孤独な魂を持ち込んだのが『ルート29』と言える。あの時、あみ子が覗き込んでも何もなかったであろう鏡の中にこんなにも光が満ちていた。そんな存在しないシーンのことを想像して、不意に涙がこぼれるのだ。



#映画感想文#ネタバレ#映画#映画レビュー#映画感想#映画鑑賞#映画備忘録#映画紹介#映画の感想 #ルート29 #森井勇佑 #綾瀬はるか #大沢一菜 #こちらあみ子 #Bialystocks #邦画

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集