それはメタファーではない/「正欲」
精神科診療の中では様々な症状とともに、患者固有の思想や意思、そして欲望とも向き合うことになる。診察を重ねるとつくづく、1人として同じ心の形をしている人などいないと思う。そんな確信を日々、深めている。
例えばただ自分が何者かを知りたいと願っている内に多様な性のあり方をエンパワメントするメッセージに追い詰められたLGBTQの人もいるし、家父長制に苦しめられ望んで離婚した先で困窮し強く後悔している人もいる。どうすれば解決か?という話をしているのではない。人の欲望は必ずしも現代が受け入れる“多様性”に収まるわけではないという話だ。精神を解放に向かわせるとされる選択が持つ加害性は実際にその当事者と話すまで気づかなかった。
他者の欲望について理解することはできない。当たり前のことである。他者のことを分かったようにあれこれ騒ぐ他者たちの存在や分かったつもりで枠に押し込める暴力性について、思考し続けなければならないのだと思う。
そして映画「正欲」を観た。世間一般では”異常だとされている欲望”を抱え、苦しんでいる人々の姿を捉えた作品だ。特に印象的だったのはその姿が世間一般がイメージする“普通の邦画”のタッチで描かれていることだった。
というのも、人に理解されない行動/欲望を描く作品には過剰な演出がつきものだからだ。カンヌでパルムドールを獲った「TITANE」は車に欲情する女性が描かれていたがそれは視覚的な興奮や表現的な斬新さのために捧げられていたように思う。また異色症を描いた「swallow」は出産に拮抗するメタファーとして、家父長制を解体するメッセージのためにその行動が描かれた。
しかし「正欲」で描かれるのはそうした何かを意味するための欲望ではない。ただそこにある欲望を欲望として描くだけであり、深読みや何かメタファーが隠されているのでは?というような解釈を寄せ付けはしないのだ。
ゆえに“異常だとされる欲望”の発露を描くシーンが邦画らしいエモーショナルさで彩られることは当然と言える。”普通の欲望“が発露されるキスシーンやベッドシーンでは感動的な楽曲が掛かり、涙を誘う演出が施されるではないか。それがなぜ”異常だとされる欲望“であれば映画的斬新さや抑圧の象徴として描かれなければならないのか。「正欲」は”普通“を揺さぶり続ける。
「正欲」は欲望が共有されない寄る辺なさ、欲望を共有することで生まれる信頼を描くという点で根源的な”何が他者と関係を作るのか“という問いにまつわる物語である。”普通の“恋人/家族と同じように、その関係に安堵したり、一緒にいることを誓うことがあっていい。そして”普通“の恋人/家族には、本当にそれ程の信頼があるのか?という刺し返しも込められている。生き易い側である私のような人間の喉元へとその問いは突きつけられる。
他者に危害を加える欲望の行動化については劇中でも描かれている通り、裁かれなければならないのは間違いないし、その行動に対しては治療という目線で向き合うのが精神科医としての職務だ。しかし人間の奥底に広がる欲望そのものをどう見つめるべきだろうか。解釈も分析も拒絶される固有の欲望は当人が助けを求めない限りは何もできないし、何かしようとすること自体が奇妙であるという事実。一生をかけて考えなければならないのだろう。
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