『ペストの記憶』 この時代に生きる我々が読むに値する記録
カミュの『ペスト』に続いて、ペスト関連作品を読もうと思ったのはやはり、新型コロナウイルスのパンデミックという特殊な環境下にあるからだった。
毎週録画しているNHKの『100分de名著』で特集されたということもあり、予備知識なしで読み始めることにした。
作者であるダニエル・デフォーの名前も、どこかで聞いたことがあるなぁという程度だったので、この作品の一人称はダニエル・デフォーその人であると思い込んだまま読み始めることになった。
書き手は1664年9月にペストがオランダに来たという噂話からこの記録を始める。その頃はまだイングランドには関係のない話だと思っていたが、同年11月末から12月のはじめにロンドンでペストの初めての死者が出て、状況は一変する。
カミュの『ペスト』では、原因不明の鼠の死からペストの蔓延がそれとは知られずに始まるのだが、この作品では最初から「ペスト」の流行について記述する姿勢が貫かれている。ロンドンに住むひとりの馬具商人の男が、ペストが猖獗を極める街の状況を、噂話や自らの体験、観察によってつぶさに書き留めるレポートという形である。
文章構成はお世辞にもうまいとは言えない。死亡報告書の死亡者数を詳細に書き記したと思えば、その数値は当てにならず、実際はもっと多かったと度々記している。緻密なデータを記述しながら、個人の感想を惜しげもなく披露する。これは、この記録を残した人物のダブルスタンダードでブレのある見識を示唆している。
ペストが流行し始めたロンドンに留まるべきか逃げるべきか悩んだ末、逃げる決心を固めたものの、使用人の女性と自分自身が体調を崩して留まることになってしまう。「ぼく」は、確固たる意思を固めてロンドンに残ったわけではなく、たまたま居残らなければならなかった力なき傍観者として、ペストの猛威に翻弄されるロンドンを見つめ、この記録を書き続けることになる。
もうひとつ、この記録に頻繁に現れる表現として、「前にもお話ししたように」、「これから何度も話す機会があるだろう」、「あとでまた触れるかもしれないが」などがある。つまり、同じような話が何度も繰り返され、行きつ戻りつする。噂話や奇妙な薬、ペストにかかって奇行に走る人々、閉鎖された家を監視する監視人、家屋閉鎖の是非、死の車を運ぶ貧しい雇われ人、神のご守護……。伏線と見て取れなくもない記述なのだが、やや多すぎると思えるほど頻繁に繰り返される。
このような文章構成は、ある意味で市井の一般的な商人が書く記録として、非常にリアリティが高く、ダニエル・デフォーその人がまさに自分の体験談を書き記しているものだと最後まで信じて読んでいた。
記録の終盤にはこのような記述がある。
このほかに、ムーアゲートの外に広がるムーアフィールズの、現在オールド・ベスレムと呼ばれる通りに入るあたりにも埋葬地があった。ここはそれからかなり拡張された。ただし、すべての土地がこのときに公有化されたわけではなかった。
(注:この記録の著者もまた、この地の下に眠っている。数年前に他界した姉がここに埋葬されたので、彼自身がそれを望んだのである。)
この段落を読んだときは、これをそのまま受け取って、後の編集者が書き加えたものなのだろうと信じ込んでしまっていた。
しかし、この記録の最後になって、この文章はダニエル・デフォー自身ではなく、「H.F.」というイニシャルの人物の手による物であったことが明らかになる。これには衝撃を受けてしまった。
ペストが蔓延るロンドンから逃げ遅れた馬具商人による、拙い偏見に満ちてた、それでいて妙に生々しい記録であると信じていたものが、別の人物によって書かれた物語だったのだと愕然としてしまったのだ。
調べてみると、ダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』の作者で、そういえばどこかで聞いたなというレベルの人物ではなかったのである。英文多読をやっていたときに、読んだ原文に名前があったのだが、すっかり忘れていた。自分の記憶力のお粗末さに呆然とする。
しかしその一方で、新型コロナウイルス禍の現代において、この作品を市井の一市民が書き記した生々しい現実の記録として読んだ体験は得がたい物だったと確信している。
もちろん、ペストと新型コロナウイルスは、その伝染経路や致死率、症状などあらゆる面で異なっている。しかし、感染しているかどうかの確認が困難であった17世紀の人々にとっては、一見すると健康そうに市内をうろつく人々がひょっとすると感染源かもしれないという恐怖、つまり我々がまさに今感じている恐怖を体験していたのである。
ダニエル・デフォーは1660年生まれなので、ロンドンにペストが流行した年は5歳から6歳にかけてである。この記録は、同時代的に書かれた作品ではなく、1722年に刊行されている。1720年にマルセイユでペストが流行していたことを受けて、あの災厄が再びロンドンにやってくるかもしれないという恐怖感から書き記されたものなのかもしれない。
デフォーには馬具商人の「ヘンリー・フォー」というおじがいたことが知られていて、この作品の「H.F.」はこの人物なのではなかろうかと考えられているらしい。
恐らくは、デフォー自身がヘンリー・フォーおじさんから語られた物語を、当時の様々な資料を紐解いて書き連ねた作品なのだろう。訳者である武田将明氏も、その可能性を強く意識して翻訳したと話している。
この時代を生きる我々にとって、当時の状況が手に取るようにわかるこの記録は、読むに値するものだと思う。ただちょっと読みにくいけど(汗)。
以下、この記録からの引用を少し。これを読んだだけでも、この記録の根底にあるリアリティが感じ取れるのではないかと思う。
あのように力ずくで家屋を閉鎖し、人びとを自分の家に引き止めたというより監禁したのは、結局ほとんど、いやまったく役に立たなかったこと。それどころかあれは有害でさえあった。というのも、望みを断たれた人たちがペストを抱えたまま外を徘徊する原因をつくったのだから。家を閉鎖されていなければ、この人たちはベッドの上で静かに亡くなっていたはずなのに。
そして実に多くの人びとが、行きは健康だったのに、死神を連れて帰宅することになった。
ペストは主として貧民のあいだで流行していたのだが、それでもこの貧民たちがいちばん向こう見ずで、病魔を恐れず、ある種の蛮勇を奮ってあちこちで働いていたことは、はっきり言っておかないといけない。
あらゆる商売が停止され、雇用も取り消された。仕事が絶たれ、貧しい人びとの飯の種が尽きてしまった。
もしも突然、すべての職人が仕事を奪われ、働くことができなくなり、まったく賃金をもらえなくなったとしたら、この町がどれだけ悲惨な状況に陥ってしまうかを。
というのは、乗合馬車は危険がいっぱいで、みんなそれを承知で利用する気はなかったのだ。なにしろ、前に誰が運ばれたか分かりゃしないのだから。
この辛い時代のなかでも最悪の日々に数えられるのが九月初めで、このころ善良な人びとは、この悲惨な町の人間を完全に滅ぼすよう、神がお決めになったのだ、と真剣に思い始めた。ロンドン東部の教区をペストが本格的に襲ったのは、まさにこの時期だった。
苦痛と絶望が高まったとき、死を目前にした哀れなものたちが発した、あの呻きとあの絶叫、その音をぼくが聞いたとおりに再現できたらいいのにと思う。この記録を読む人に、あれを聞かせられたら。そう思うといまにも聞こえてきそうだ。いや実際、あの音はぼくの耳のなかで、いまだ鳴り響いているようなのだ。
けれども悲しいことに、この時期には、誰もが自分の身を護るのに頭がいっぱいで、他人の不幸を気にかける余裕などなかった。なにしろ、死神がすべての家の門前で待ち構えている状況、いや、多くの家ではすでに家族が死神に取り憑かれている状況で、しかももはやなす術もなければ、逃げる場所もなかったのだ。
行政当局の示す数字が正しいと信じる根拠はないし、彼らの混乱ぶりを見るにつけても、事実として正確な統計を取れる状況ではなかったのだから。
病気に感染した者には、どうやら他人に病気をうつそうとする傾向、というか邪悪な習性があると思われていたせいだった。
すなわち、感染は気づかないうちに拡大しており、見た目には感染していない人たちが感染源となっていたのだ。この人たちは誰から病気をうつされたのかも、自分が誰にうつしたのかも、まったく自覚を持たなかった。
疫病が激烈に感染を拡大している時期には、あっという間に病人が増えていき、たちまち死んでしまうので、いちいち誰が病人で誰が健康かを調査してまわることも、また閉鎖の必要なすべての家をしっかり監視することも不可能だし、実際のところ無意味でもある。
そして、疫病流行の季節も半ばを過ぎ、いよいよ被害が拡大すると、ついに多くの人びとが危険に鈍感になり、さほど心配もせず、警戒心も麻痺しはじめた。
ペストとは大火事のようなもので、発生したところに数軒の家屋がとなり合っているだけならば、その数軒を焼くことしかできない。あるいは一軒だけの、孤立した建物が火元であるならば、その火元の建物が焼失するのみである。ところが、家屋の密集する町や都市で発火して、そのまま燃え広がるのであれば、火はどんどん勢いを増していき、激しい炎は留まるところを知らず、ついには燃やせるかぎりのものを燃やし尽くしてしまうのだ。
それでも、貧しい連中の頭にはなにを叩きこもうとしても無駄で、彼らは相変わらずその場かぎりの気分に従って行動していた。病気になれば大いに泣きわめくのに、健康なうちは愚かなほど自分の身を心配せず、無鉄砲かつ片意地だった。
ところが、まさに同じ地域にそれが襲いかかる少し前まで、あるいはそれが通りすぎるとまもなく、市民はまったく別人のように見えた。そんなとき、誰もがあの人間に共通の気質をあまりに濃く示していたことを、ぼくは認めないわけにいかない。すなわち、危険が喉元をすぎれば、救済されたことも忘れてしまうのだ。
これ以上書き進めることはできない。市民のあいだで感謝の思いが褪せ、昔の悪い習慣がなにからなにまで戻ってしまったことは、ぼく自身がつぶさにこの目で見た事実である。しかし、その原因がどこにあるのかを考えるという、愉快ではない作業に手をつけてしまえば、やかましい不平家か、ひょっとすると不等な非難をする輩と見なされてしまうだろう。だから、拙いけれども嘘偽りのない、ぼく自身の詩によって、この大災害の年の記録を締めくくろうと思う。