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よいトラウマ、わるいトラウマ

小学生低学年の頃に、
知らない街に置き去りにされたことがあった。

ことの発端は、
兄とスタンプラリーに出かけたことだった。
私のスタンプラリー帳を押したい兄と
自分のは自分で押したい私とで喧嘩になったのだ。

電車を降りた瞬間に
ラリー帳を奪われて知らない街に置き去りに
されてしまった。

初めて降りたプラットフォームで
私は呆然とした。

どうしよう。
ここはどこ?お兄ちゃんはどこにいったの?
私のスタンプラリーはどうなるの?

怖さよりも
スタンプラリーが続けられない悔しさで
悲しくなった。

早くお母さんに言わなくちゃ!

10円玉を握りしめて公衆電話を探した。
電話口で母は兄のことを怒ってくれるだろうと
期待したのに、受話器からは全く想像しない言葉が出てきた。

「自分で帰ってらっしゃい」

私が8歳の頃といえば、まだGPSなども流行って
はおらず、身代金目当ての誘拐があったような時代だ。

にもかかわらず、母は見知らぬ街から自力で
帰ってこい、と言ったのだ。

「お兄ちゃんが盗った!」
わるいことした兄を怒ると思ったのに。

「お金は持ってる?駅員さんに帰り方を
聞きなさい。口があるでしょ」

心配どころか、課題を与えて母は電話を切った。

信じられない!
わるいことした人が怒られないなんて!
悲しむ暇もなくムッとしながら駅長室に向かった。

「すみません!お兄ちゃんとはぐれちゃって。
○○駅に行くにはどうしたらいいですか?」

スタンプラリー用1日乗車券を握りしめ
「オトナ」に尋ねた。

「反対側に渡って○○駅で降りて、
緑色の○○線○○行きに乗り換えてね。
ひとりでいける?」

「大丈夫です」ムッとしながらうなづいた。

悔しさで興奮し涙が滲んでいた。

駅員さんに説明された通り、乗り換えて
いつもの最寄駅にすんなりついた。

家についても悔しはが晴れずに
「お兄ちゃんが盗んだ!」と怒りを露わにすると
「帰ってこれたんだから、また行けばいいでしょ」と母。
全く、兄弟喧嘩を取り合ってくれなかった。

人によれば、この幼少期の置き去り事件が
人間不信や乗り物恐怖のキッカケに
なるかもしれない。
兄に虐められた被害者として。
ずっと行動しづらい人として
居続けることもできる。

私の場合は、
・反対側のホームの電車に乗れば元来た駅まで戻ることができる。
・1日乗車券があれば、線内どこまでも行くことができる。
・わからないことは、周りにいる人にきけば
優しく教えて貰える。
・交番でお金は借りることができる。
・1人で知らない場所に来ても帰ることができる。

ということが、
自動的に身体にインストールされた。
そう、今思えば
小さな私の小さな成功体験になったのだ。

よいトラウマとわるいトラウマ。
トラウマには2種類存在するという。

私の行動力の源は、この事件で得た
「何が起きても大丈夫」「1人でできた」という
言わば「よいトラウマ」から来ているのかもしれない。

置き去りにされて良かったとすら、今は思う。
どんな出来事にもよい解釈がある。

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