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宇宙を抱える/荻上直子「まる」
先日、広島県福山市にある「神勝寺 禅と庭のミュージアム」を訪れた。ここには「洸庭」と言う建物がある。まるで舞い降りた宇宙船のような造形で、その厳かな存在感に圧倒された。
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この建物の中では、彫刻家・名和晃平によるインスタレーション作品を鑑賞できる。暗闇の中で徐々に浮かび上がる光と波によって、禅の世界を体験するというもの。得難い美しさだった。
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すっかり禅への関心が生まれた折、鑑賞した映画「まる」がまさしく禅、それでいてアートを題材した作品で驚いた。荻上直子監督が堂本剛を主演に迎えて制作した長編作品である「まる」はそのような取っ掛かりから思わぬ境地へと連れ出される映画だった。そこに内包されている宇宙について、書き示しておこうと思う。
消費されること、消費されるもの
有名アーティストのアシスタントを長年勤める売れない芸術家・沢田(堂本剛)。腕のケガを理由にその職をクビになる前から、傾いた部屋の中で不眠に悩まされており、彼の抱えるどろんとした倦怠感を具象化するように、終始夢なのか現実なのかが判然としない奇妙な物語として描かれるのが本作だ。
沢田がたまたま描いた「〇」の絵が、禅画である「円相」として捉えられ世界中でブームを巻き起こしているのが映画の大部分を占めるのだが、その熱が序盤は間接的にしか描かれない。自ら生み出したものが自分を凌駕して膨らんでいく、その不気味さと奇異な高揚感が夢心地で捉えられていくのだ。
沢田は経済的成功を完全に諦めたわけではないのだろうが、そういった欲とは既に無縁に見える。この「〇」は無意識の中で偶然導かれたものであり、無欲の賜物と言える。ある種の昔話のようなメルヘンチックな教訓譚とも解釈できるし、「〇」を導いたアリたちは妖精のような存在にも思えてくる。
そしてそんな「〇」が禅の考えと呼応しているのも納得である。「心が動揺することのなくなった状態」と定義される禅は、執着や我欲を手放すことで辿り着けるものとされる。何かに偏らず、何かに留まれない、そんな状態の沢田が描いた「〇」はそれ自体、まさに無意識的な禅の境地なのだ。
しかしここに現代アートとしての視点が入り込むとなれば、その位相が変ってしまうのが興味深い点だ。従来の価値に対するカウンターであり、社会を反映する現代アートの枠組みに当てはめられると、自動的に意味付けされ、作者本人の無意識など無関係になり、禅の本質は希薄化されてしまう。
今や自己啓発やビジネスにも禅の考えが用いられる時代においては無効かもしれないが、この映画の展開は"アート消費"への毒であると考えた。当然、15分のインスタレーションを見たぐらいでは禅の境地などは達しないと私もしっかり刺される。美しい芸術はあるが、禅修行とは似て非なるものだ。
「〇」は熱狂を生み、消費されていく。自分自身が擦り減らされていくような感覚に襲われ、沢田は疲弊していく。無意識が生み出したものであり、彼自身と深い部分で繋がる「〇」だからこそ、深い部分から蝕まれていく。経済的に成功しても、沢田が眠れる日は来ないまま映画は終盤に向かう。
何もかもなく、何もかもある
沢田の隣室で物音を立て続ける迷惑な隣人・横山(綾野剛)は、成功に対して強迫的に取り憑かれて苦悩している。沢田に執着し、沢田に成り代わろうとするなど侵襲性の強い人物だが、2人の部屋が開通するという象徴的なシーンからも沢田が抱えるある種の別人格、鏡像のような存在と言えるだろう。
また沢田の後輩で、次第にアートを搾取する社会を糾弾する側に回った矢島(吉岡里帆)は沢田の"有り得たかもしれない未来"のようなものだろう。そういった沢田に近接する人物の存在の1人1人を受け入れながら、沢田は自分の内側を見つめるようになる。今度は意識的に、心の宇宙を知ろうとするのだ。
そこで鍵となるのは「〇」に導くきっかけとなった謎の先生(柄本明)である。彼は、質素を追求するという点で禅とも密接に関わる茶道の先生であることが明かされるが、江戸時代の禅僧である仙厓義梵が円相を饅頭になぞらえて描いた書画に絡めて、煩悩の塊である美味しそうなお饅頭を差し出す。
それを齧り、沢田も我々もはたと気付く。甘いものを食べて落ち着く心があることに。欲望と安らぎは実は表裏一体な部分もあるのだ。心の宇宙とは存外複雑なもので、禅だけで全てを捉えられるわけではない。むしろそのどこにも着地しない、結論を出せない状態を抱えることが重要なのである。
かくして、求められる自分を差し出すことをやめ、別の場所へ向かう沢田。しかしそこにも先生が現れ、何か別のものを仄めかす。そう、全ては何もなくとっくに手放しているのかもしれないし、全てがそこにあり逃れられないのかもしれない。その両面を知るのが、宇宙を抱えることなのである。
そしてこの題材を荻上直子監督が撮る意味についても考えてしまった。「かもめ食堂」で北欧ブームを巻き起こし、多くの人の心に刻まれた監督だが、その作風を消費されては来なかっただろうか。求められる"ほっこり"を差し出さざるを得ないキャリアを送ってきてはいなかっただろうか、と。
そう思えば「川っぺりムコリッタ」(2021)、「波紋」(2022)、そして「まる」に至る直近3作は自己批評であり、そして自己セラピーの意味合いがあったのではないか。この境地に達した荻上監督から次に何が放たれるのか。今最も予想のつかない作風の映画作家と言えるだろう。注目し続けたい。
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