金融機関が一時期たくさん破綻した。 僕の勤めていたところも時代の流れに逆らえなかった。 よくニュースで破綻が流れていたが、内部については一般にはあまり知られていないから、今回どんな感じだったか話してみます。
①地域信用組合の日々
僕が勤めていたのは、都内の信用組合であって、いわゆる「銀行」の中でも最も規模が小さいもので、顧客も地域の中小企業や商店と住民がほとんどだった。
僕は渉外係といって、一応営業だった。業務としては、自転車で移動し、商店や個人宅で定期預金や定期積金や年金口座を開設や更新してもらったり、当座や普通預金の集金を商店や個人宅で行っていた。僕のスキルが未熟であり、融資係がいたのと、今考えれば経営が苦しかったのか、3年勤めて1度も融資はやらなかった。
地域に根差している特徴として、月1回地元の商店会の協力で、広場で机ならべて、夕方に職員数名でお客さんやその子供らが来て、じゃんけんをして、勝ち続けると高級な果物とかあげたり、すぐ負けるとティッシュやサランラップとか粗品をあげるようなイベントに駆り出されていた。
あと銀行の人もやっているかもしれないが、顧客が亡くなると速攻でお通夜や告別式のお手伝いも重要な業務なのだ。相続もあるし、何より札勘定のプロに、葬儀に集まるお金を数えてもらうと、とても感謝されるから。
②異変
大学をでて、最初の2年は割と普通に業務していたが、3年目の途中から、信用組合の資本は株式ではなく、組合員の出資金なのだが、出資の増設をお願いするという業務をやらされるようになった。しかも実際にお金は預からず、紙に名前を書いてもらい、「出資予約」と名付けていた。
秋ぐらいのある日、支店長に決済の承認をもらっている時に話しかけられた。「君は真面目だし、今は言えないんだが、俺個人についてきてくれないか?」 何のことだかわからず「ええ、まぁ...」とあいまいな返事をした。
その夜、同期で他の支店の友人と飲みに行き、「今日支店長から変なこと言われたんだけど。」「まぁ、頑張ろう」なんて話した。
③銀行破綻当日
翌日、朝礼で、「本日のは業務は最低限で終わらすように」、と指示があり、そのとおり終わらした。夕方前に警備会社の車が現れて、ジュラルミンケースに億単位の現金を持ち込んだ。(銀行は通常あまり店内に現金を置かない)確か日銀から来たんだったと思うが。
そして全職員が本店で呼び出され、理事長(銀行でいう頭取)が話をした。
「経営が悪化し、破綻することになった。事業は他の信用組合に譲渡することになった。」あっさりとした話だった。
血の気の多い、ある若手渉外の人が、「たったそれだけですか?そんなんでいいと思ってるんですか?」と食ってかかったものの、理事長は、「申し訳ありませんが、そうなります」と言うだけだった。
金融機関は皆、金曜日に破綻する。土日に準備して、翌週月曜から、解約に大量に人が来るのを対応できるようにする為だ。ウチもそうだった。
④ショックと地獄
大きくショックを受けた僕は、翌日とりあえず車を運転しようと中古のクレスタを走らせたが、あまりに動揺していたからか、駐車場で隣の車をこすってしまった。
そして翌週から、先週までニコニコしていたお客がみんなガラッと変わり、人を殺すような目で、にらまれ、解約の嵐だった。この日から自転車で店の外に出るのもしばらくは恐怖でしかなかった。
⑤新世界
3年目から働いていても空しかったことが多かった僕は、学生時代に英語系のサークルに入っていながら、英語は全然できず、もう一度やり直せるなら、英語を勉強したいと常々思っていた。 事業譲渡先にお世話になる気はなく、採用試験も拒否した。
海外で暮らせないかと思い、本屋で調べて、ワーキングホリデーという働いたり、学校に通ったりを最大1年できるビザがあることを知り、過去3年旅行したアジア、アメリカ、ヨーロッパ以外の国であるオーストラリアに行くことを決意し、数か月後、日本中が沸いたサッカーのワールドカップが始まる半月前に実行した。
同期入社は10人くらいだったのだが、譲渡先には何名か行ったが、結局全員退職した。それでもいまだに、2、3年に1回、僕が主催して同期会をやっており、昨年も集まった。ほとんどが結婚し、子供もでき、平和に生活している。
もう、あの時の悪夢は、笑い話なのだ。