日本とインドの意外な絆
インド独立に果たした日本貢献
第二次世界大戦の終戦からちょうど2年後の1947年8月15日、インドはイギリスの植民地支配から独立しますが、その独立に意外にも日本が貢献していました。
当時のインド独立運動家はインド国内だけでなく、日本・中国大陸・東南アジアなど国外に逃れて活動していました。日本では、ラシュ・ビハリ・ボースやA・M・ナイルが言論を中心とした運動を進め、日本の軍幹部もこの動きを支援。
第二次世界大戦の開戦により、東京を拠点にインド独立活動家によりインド独立連盟が結成され、「イギリス打倒」の共通目的が生まれたことにより、インド独立連盟と日本政府は協調関係を確立しました。日本政府は、インドを占領する意図は持ち合わせていないし、インド独立連盟を日本のために利用するつもりはないと、一貫して言明していました。
1942年当時、日本軍はシンガポール・マレーシア・ビルマなどに進出・占領し、その後、モーハン・シン大尉が中心となり捕虜となっていた英印軍将兵の中からインド国民軍を創設。1943年、日本政府及びインド独立連盟は、ドイツから、若きインドの独立運動家であったチャンドラ・ボースをインド国民軍の司令官として招聘しました。
1944年、日本軍は北東インド地方の第一都市インパールへの侵攻を企て(インパール作戦)、これにチャンドラ・ボース率いるインド国民軍も参加しました。北東インドを日本軍と一緒にせめて英国軍を疲弊させ、インド独立に結び付けようとしたのでした。しかしこの作戦はあまりにも無謀で、結局多数の死傷者を出して敗退しました。終戦後のインド独立を経て、チャンドラ・ボースは「インド独立の英雄」として扱われるようになりました。
このように在外インド独立運動家を支援したことや、また、太平洋戦争で日本が西欧に対して戦いを挑んだことは、インドの独立を早めた一つの要因であると言えます。
パール博士の無罪論
1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて東条英機元内閣総理大臣を始めとする日本の指導者が戦犯として裁かれましたが、この裁判の判事11人の内、インド代表判事のパール博士だけは、全面的に反対、被告全員の無罪を主張しました。「戦争する事自体が犯罪とされたことは史上かつてなかった」、また、「主要国の多くも同様の行為をしており、もしこれが犯罪であるならば、国際社会全体が罪を犯していることになる」と述べました。このパール判事の見解を知った日本人被告の一人は「暗雲の世界に差し込んだ一条の光のようだ」と述べたと伝えられています。
上野動物園の象
戦争中、日本各地の動物園では、猛獣が毒殺されました。戦火が及んだ場合に、猛獣たちが脱走することを阻止するためでした。
戦後の民主主義学習方針の一つに子供議会がありました。国会や地方議会を模倣して子供たちが議論し、外に訴えようとの趣旨でした。1949年、東京・台東区の子供議会は、象が見たいと切望し「上野動物園に象を」と決議しました。これに国会が動き、子供たちからネルー首相宛に手紙が届けられました。ネルー首相は感激し、南インドの象に娘の名前である「インディラ」と命名に、日本の上野動物園に寄贈しました。
象のインディラは1983年この世を去りましたが、当時ネルー首相の後を継いで首相になっていたインディラ・カンジー首相は、このニュースを聞いて直ぐに動き、翌年には自ら命名した牝象2頭を上野動物園に送っています。
インド国会は毎年広島の日に黙とうする
日本人が知らない、インド人の日本への想いを示していることがあります。平和を愛するインドは、現在でも毎年8月6日には、インド国会において広島・長崎の原爆被爆者を悼んで黙とうするそうです。びっくりするぐらい心温まる話です。
参考図書:2017年「最後の超大国インド」平林博、2008年「知られざるインド独立戦争」A・M・ナイル