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人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答~読書記録333~

2009年 茂木健一郎/南直哉僧侶 対談集だ。


我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか----。人類誕生以来、問われ続けてきたアポリアに、脳科学者と禅僧が挑む。死はすべての者に平等に訪れる。けれど誰もが望んでこの世に生まれてくることはできない。つまり、「私」に根拠はないのだ。だからこその苦、だからこその人生。それでも、その苦しみを引き受け、より良く生きるための方法はある。無常の闇に射す一筋の光明を探すため----。科学と宗教を代表する二人の知の怪物が、存在を賭けて挑む、脳と仏教の真剣勝負!

南直哉(じきさい)
青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職(ともに曹洞宗)。1958年長野県生まれ。1984年、出家得度。曹洞宗永平寺で約二十年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

『ブラタモリ 第214回 -恐山〜なぜ恐山で死者に会えると思うのか?〜-』(NHK、2022年9月10日放映)出演


現在、ネットで絶賛大炎上中の茂木健一郎先生であるが、この頃は他人の話を素直に聴けるというか好感が持てるんだなあ。の印象であった。
南住職は、釈迦の言われた「無記」わからないものはわからない。それで良いを説かれ、茂木健一郎先生も納得されている。
うううむ。中村父子と付き合う前の茂木健一郎先生は良かったじゃないか。
悔しいよ!の一言に尽きる。

ここに告白する。私は、南直哉さんに自分の未来を言い当てられてしまったように感じる。「行雲流水」。きっとそれ以外の生き方はないのだろう。
(本書より)

行雲流水とは、空を行く雲や水の流れのように自然体であることを意味する語。転じて、物事に深くこだわることなく、ただ自然の成り行きに身を任せること。なので、まあ、茂木健一郎先生の生き方を見るとそうなのかなとも思う。

茂木健一郎先生がテーマにしているクオリア。
人の意識を脳科学で説明しようというものだ。

南住職は座禅と結び付けて考えておられる。

座禅をしていると、クオリアというものがよくわかるんです。
なぜかというと、座禅で日常意識がどんどん脱落していくと自意識自体が変化して、それまでとは違う存在の質というものが露わになってくるんです。
(本書より)

茂木健一郎先生は仏陀の説かれた「無記」に惹かれたという。

この書を読む限り、南住職を尊敬し、傾聴する素直な姿に好感が持てるのだ。

南住職も対談に当たり、茂木健一郎先生の著書を読み込み臨まれたのだな、と感動する。

人はどこから来てどこへ行くのか。人の意識とは?
わからないものはわからない。
信じるということにしても、キリスト教やイスラム教の言う信じるという意味ではなく、もっと自由な広い意味でよいのだなと思うのであった。


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