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『LAMB』〜不安なのに笑っちゃう/笑っちゃうのに不安、の心理

映画『LAMB』を観た。アイスランド・スウェーデン・ポーランドの合作で、"禁断のネイチャースリラー"とコピーが打たれている。第74回カンヌ国際映画祭のある視点部門で《Prize of Originality》を受賞し、アカデミー賞国際長編部門アイスランド代表作品にも選出されるなど高い評価を受けた。

<あらすじ>
アイスランドで暮らす羊飼いの夫婦、マリアとイングヴァルがある日いつものように羊の出産に立ち会うと、羊ではない“何か”の誕生を目撃する。2人はその存在をアダと名付け育て始めるが——。

「ミッドサマー」を送り出したA24が配給、という触れ込みが至るところに書いてあるので、とんでもないものが来るのでは?と期待して臨むとちょっと思ってたのと違う、という感想になるはず。異様な映画ではあるがいかにも怖い物語を怖がらせながら進行していくタイプの映画というわけではない。

予告で何となく分かるはずだが、羊でない"何か"とは「羊の顔と人の体(右手は羊の蹄)の生物」なので、それと対峙する状況になればかなり恐ろしいはずで、たじろいだり叫んだり、冷静な人なら保健所に連絡するとか病院に連れていくとかいう選択肢が浮かぶだろうが本作での主人公夫妻は(もちろん理由はあってのことだが)、神からの贈り物としてすんなり受け入れ育て始める。

この時点で多くの観客が、登場人物と心境を重ねたりその状況に身を置いたりして一緒に驚き怖がる、というホラー映画らしいリアクションを出来なくなってしまうだろう。“子供羊”であるアダちゃんとマリアとイングヴァル、スクリーンに映る登場人物に対して、不安な眼差しを向けることしかできなくなる。この居心地の悪さこそ、「LAMB」の特別さであると思った。



笑ってしまう要素


人里離れた山奥で異形の存在と交流するというのは神話/おとぎ話/昔話的であり、SFムードもあるため不安さはありながらもマリアとイングヴァルと一緒ににいるアダちゃんの存在を受け入れることは容易い。アダちゃんへの違和感が加速するのはイングヴァルの弟・ペートゥルが現れてからだろう。

ペートゥルは思いっきり俗世の雑味を引き連れて物語にやってくるので、ここでようやく観客が感情移入できる人物が来た!と思ったし、僕はきっと彼が恐ろしい目に合うのでは?と推察していた。しかしアダちゃんとの初対面で明らかに訝しげな目を向け「あれは何だ?」とイングヴァルに尋ねたりはするものの、飛びあがったりすることはなく、畏れ慄くことはしない。

ペートゥルの存在はむしろ、この映画を笑いの角度へと曲げていく力を持つ。当たり前のように食卓でパスタを食うアダちゃん、いつの間にかすごく仲良くなっているペートゥルとアダちゃん、大人たちがテレビでスポーツ観戦しているときにやや所在なさげなアダちゃん。この日常への溶け込み方は恐怖を超えて笑うしかなく、どんどん映画の形状が分からなくなってくる。

またそのアダちゃんがだんだんと可愛らしく思えてくるから思わず笑ってしまう、というのもある。微笑ましい、というべきか。言葉を発することはないが、確実にその感情は伝わってくる仕草の数々は幼児のそれとほぼ等しい、ホラー映画に無理やり注入されるコメディっぽい要素はあれど、この微笑ましい的な笑いが入り込んでくることはなかなかのレアケースだろう。というかもうここまで来るとこの映画はホラー映画ではない"何か"なのだ。



恐怖とともに笑うということ

不安な気分の中でふと放り込まれる笑いの要素。先日出た"なぜ人は笑うのか"の研究では、笑いとは人間にとっての警戒解除信号としての役割があると明かされていた。アダちゃんに抱いていた不安がその無防備な姿や周囲の人物の態度によって安心に変わり、その不思議なシーンを笑っていいものだと解釈してふっと笑えてくる。こちらには無害な存在として認識するのだ。


そもそもホラー映画を観るという行動は起こっている事象が画面の向こうにあるものだという安心感とセットになった恐怖を楽しむ快楽行動だ。怖すぎて笑ってしまう、というのも自分に対して安心をもたらすための警戒解除信号なのだろう。『LAMB』には明確にここで笑ってください、というような演出は一切ついていないが、ここまでの張りつめた緊張感と不安感ゆえに制作者の意図以上にペートゥル登場以降はなんだか笑えてきてしまうのだ。

しかし『LAMB』の笑いが厄介なのは明らかにアダちゃんがおどけたりするわけでなく、異形の存在として生活する中で出てくる自然な振る舞いの延長に生まれているという点だ。だからこそ、先ほどまでにこにこできていると思いきや次の瞬間にはやはり得も言われぬ不安感に身を包まれてしまう。

緊張と緩和とは笑いを生み出す定石の状況パターンだが、『LAMB』ではその緩急が読み切れず、ほっこり感と戦慄が静かに波状攻撃を仕掛けてくる。そのうち徐々に自分の気分すらどこにいるのか分からなくなってくる。この幻惑的な見心地。物語に主導権を握られたままいつしか物語は終着点に。そこでも笑うしかないようなことが起き、不安なままエンドロールを迎える。


不安を感じる動物たち

もしかすると観客が最も感情移入してしまうのはアダちゃん一家を見つめる飼い猫や牧羊犬、そして羊たちといった動物たちなのかもしれない。恐怖とも言いきれない、不安げとしかいいようのない表情をし続けている。我々も彼らと同じ。等しくこの物語をじっと見つめることしかできない存在だ。

様々な解釈の余地がある映画だ。親子愛の衝突のようにも見えるし、悲しみのケアの行く先のようにも見えるし、ともすれば最後のどデカいオチのための物語にも見えた。でもあれこれ考えているうちに、全てが濃霧の向こうに消えてくような気にもなる。そして妙に、すっきりした気分にもなる。

こういう作品に触れると、完全に分かり切ることだけが鑑賞体験なのではなく、考察し尽くすことだけが正解なのでもなく、ともすれば自分が抱いている感情すらもはっきりと答えを出す必要などないのだと思わせてくれる。解像度の低い夢のような心地であってもしっかりと心に残ってくる作品。そんな美しさをホラーという殻にくるんで届けてくれる興味深い1本だった。


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