マハーバーラタ/6-20.バガヴァッドギーター⑱~モークシャと隠退~

6-20.バガヴァッドギーター⑱~モークシャと隠退~

アルジュナは言った。
「マハーバーフ(クリシュナ)よ! フリシーケーシャ(クリシュナ)よ! サンニャーサ(隠退)とテャーガ(手放すこと)の真実をはっきりと知りたいです。ケーシニシューダナ(クリシュナ)よ!」

シュリーバガヴァーン(クリシュナ)は言った。
「カヴィ(聖者)たちはカーミャ(願望に裏打ちされた)のすべてのカルマ(行い)をニャーサ(放棄)することがサンニャーサであると知っている。ヴィチックシェーナ(賢者)たちは全てのカルマの結果をテャーガ(放棄)することがテャーガであると言う。

あるマニーシン(学んだ人)はドーシャヴァットカルマ(欠陥のある行い)を放棄すべきだと言い、また他の人はヤジニャ(儀式)、ダーナ(与えること)、タパス(鍛錬)のカルマは放棄すべきではないと言う。

バラタサッタマ(バラタ一族の最高の人;アルジュナ)よ、テャーガ(放棄)についての私の結論を聞きなさい。プルシャヴャーグラ(人の中の虎;アルジュナ)よ、テャーガには三つの側面があるとよく言われる。

ヤジニャ(儀式)、ダーナ(与えること)、タパス(鍛錬)のカルマ(行い)は放棄すべきではない。ヤジニャ、ダーナ、タパスはまさになされるべきで、マニーシン(識別のある人)にとってそれらはまさにパーヴァナ(浄化)なのだ。

しかし、パールタ(アルジュナ)よ、これらのカルマ(行い)でさえ、サンガ(執着)とパラ(結果)を放棄しながらなされるべきなのだ。これが私の明確で適切な見方である。

すべきでないカルマを放棄することが適切なのではない。モーハ(妄想)によってそれを放棄することはターマサ(タマス優勢)と呼ばれるのだ。

もし肉体のクレーシャ(苦悩)を恐れてそのカルマをドゥッカ(痛み)とみなして放棄するのであれば、その人はラージャサ(ラジャス優勢)であり、テャーガパラ(放棄の結果)を手に入れることはないだろう。

サンガ(執着)とパラ(結果)を手放し、『これはすべきことだ』と考えてカルマを行う。これがサートヴィカ(サットヴァ優勢)のテャーガと考えられるのだ、アルジュナよ。

サットヴァの考えを持ち、メーダーヴィン(知識を得た人)となり、迷いを解消したテャーギン(手放した人)は、アクシャラ(不吉)な行いを嫌うこともなく、クシャラ(吉兆)なことに執着することもない。

実際には、肉体を持つ者が全てのカルマを手放すことはできない。カルマパラ(行いの結果)を手放す人がテャーギンと呼ばれるのだ。

アッテャーギン(手放していない人)には行いの結果として、アニシュタ(望ましくないもの;地獄)、イシュタ(望ましいもの;天界)、ミッシュラ(それらの混合;人間の状態)の3つがあり、サンニャーシン(隠退者)にはそれは決して存在しないのだ。

マハーバーフ(アルジュナ)よ、全てのカルマの達成の為の5つのカーラナ(原因)については、クルターンタ(行いの終わりをもたらすもの;ヴェーダーンタ)で語られている。それについての私の話を聞きなさい。

それらはアディシュターナ(肉体)、カルター(行い手:自我)、様々なカラナ(行動器官、感覚器官、考え)、様々な種類のチェーシュタ(動くもの;プラーナなど)、そして5つ目はまさにダイヴァ(それらを統括する神々)である。

人がシャリーラ(肉体)、ヴァーチ(話す)、マナス(考え)で行うカルマは、適切なものでも、そうではないものでも、これら5つがヘートゥ(要因)となっている。

そうであるとき、一方で、考えが未熟である為にケーヴァラ(純粋)であるアートマーをカルター(行い手)と見てしまう人は、ドゥルマティ(歪んだ考えを持つ人)によってそれが見えないのだ。

アハンクルタ(私がこれをした人だ)を持たない人、ブッディ(知性)が影響されることがない人は、たとえこれらの人々を殺す役目を持っていたとしても、殺すことはなく、縛られることもない。

ジニャーナ(知識)、ジニェーヤ(知る対象)、パリッジニャーター(知る人)は3つのカルマチョーダナー(行いを推し進めるもの)である。カラナ(道具)、カルマ(対象物)、カルター(行い手)は3つのカルマサングラハ(行いの構成要素)である。

ジニャーナ(知識)、カルマ(行い)、カルター(行い手)はグナ(質)の違いによって異なっているものだということが、グナの教えの中で語られている。それらについても聞きなさい。

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