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禅師二人 横浜市緑区長津田 曹洞宗慈雲山大林寺 私の百寺巡礼212

長津田駅から徒歩数分。広い敷地にゆったりとした造りの寺院。
それが大林寺の印象だ。
こちらも又、東急花御朱印巡りの1つであり、それで知ったのだ。


大林寺は曹洞宗に属する寺院で、山号を慈雲山という[。釈迦如来を本尊とし、長津田を領していた旗本、岡野家の菩提寺であった。岡野氏は小田原北条氏の旧臣であり、1591年(天正19年)に旗本に取り立てられて長津田村に500石の知行を得た。
寺伝によると、創建は1570年(元亀元年)長津田の初代領主である岡野平兵衛房恒の父、板部岡江雪斎の開基、開山は愛甲郡三田村(現在の厚木市)の清源院(厚木市三田に現存)5世住職、英顔麟哲和尚という。本寺は清源院で、長津田5丁目にある陽向山随流院は大林寺の末寺である。
創建について、『新編武蔵国風土記稿』は異説を伝えている[5]。同書によると、開基は岡野房恒自身が父の菩提のために建てたもので、年代は不詳だが「天正か文禄のころ」と記述している。岡野房恒は大林寺の所領安堵のために幕府に願い出て、1649年(慶安2年)に徳川家光から寺領15石の朱印状を受け取った。この朱印状の写し(慶安2年8月24日付)は、寺に保管されている。


多分、桜の季節がいいのかもしれない。
寒桜が見事でした。
門の仁王像
立派な門
道元禅師に瑩山禅師
長津田十景の1つ、大林寺晩鐘
この閻魔さま、怖い。

住職宅の裏口からでないと入れない稲荷神社。デジカメの望遠機能で裏の駐車場から撮影。
これだけの素晴らしい池に梅の木に禅を組む像を近くで見られないのは実に勿体ない。

広々とした境内は、見所が沢山。
曹洞宗寺院では、道元禅師の像はよく見かける。そして道元禅師について書かれた本も沢山ある。
しかあし!
私の無知ゆえか、道元禅師に並ぶ像を観た時に、瑩山って誰?だった。
対応してくださった若い女性(多分、住職夫人だろう)に瑩山禅師について尋ねるも、よく知らないとの事。道元禅師と同一人物みたいな感覚であった。
申しわけないのだが、東急花御朱印巡りの寺院の中には、選ばれて可哀想な例もあると思う。住職は大抵は法要などで出かけていると、対応は家族。
ネットでの宣伝効果もあり、毎日のように参拝者というか、御朱印を貰うだけの人も来る。全ての神社寺院が書き置きのスタイルが東急花御朱印巡りだが、それでも対応は大変だと思う。
四国や秩父の札所巡りでは、住職がいなくてもお寺の家族、スタッフが手馴れている。秩父の札所の奥様、娘さんらは達筆だし、とにかく書き入れが速い!
と、現在は、忙しいお寺のスタッフに聴くよりも、自分で調べる時代。

曹洞宗の大本山・總持寺の開祖である瑩山紹瑾禅師は、お釈迦様の教えである「正法」を全国へと広め、曹洞宗の教団発展の基礎を築きました。
文永元(1264)年10月8日、越前の国、多禰邑の豪族・瓜生邸にて生を受け、熱心な観音信者の母に育てられた瑩山禅師は、幼少のころより信仰心に目覚め、わずか8才にして出家の志を発します。
世相を離れ、ただひたすらに仏法の真意を求めて弁道に励んだ禅師は、のちに總持寺をはじめとした数ヶ寺の建立とともに、多くの優秀な弟子を輩出し、教線の拡大をはかります。その後も衆生と信仰との橋渡しとなり、数々の偉大なる功績を残して、正中2年(1325)9月29日、62才で遷化。その生涯は、求道と布教にささげられたのでした。
文永8(1271)年、8才の年に永平寺に上り、徹通義介禅師について出家をした瑩山禅師は、13才で菩薩戒を受け正式な僧侶となりました。その後28才で阿波の城満寺の住持に迎えられ、のちの4年間で70余名の弟子に仏戒を授け、やがて大乗寺へと移り、義介禅師のあとを継いで2代目の住職となります。
58才の年には能登国櫛比庄の諸嶽寺を寄進され、現在の大本山總持寺の起源となる禅寺へと改めました。生涯を布教に投じた禅師は、祈祷や追善供養などにも積極的に取り組み、また当時では珍しい男女平等の姿勢を打ち出すなど、老若男女に門戸を開き、多くの人々の救済に努めました。
(鶴見・總持寺のページより

道元禅師が有名すぎる故に、知らないでいたが、大本山總持寺の開祖であったのか。
というか、今までに訪ねた曹洞宗寺院は道元禅師の話ばかりだったからかもしれないな。

曹洞宗のホームページを見ると以下のように書かれている。
「曹洞宗とは『道元禅師』が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。このお二方を両祖と申し上げます。曹洞宗には大本山が永平寺と總持寺と二つありこれを両大本山と言います」
二つある理由についての説明はない。道元が建立したのが、大佛寺、後の「永平寺」であり、瑩山が能登半島にあった諸嶽観音堂の住職からこの寺を譲り受け、改名したのが「總持寺」である。(能登で570余年もあったが、1898年、火事で焼失したため横浜の鶴見へ移転した。)
大本山が二つになった経緯は永平寺三世徹通の時代に道元の只管打坐に基づく厳格な禅風を守ろうとする保守派と柔軟に教えを広めようとする徹通等進歩派に分かれ、徹通は永平寺を去り大乗寺に拠点を置いた。その弟子瑩山は曹洞宗の大衆化に努め、台密や東密、白山信仰や山王権現信仰、熊野信仰など、さまざまな教えを取り込み、多くの逸材を育て、全国各地で驚異的発展を遂げた。更に室町後期になると永平寺をも占拠するようになり、実質的に瑩山派により曹洞宗が再統一された。そのため道元が開いた曹洞宗の原点であり聖地である永平寺と曹洞宗発展に多大の貢献をした中興の祖である瑩山が開いた總持寺がともに大本山になったのであるが、朝廷から大本山の認定を受けたのは、總持寺が1322年で永平寺は1372年と總持寺の50年後となっている。

Yahoo!知恵袋などでは、曹洞宗寺院は、永平寺派と總持寺派と仲が悪い。騒動衆だ、などと揶揄する人もいる。

ここ大林寺は横浜市の寺院であり、横浜線で東神奈川駅まで行けば、鶴見の總持寺には簡単に行ける。
總持寺派であると思う。
それゆえに、禅師2人の像なのか?

何の前知識もなく、スマホのGoogleマップを頼りに訪れた寺院だが、今までに知らずにいた事がわかり感謝であった。


寒桜 禅師二人 堂々と

曹洞宗慈雲山大林寺
横浜市緑区長津田6-6-24
JR及び東急長津田駅より徒歩5分

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